弘川寺(ひろかわでら)地図

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天武嵯峨後鳥羽三天皇の勅願寺。
本尊 薬師如来
弘川寺は、葛城の麓にあり、
天智天皇4年(665)に役行者によって開創された。
畠山氏の兵戦で焼失以来500年ぶりに再建した。
西行法師古墳 西行堂
 西行法師は晩年の文治5年(1189)、当寺の座主空寂上人の法徳を慕って来られ、
ここに住み、
「願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ   西行」
の願い通り文治6年(1190)2月16日、73才当寺で入寂(僧が死ぬこと)された。
 
 歌僧似雲法師は、「五畿内志」の作者並河五一郎から西行上人終焉の地は
藤原俊成の歌集「長秋詠草」の所載により、河内の国弘川寺であることを教えられ、
江州石山寺に祈願の後享保17年(1732)2月16日に西行の古墳を発見した。
 その後西行堂を建立し、境内に「花の庵」を建てて住み、81才の生涯を西行の
顕彰に尽した。
 百人一首86⇒⇒⇒
 西行法師⇒⇒⇒

長秋詠草

円位ひじりが歌どもを伊勢内宮の歌合とて判うけ侍りし後、また同じ

き外宮の歌合とて思ふ心あり、新少将にかならず判してと申しければ、

印つけて侍りけるほどに、その年(去年文治五年)河内のひろかわ

といふ山寺にてわずらふことありと聞きて、急ぎ遣わしたりければ、

かぎりなく喜び遣わして後、すこしよろしくなりて、年のはての頃京

に上りたりと申せしほどに、二月十六日になむ、かくれ侍りける。か

の上人先年に桜の歌多おほく詠みけるなかに

ねがはくは花の下にて春死なん
 
そのきさらぎの望月のころ
かく詠みたりしを、をかしく見たまヘしほどに、つゐにきさらぎ十六

日望の日..終りとげける事、いとあはれにありがたくおぼえて、もの

に書きつけ侍る

ねがひおきし花に下にて終りけり

 はちすの上もたがはざるらん 

 
 西行法師像

天然記念物 海棠(かいどう) 樹齢350年  開花 4月中旬
隅屋桜(すやさくら) 唐獅子の間 文久3年(1863)従三位祝部成節筆

 弘川寺は、天智天皇の4年(665)役行者が法華経二十八品に配し

て金剛・葛城の連山に28ヶ所の霊場を開かれた随一で、大阪府史蹟

指定の古名刹である。天武天皇5年(676)の夏、天皇は同寺に請

雨の祈願を命じ、 白鳳8年(679)の春行幸し、勅願寺となった。そ

の後天平9年(737)には行基が同寺で修行し、弘仁3年(812)には弘法

大師嵯峨天皇の命にはらて中興され、密教の霊場と定められた。
文治4年(1188)後鳥羽天皇が御病気の時、同寺
の座主空寂上人は
宮中に於て尊勝仏頂の法を修し回癒したので、その功により

奥の院善成寺を建て、寺号の勅額を賜わった。
また、歌聖西行法師が晩年の文
治5年(1189)、空寂上人の法徳を慕っ
て来、ここに居住し、翌年2月に73才で
入寂された。
寛正4(1463)年、河内国畠山氏の戦いの際、堂宇を焼失したが、本

尊薬師仏、勅額などは兵火を免れ、今日に現存奉安している。