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上田家(重要文化財 屋号「壷屋」)

 
間取り⇒⇒⇒
 建物の入口は、西側に設け、道路境より半間後退しているのも異例である。
 中町筋(南側)より見た屋根。
屋根も、切妻造りの四方に庇を廻したような入母屋造りとしており
他家とは異なっている。
つし二階建てで、二階の軒は低い。
大工町通り正面を西向きに見たところ。
左が上田家。
 左の写真より、少し角度を変え、
上田家の北側を見たところ。
外観は重厚な感じを与える。
南北の通りから見たところ。
正面玄関 みせのま
なかのま 「なかのま」にある箱階段
むしこ窓 煙出し屋根 袖壁
鬼瓦に壷の模様がある。
 当家は、葛下郡片岡城主片岡新助の子孫で、元亀元年(1570)に移住したといわれ、今西・尾崎家とともに、惣年寄を務めるかたわら、屋号を「壺屋」と称し、江戸時代初期は酒造業も営んで、今も鬼瓦に「壷」の模様をあしらっていた。 
 旧北町にあり、主屋の西面にも道があって角地に建つ。大工筋に戸口を開かず南側に当たり、棟も南北棟となっている。道路から半間ほど後退して建っている。
 主屋の建設は、つし二階に打たれていた延享元年(1744)の祈祷札があり、この時期より遡るものと思われる。
 その後、天保九年(1838)には、幕府の巡検は一行が当家で宿泊するにつけ、大修理が施されていたので、先の修理では、半解体工事にとどめ、天保期の姿に修復された。
 建物の入口は、西側に設け、道路境より半間後退しているのも異例である。
 屋根も、切妻造りの四方に庇を廻したような入母屋造りとしており他家とは異なっている。つし二階建てで、二階の軒は低い。大壁造の妻をみせた外観は重厚な感じを与える。構造面では、棟通りに対してほぼ対称的な梁組は古式で、入口を西に構えているのも珍しい。
 内部は、北側を通り土間、南側に六間取りの部屋を設けているが、「みせのま」の床の高さは、一段下がるのが普通であるが、当家は他室と同じ高さになっている。先の修理で判明した当初の資料によると、「だいどころ」と「なんど」境に帳台構(ちょうだいかまえ)、「なかのま」東南隅に二段の戸棚・南側縁側には、床、押入れ等の痕跡もあった。
 北を土間、南を整形六間取とするが一般的な間取りとくらべると変型になる。
 土間境は板戸を引違いにした内側に一本溝があって雨戸状の引戸が入る。現在は「なかのま」の上手が「ざしき」となり、東側にトコ・棚を設けている。上手奥の「なんど」風の部屋と「だいどころ」境は二枚の板戸を袖壁に引込んでいる。他の家の納戸構とはその取付く場所も異なり、突止構の終末期を示すものと思われる。「ざしき」等は後に改造されているが、土間は古く、改造が少ない。今井町での上層町家が発展していたことを示す好例である。
 西側南方は、縁側となり、西側道路境より後退しているのは、狭い白州として簡素な裁きが行われたものとみられている。

 建設年代は明らかでないが十八世紀中頃であろう。昭和五十六・五十七年に屋根葺替と部分修理を行った。