笠置寺・笠置山城跡地図

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正月堂 十一面観音
京都・南山城
十一面観音巡礼
ポスターより
 笠置寺本尊弥勒大磨崖仏の礼拝堂である。またの名を正月堂と言う。
 天平勝宝4年(752)東大寺実忠和尚が千手窟で修行の折感得された
十一面観音をまつる。
現在奈良二月堂で営まれるお水取りは第一回目にこの正月堂で営まれたものである。
 創立の建物は元弘の戦で焼失したが、室町時代東大寺貞盛和尚により復興された。
後醍醐天皇行在所跡(あんざいしょ)
 標高290mの笠置山の山頂にあり、
「太平紀」に記された天皇の霊夢や楠木正成と倒幕の計画をたてたところとして知られている。
 元弘元年(1331)8月27日政治改革に失敗され、京都御所を出られた後醍醐天皇を受け入れた場所である。
天皇方2500、笠置山に向って北条方75000と云う大軍を相手に攻防一ヶ月、
ついに9月28日夜半風雨を見方にした北条方50名の決死隊により奇襲攻撃をうけ、
大磨崖仏をはじめ笠置山内49ケ寺すべて灰塵に帰してしまった。
 元弘元年(1331)、鎌倉幕府を倒そうと後醍醐天皇が笠置山で挙兵、幕府軍に攻められ、社殿は焼けた。
この時にこの寺の春日神社も失われたが、685年の時を経て、奈良・御蓋山山頂(みかさやま)の春日大社・本宮神社
の古い社殿が2016−5−23に移された。
 春日大社の20年ごとに社殿を修理する式年造替(ぞうたい)にともない、ご神体でもある御蓋山の山頂の本宮神社も
2015−5に建て替えた。
 役目を終えた古い社殿は、高さ2.6m、幅0.7m、奥行き1m。
 奈良時代ごろの創建とされる笠置山は奈良と縁が深い。東大寺を開いた良弁、お水取りを始めた実忠(じつちゅう)、
興福寺から移った学僧・貞慶(1155〜1213)は境内に春日神社を建立したなど。
 後醍醐天皇詠歌   うかりける 身を秋風に さそわれて 思わぬ山の もみじをぞ見る  
 後醍醐天皇を偲ぶ歌など

「指て行 笠ぎの山を 出でしより

         雨が下には 隱家もなし」

     後醍醐天皇(『太平記』巻三「笠置城没落の事」)

「いかにせん 憑影とて 立ち寄れば

         猶袖ぬらす 松の下露」

     万里小路藤房(『太平記』巻三「笠置城没落の事」)


「玉骨はたとひ南山の苔に埋むるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の

天に臨まんと思ふなり。もし勅を背き義を軽んぜば、君も継

体の君にてあるべからず、臣も忠烈の臣にてあるべからず。」

      後醍醐天皇御遺詔(『太平記』巻第二十一「御醍醐天皇崩御の事」)

「葉ざくら雨 やみ間をぐらく 静かなり

             塔の尾陵の 石段を上る」

       木下利玄(歌集『 一路』「葉桜雨」)

「すめろぎの こころかなしも ここにして

               みはるかすべき のべもあらなくに」

       会津八1 (『鹿鳴集』「南京余唱.吉野塔尾御陵にて」)

 

曽我蕭白『後醍醐天皇笠置潜逃図』
そがしょうはく ごたいごてんのうかさぎせんとうず)

「元弘の乱」に敗れ笠置山に逃げた後醍醐天皇と
従者の姿を描く。実際の
御潜逃は秋だが、桜が咲
いているのが不思議。

     
   本尊弥勒大磨崖仏
  山は全山花崗岩(かこうがん)からなり、山中には巨岩が点在する。
 笠置寺の本尊であり高さ20m幅15mの石面に弥勒如来が彫刻さ
れていたが
前に建てられていた禮堂が三度の火災により焼亡、
その都度石面も火がかかり仏像は磨滅してしまった。
 平安時代天人彫刻の仏として多くの人々の信仰を集めた。 
 世に言う笠置詣りである。 
笠置寺の本尊⇒
       
 毘沙門堂  十三重石塔(重文)   伝虚空蔵磨崖仏
  笠置寺49院の一子院多門院の本堂である。
本尊は、鎌倉期の像高50cm木造毘沙門天である。
 伝説では、楠木正成公の御念持仏として、かっては信貴山毘沙門天と並び戦勝の神、福徳の神、
財宝の神として多くの人々に信仰された。
 建物が老朽化したため、平成16年現在の建物に改築したものである。
 元弘戦における戦死者の供養塔であるとも、また解脱上人が母のために建てた塔とも伝えられている。
 もとは建久7年(1196)解脱上人により、このところに木造本瓦葺十三重塔が建てられていたが
元弘元年(1131)後醍醐天皇の戦乱で焼失してしまった。 
  寺伝では弘仁年間(810−824)弘法大師がこの石にのぼり一夜にして彫刻した
虚空蔵菩薩といわれる。
 彫刻の洋式から中国山西省雲崗の磨崖仏に通じるものがあるところから、本尊弥勒磨崖仏と
同様奈良時代の渡来人の作と考えられる。

ゆるぎ石
 端の方を押すと揺れる。元弘の乱で、攻めてくる幕府軍に向けて
落とすために用意されたものの残りと伝わる。 

 笠置山寺の歴史は古く、その創建は不明であるが出土品から見て飛鳥時代既に造営されていたようである。 
 天智天皇の子大友の皇子が、狩猟の途中で岩から転落しそうになった時、山神に弥勒像を刻むことを誓願して助けられた。皇子は感謝のため、
身についていた「い笠」を置いたことから笠置山と呼ばれるようになった。その後、岩に弥勒仏を刻み、これを本尊とする笠置寺が開かれた。
東大寺の良弁、実忠(じつちゅう)もここに参籠したとの伝承もある。それ以降、奈良時代大和大峰山と同じく修験行場として栄え、
平安時代には永承7年(1053)以後世の末法思想の流行とともに笠置山寺本尊弥勒大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰をうけた。
 更に鎌倉時代、建久2年(1191)藤原貞慶(解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を当寺から展開するとき信仰の寺として
全盛を極めた時代であった。
 しかし、元弘元年(1331)8月倒幕計画に失敗された後醍醐天皇の行在所となり幕府との攻防1か月9月29日全山焼亡、
以後復興ならず、室町時代少々の復興をみたが、江戸末期には荒廃、ついに明治初年無住寺となった。
明治9年、大倉丈英和尚錫をこの山に止め復興に力を尽くすこと20年ようやく現在の姿に山容を整えられた。
  笠置山寺静止画集⇒⇒⇒
   (限定公開)
大津皇子の刑死  東大寺 後醍醐天皇 
信貴山 オオヤマトの古墳・宮址と三輪山祭祀  後醍醐天皇の食事 
笠置寺  大野寺 清少納言、枕草子で奈良を語る 
柳生街道の終着点となっている もみじ公園
笠置山上に位置し
笠置寺境内にある。


笠置山城跡に笠置寺がある。笠置山から木津川を望む。
 笠置山は、北に木津川、東に布目川、西に白砂川が流れて三方を三河川によって
囲まれている。南側は尾根道を経て、柳生方面から大和国や河内国につうじている。
笠置山は山城を構えるには最適の自然条件を備えていた。
一の木戸跡
戦のときにこの一の木戸を守っていたのは三河国足助次郎重範公で弓の達人である。
下から攻め上がってくる幕府軍の敵将荒尾九郎 弥五郎兄弟の二人を弓で
射ち落した場所である。
 その重範公は現在愛知県足助町の足助神社で祭られている。