馬立伊勢部田中神社(またていせべたなかじんじゃ)地図
和田廃寺地図
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神殿 | 拝殿 |
当社創立詳細は分からないが、三代実録に神位の奉授のこととある。 「清和天皇貞觀九年正月二十五日大和国正六位上、 されど延喜の領幣に漏れたるを見れば、当時社運暫く不振の状况にお 又、位置は現今大字和国あれども社名は馬立伊勢部田中神社と称して 昔から和田方の所伝よれは、当社もと飛鳥川近辺の字古宮の地に鎮座 然るに字古の地は、古代豊浦小墾田?の故地にレて名称の起りも 故地の名に因んだのであろうから、元より当社とは関係はなかたであろう。 その他古付近の:豊浦寺時代の礎石の存せるを当社華表の 趾なりというのも是亦附会したものと言わざるを得ない。 社殿の構造は三間流れ造りにて中央は八幡?左は豊受姫社、右は 春日社を奉祀せり。 後世時代の流れに従って春日社並びに八幡社を配祀レ、後、八幡?が 却って本社の地位を占め八幡宮と称するに至った。 德川中世に至っても尚八幡宮と称し(石灯籠)明治四一年十月二日 にも村社八幡神社とレて指定せらた。 その後国史見在社の古名に復すべく出願レ、大正八年十一月に前指 定を取り消して馬立伊?部田中神社とレて指定された。 |
田中宮跡 |
後方(北方向)の山は耳成山 |
山は畝傍山(西方向) | 礎石のようなものが残っている |
出土軒瓦から寺院の創建は 7 世紀前半と判明した。土壇が塔の基壇であったこと、7~9世紀の掘立柱建 物群があったことが確認された。現在の土壇はもとの基壇の西半分にあたる。鴟尾、ガラス玉の鋳型、三 尊仏などが出土した。 |
和田廃寺跡: 橿原市和田町の北方に当る水田の中に残る大野丘と云う土壇の位置に、古代寺院の1つ和田廃寺の 塔の跡です。塔跡が残り、 ここを蘇我馬子が建てた大野丘の北塔の跡とする説もあったが、最近では 葛木氏(葛城)の氏寺の跡とする説が強い。発掘調査で7世紀前半から8世紀の瓦や鴟尾などがみっかった。 寺の本当の名前は不詳だが、 和田町にある寺院の跡でと云う事から、和田廃寺と呼ぶ。 和田廃寺は、『大和上代寺院誌』にも記載され、周辺にはトウノアト·堂の前といった地名が残る など、古くからその存在を知られていた。しかし、伽藍は全く残っていなかったため、どのような 建物があったのかすら不明になっていた。奈文研の調査で、 和田廃寺は7世紀後半から8世紀後半 まで存続した寺院で、 現在の土壇は、塔の基壇の西半分であること、本来の塔基壇の大きさは、 一辺 12.2m に復原出来る事が分かった。 また、 高さ 1.27m、 幅 0.76mの鴟尾も出土。 更にその後の橿古研による和田廃寺の北側の発掘調査では、 ガラス玉の鋳型や三尊仏が出土し、 現在、土壇の北側を走っている県道まで、 和田廃寺の寺域が広がって、伽藍の北側には僧房などの 施設があったのではないかと推定出来る様になった。しかし、和田廃寺の寺域や伽熱藍配置の全体像は、 未だに謎のままです。 和田廃寺は藤原京でいうと、 右京十一·十二条一坊にあり、寺の東側を朱雀大路が通る位置関係に ある。朱雀大路というと、藤原京を東西に2分するメインストリートだが、和田廃寺周辺の調査 では、朱雀大路は今のところ確認されていない。朱雀大路が確認されていない理由としては、 朱雀大路が和田廃寺の部分には造られていなかった可能性や、まだ見つかっていないだけである 可能性が考えられる。いずれにしても和田廃寺と朱雀大路の関係は、藤原京の造営を考える上で 重要な問題を私たちに投げかけているといえるでしょう。 |
続日本紀巻三十一光仁天皇(宝亀元年十月) 葛城寺の前、豊浦寺の西とうたわれた位置 になる。 また、藤原宮の大極殿の真南に位置する。 |