添御縣坐神社(そうのみあがたにいます・三碓)地図

参道
拝殿 拝殿 本殿(重文)
祭神 建速須佐之男命 武乳速命 櫛稲田姫命
当社は大和朝廷の直領の一つ、添御縣の豪族(縣主)の創建になり、
延喜式~名帳に記載されている往古の式内大社である。
延喜式神名帳 神大 月次新嘗
 添は層富・曾布とも書かれ、古くは生駒市北部から奈良市月ヶ瀬までの広い地域を指したが、
のち添上郡、添下郡の二部に分かれた。
本殿は五間社流造、正面三箇所千鳥破風付、檜皮葺で、
室町期の建築様式・技法をよく示している。1383年の建立。
 神社建築で、南北朝時代にまで遡れる建造物は全国でも希少なもので、おそらく室町時代以来、覆い屋根
で保護されたことが幸いして、保存状態が良好であったと考えられる。
 建築の形式は五間社流造と云い、柱間が五つに分かれ、柱が細く繊細な室町様式の特徴を伝えていて、
内部も五部屋に分かれ紳坐も間(ま)の上に破風が三ヵ所付いている。
恵美須神社
 祭神 蛭子大神
天之香久山神社
     




 
   
 真言律宗
 鳥見山根聖院 
境内にある三碓地名の由来となる石
 「この土地一帯を三碓(みつがらす)と言うのは、遡る事1300年前、
奈良時代に小野福麿がこの地域を治めていました。
住居とは別にこの場所に三ツ碓(からうす)をおき、米を搗(つ)かせていましたが、
鳥狩りに御幸(みゆき)された聖武天皇が御覧になり、
この土地を「三碓(みつがらす)」と名付けられました。
 この碓は搗きき碓で、朝鮮半島と戦った後に、
米を搗く文化と共に大和に渡って来たと考えられています。
「古事記」には播磨の国でもこのような石碓が使用されていたと伝えられています。」




添御縣坐神社奈良市歌姫町九九九番地)地図

式内 鎮座地奈良市歌姫町九九九番地

祭神

   速須佐之男命

   櫛稲田姫命

   武乳速命(たけちはやのみこと)

 祭神,速須佐之男命は皇祖、天照大神の弟神、須佐之男命の別名です。櫛稲田姫命は

須佐之男命によって八岐大蛇の難をのがれ、命の妃となった姫神。武乳速命は添の御県の

地の祖神です。

 当社は氏子の長老が1年交替で神主となり神社を奉斎します。任を果たした神主は十人

衆と呼ぶ宮座に入り、神社の維持、および次の例祭を執行します。

元旦祭

春の大祭

雨喜祭雨よろこび)

秋祭 稚児の式

秋の大祭

月次祭

 延喜式の祈念祭の祝詞によると、御県の神は代々天皇の御膳に野菜を献上したと記され

ています。また、祭神・櫛稲田姫の神名は「奇(く)し稲田」が原義で、その神格は農の

神であります。

 なお、当社は、大和平野中央を縦貫する下つ道の北端に位置し、古来、国境いに鎮座す

る手向けの神として尊崇されてきました。「万葉集」に左大臣・長屋王の詠んだ歌があります。

  佐保すぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ  長屋王

 昌泰元年(八九八)十月、宇多天皇の吉野行幸に従った菅原道真の歌に次の一首があります。

  このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに   菅原道真

 右二首の歌は、大和・山城の国境いの神、この添御縣坐神社を拝し、旅の安全を祈念したと
想定して
はじめて作の真意に到達します。

 農の神、旅の神として崇敬されてきた当社は、江戸時代から病気を治す神として信仰され、

近時菅原道真ゆかりの神社として合格を祈願する人の姿も見るようになりました。

  平成三年十月吉日