海龍王寺地図
本堂 | |
飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられたが、天平3年(731)に光明皇后により海龍王寺 として改めて創建された。 |
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海龍王寺は平城京最古の寺院の一つ、別に隅(角・すみ)寺と呼ばれるように、 のちに法華寺になった藤原不比等邸の東北隅にあった寺である。 ふるくは小寺院として存在していたらしく、平城京の経営に伴い、 不比等邸造営の時取り込まれたとかんがえられている。 創建については、玄昉が入唐するとき、光明皇后が無事に帰国することを祈って 造営したと伝えている。 寺号も玄昉の航海安全と結び付けて名付けられたと考えられている。 |
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玄昉は唐から帰国途中暴風雨に襲われたが一心に海龍王経を唱え、急死に一生を得て帰京 し、海龍王寺の初代住持に任ぜられた。 その頃都では聖武天皇と光明皇后が仏教中心の国つくりをめざしていた。平城京のすぐ東に あった皇后の屋敷の一角にお寺を整え、玄昉を住職として迎えた。 |
海龍王寺⇒ |
本堂17世紀中期 桁行5間 梁間4間 入母屋造 本瓦葺 本堂は奈良時代に建っていた中金堂の位置を踏襲しており、深い軒の出と勾配の緩い屋根、 それに道内の柱配置が整然としていることなど、奈良時代の仏堂の様式と似ている点が多い。 建立年代は寛文年間(1665年頃)とも伝えられ、江戸時代の建物でありながら古風な造りであり、 古い伝統建築の様式がこのまれた奈良の地域性を知ることができる。 |
西金堂(奈良時代・重文) | 五重塔(奈良時代・国宝) | ||||||
西金堂天平3年(重文、731・奈良時代)建立 鎌倉時代と昭和40年~41年にかけて解体修理を受けている。規模や形式に 大きな変更はなく、一部奈良時代の木材を残している。 海龍王寺の西金堂内に安置する。 西金堂内に小塔を置くことによって塔とみなされ、複雑で経費もかかる塔建築を 造立する代替となったのだろう。 |
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五重小塔(国宝)4,01m 天平時代前期 創建当時から西金堂内に安置され、細部は天平時代のかなり早い時期の手法を 用いて造られている。 五重小塔は、安全の為奈良国立博物館に何十年と寄託、常設陳列の最高作とし て飾られていたが、西金堂の完成で里帰りしている。 天平時代の建築技法を現在に伝え建築様式の発展をたどる上にも重要である事と、 建築物としての天平時代の五重塔はこれ一基しか現存していないのでこの点でもこ の小塔の価値が高く国宝に指定されている。 屋内で安置することを目的とした為近くから見た時の工芸的な性格を考え小塔の 外部は詳細にいたるまで忠実に作られている。 また、この事は寸法取りにもあらわれ上層部にいくにしたがって塔身が細くなってい ることから上層部と下層部の均整を重視した寸法取りを行っている事がうかがい知 れる。 室内にあったために傷みもも少なく、天平時代の建築様式をよく知ることができる。 |
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西金堂(奈良時代・重文) |
東金堂跡 |
東金堂跡 西金堂と共に天平初期の建立とされる。 西金堂と向き合う位置に東金堂跡があり、両者の中央北側には金堂もしくは講堂跡があって、 その両脇から発する回廊が東西金堂を取り囲む伽藍配置をもっていた。 |
十一面観音菩薩立像(鎌倉時代・重文) |
十一面観音菩薩立像⇒ |
本堂須弥壇上の厨子内に安置されている。 鎌倉時代装飾が多い。高さ94cmの本尊。 冠の左右から飾りが垂れ下がり、足元まである。 ガラス玉と金属の透かし彫り連ねている。 寺での開扉は春秋限定。 |
普段は厨子内で斗帳がかけられていて、お姿を拝 観できない本尊の十一面観音立像(重文)は、 |
奈良時代に光明皇后が刻んだ仏像をもとに、鎌倉後期 に造立された。 1953年まで秘仏だったこともあり、保存状態が良い。 ヒノキの寄せ木造りに、細く切った金箔で唐草などの文様が 施されている。 正面を向いた切れ長の目から、慈悲深さが伝わってくる。 |
一切経蔵(重文 鎌倉時代 正応元年・1228)建立 |
一切経蔵 室町時代と寛永7年(1630)に修理が行われ、昭和40年~43年にかけて解体修理が行われた 経典や文書を納めたことから、高床式の建物となっている。 |
表門 |
表門 十六世紀 四脚門、切妻造、本瓦葺、左右築地塀付。 海龍王寺は光明皇后が天平3年(731)に創立したと伝え、 この表門の位置は平城京の東二坊大路に面する場所にあたる。円形の本柱の前後に立つ合計4本の控柱 (ひかえばしら)の数から、このような形の門を四脚門という。 控柱の角の欠き取り部分(面という)が大きく、屋根の垂木(たるき)の先が反り増しているばど、中世建築の 様式を伝えている。 |
山門 |
海龍王寺の縁起 此の場所には、飛鳥時代より毘沙門天を祀った寺院が在り、藤原不比等が邸宅を造営したした際 海龍王寺が建立されたのは、第八次遣唐使として唐に渡っていた玄昉が、一切経·五千余巻と一切経 門天が祀られていたところに海龍王寺を建立し毘沙門天を祀ることで、平城宮の東北(鬼門)を護るた 海龍王寺が建立されてから三年後の天平六年(七三四)十月、唐から帰国の途中、玄昉らが乗った この時、玄昉が持ち帰った五千余巻の経典の中に、海龍王経(かいりゅうおうきよう)という経典 が収められており、東シナ海の狂瀾怒涛に漂いながら一心に海龍王経を唱え、九死に一生を得て貴 重な多数の経典をもたらした玄方は、その功績により僧正に任ぜられると同時に海龍王寺初代住持 にも任ぜられました。 海龍王経を唱え、九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから、玄昉が起居した海龍王寺にお いて海龍王経を用い、遣唐使の渡海安全の祈願を営んだことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定 められ勅額を賜りました。 この時期、海龍王寺では写経も盛んに行われていたようで、光明皇后が般若心経および自在王菩薩 経を一千巻書写され、後の時代には弘法大師空海も自身の渡唐の安全祈願のために1千日間参籠し て般若心経一千巻を書写されており、大師の遺巻とされる般若心経の写経(隅寺心経)が残されて います。 その後の沿革は余り明らかではありませんが、鎌倉時代の嘉禎二年(一二三六)、西大寺を中興し た興正菩薩叡尊が当寺に起居したことで叡尊との関係が深くなり、正応元年(一二八八)三月に殿 堂坊舎を修造と経蔵の建立、七月には舎利塔を造顕しており、同時代に製作された仏像仏画も多く 伝えられています。 これらのことから、真言律宗の筆頭格寺院となった海龍王寺が律法中興の道場として栄えていたこ とは、西金堂内の五重小塔を戒壇とした受戒の儀式の次第を詳細に記した指図からうかがい知るこ とができ、また、鎌倉幕府から関東御祈願三十四ヶ寺の一 ヶ寺に選ばれ真言宗の特徴である加持や 祈祷も盛んに行われていました。 鎌倉時代に隆盛を迎えましたが、京都で応仁の乱が起こると、大和に攻め込んできた軍勢により打 ち壊しや略奪に遭い、また、慶長の地震が重なったことで壊滅的な打撃を受けました。 江戸時代になると、徳川幕府より知行として百石を安堵されたことで伽藍の修復や維持·管理が行 えるようになり、本堂の解体修理や仏画の修復がなされ、「御役所代行所」としての役割も果たし ましたが、明治時代になると廃仏毀釈の嵐に呑み込まれ、東金堂や多数の什器を失い荒廃にまかさ れていましたが、昭和四十年から四十二年にかけて西金堂と経蔵の解体修理が行われ、以降、境内 の整備や修復が進められています。 |
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