霊禅山 久米寺地図

   
 多宝塔(重文)
寛政年間(1789から800)に仁和寺
から移したもの。
大塔礎石
昔の旧跡にあたり、土壇と十数個の
礎石がある。
     
 
 本堂
 藥師如来坐像の左には久米仙人坐像、
右には十四日回忌本尊勢至菩薩が安置
されている。 
 
 久米仙人像
大師像 大日如来
 写真にある本堂・多宝塔・鐘楼の他、観音堂、御影堂、地蔵堂、等が建つ。
 
 鐘楼
 養老二年(718)印度摩伽佗国の王善無畏三蔵という人が、帝王の位を持って我が国に来朝、720日(約2年)の間、久米寺に寄留して高さ八丈(10.9m)四方の塔を建設し、三粒の仏舎利、並びに大日経を塔中に納めた。
 当時我が国最高最大の塔として広く内外に知られた。弘法大師に延暦年間久米寺に於いて、大日経を感得、桓武天皇の勅を賜り、渡唐受伝の上、大同2年(807)多宝塔内に於いて初めて真言密教を宣布した。即ちこれが真言宗根本道場の基礎となった。
 5月3日には二十五菩薩練供養会式(ねりくようえしき) 行われる。
 稚児行列に続き、お面と衣装をつけ菩薩に扮した信徒らが、本堂と合掌道場を結んで架けられた橋を渡り歩く。 
 今は昔に始まる今昔物語の千を超える説話の中ににある話の一つに。
 今は昔、吉野の竜門山腹にある竜門寺に、久米という男が籠って仙人の術を修行していた。めでたく仙人となった久米が、空を飛行していると、吉野川のほとりで若い女が着物の裾をたくし上げ、洗濯しているのが見えた。その真っ白いふくらはぎに目を奪われ、あろうことか、久米は神通力を失って、女の前に落下してしまった。
 久米はやがてその女と夫婦になった。そのころ、天皇は、都を造ろうと人夫を集めていた。久米もその人夫として働いていたが、仲間が彼のことを仙人と呼ぶのを聞いた役人は、「では、多量の木材を空を飛ばせて運んでみよ」といった。
 そこで、久米は、ある静かな修行道場で、心身を清め、断食し、七日七夜、祈り続けた。八日目の朝、ついに久米の術は成功した。
 一天にわかにかき曇り、雷が鳴り、雨が降り、が、しばらくすると、空は晴れた。と、その時、夥しい数の材木が雨の山から空を飛び、こちらに向ってきた。
 それを見た役人たちは、久米を敬った。この噂は天皇に届き、免田が久米に与えられた。彼は、寺を建てた。それが久米寺であるという。
 芋洗い地蔵尊⇒⇒⇒
 行者とは、仏門修行の者をいう。仙人とは、行を終え究境に達した達人のことである。
久米仙人は実在かどうかわからないが、橿原市久米に住み、久米寺で修行したらしい。久米寺は、聖徳太子の弟久米太子がひらいた寺だと言われるので、久米太子は久米仙人のことだとも伝えられる。
しかし、久米太子は元来盲目であったのだから、空から下を見ることは出来ないので、別人と思われる。



久米御県神社地図
高宮・垂仁天皇
 
祭神
 高皇産霊命
 大来目命
 天櫛根命
 
       
 来目邑伝承碑
高宮
日本書紀 垂仁天皇 五年の冬十月の己卯の朔に
天皇、来目(※)に幸して、高宮に居します。時に天皇、

膝枕して昼寝したまふ。

※ 大和国高市郡の地名。

二十七年是歳条には此の地に屯倉を置いたこと が見え、

延喜神名式に久米御県神社が見える。古くより皇室

直轄地であったらしい。記の話にはこの地名がない。

 六御県古代天皇家の基盤⇒
延喜式神名帳では「大和国高市郡 久米御縣神社三座」と
記載され、式内社・小社に列格している。ただし、延喜式祈
年祝詞には他の6つの御県神社が記載されているが、当社は
含まれていない。








娘塚地図
   
   
春さらば   桜児の塚 万葉歌碑

由縁(ゆえん)ある雑歌

 昔者娘子(むかしをとめ)ありき。字(な)を櫻児(さくらこ)と日(い)ふ。時に二(ふたり)の壯士(をとこ)あり。共に此の娘

を誂(あとら)ふ。生(いのち)を捐(す)てて挌競(あらそ)ひ、死を貧りて相敵(あた)む。ここに娘子歔欷(な)き

て日はく、古より今に至るまで、聞かず、見ず、一(ひとり)の女の身にして、

二つの門(かど)に往適(ゆ)くといふことを。方今(いま)し壯士の意(こころ)和(に)きび難きものあり。

妾死(あれみまか)りて、相害(あらそ)ふこと永く息(や)まむには如(し)かじといふ。すなはち

林の中に尋ね入りて、樹に懸りて經(わな)き死(し)にき。其の兩(ふたり)の壯士哀慟(かなしび)に

敢(あ)へずして、血の泣(なみた)襟(ころものくび) に漣(なが)る。各〃心緒(おもひ)を陳(の)べて作る歌二首

   
   春さらば插頭(かざし)にせむとわが思(も)ひし櫻の花は散りにけるかる    其の一

   妹(いも)が名に懸けたる櫻花咲かば常にや戀ひむいや毎年(としのは)に   其の二

              
       (岩波日本古典大系 万葉集) 

「桜児伝説」の桜児の「娘子塚(おとめづか)」所在地:橿原市大久保町の大久保町公民館の前庭

   春さらば 挿頭(かざし)にせむと 我が思(も)ひし 桜の花は 散りにけるかも(作者未詳 巻 16 3786)

《訳》春になったら、挿頭の花にしようと(妻にしようと)私の思っていた桜の花は、

   散ってしまったことだなあ、 という意味。

 二人の男に結婚を申し込まれ、二人の争いをやめさせようと自死したという桜児のお話。

この歌は巻16 の巻頭歌。巻16は巻頭に「有由縁井雑歌」 とあり、 「『由縁』(ことの由来)ある歌と

雑歌」を収録している標示だと。 萬葉集の歌の世界を広げている試みがなされている。

桜児の墓と伝えられる娘子塚は『大和志』『大和名所図会』にも紹介されている。

『奈良県高市郡古墳誌』には「白樫村大字大久保字垣内 395 番地、東西一間南北亦一間、

高さ一尺五寸で、今北面した方形の古墳だ  と記されている。娘子塚は、 以前、小丘の上に一本の

松の木が残っていたが、現在はミカンの木が植えられる。かつてこの娘子塚を挟んで西にはコガネ塚

(黄金塚)、東にはスクネ塚 (宿禰塚) という塚があり、それぞれ桜児をめぐって争った二人の壮士の墓で

あるとも云われている。これらコガネ塚とスクネ塚は、掘削されてしまったのかもうどこにあるのか確認する

ことは出来なかった。



大窪寺 地図
国源寺 地図
大久保神社 地図
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大窪寺
   
 大窪寺塔心礎  大窪寺心礎と国源観音堂
   
 国源寺観音堂
   
 不空羂索観音立像   南無太子像
鎌倉時代
正安4年(1302)
像高76.7cm
 

大窪寺:橿原市大久保町にある古代から中世の寺院跡。
天武期朱鳥元年条に、百戸に封ずとあるが

草創の記録はない。跡地付近に所在する浄土宗国源寺
・観音堂が法燈を継承するとされ、

同寺の境内に伝世される塔心礎は大窪寺のものと推定
される。 

 寺の創立に関する文献はあリませんが、付近から

出土する瓦に単弁の素弁型式のもの、重弁型式のも

の、複弁型式の連華文などの軒丸瓦や偏行唐草文軒

平瓦など白鳳時代の瓦が出土していることから天武

朝に存在した寺と考えられます。

 「日本書記」天武天皇朱鳥元年(六八六)八月の条に

檜隈寺(ひのくま)、軽寺、大窪寺に各百戸を封するとあリその

後正史からは姿を消しますが「春日大社文書」にこの

寺の名が見えるので少なくとも鎌倉時代末頃までは

存続したことを物語るであろうと言われています。

 創立者については不明ですが「続日本記」養老五年

(七ニー)正月の条に唱歌師大窪史五百余名が見えて

おリ位は正七位下で高くはないですが、この寺に関

係があるのではないかと言われています。

 塔心礎は、表面に径54cm、深さ6cmの柱座があリ、

その下に舎利孔が穿たれています。塔心礎は原位置

をたもつものとは考えられす、伽藍配置等について

もわかっていません。

 橿原市教育委員会  

国源寺:神告山一乗院国源寺(しんこくざん いちじょういん こくげんじ)橿原市大久保町寺内 404

宗 派:浄土宗

御本尊:阿弥陀如来

創建:貞元2年(977年)

開基:藤原国光 開 山: 蓮智房泰善法師

国源寺は、大窪寺の跡地に明治初年もと神武領域から移座。 鎌倉時代後期作・聖徳太子立像

上半身が裸形で、頭部内に正安四年(1302年)銘の墨書あり。体躯は肉付きが良く、幼児の

柔らかい肌の感じがよく表現されている。国内では太子像として本像が最古のものとなる。

由緒:天延二年(974) 3月 11日、 高市郡畝傍山北東辺りの道を往く旅の僧の姿があった。

白み始めた東の空には薄雲が細くたなびき、他に往き交う人も無く、 僧の土を踏みしめる

微かな音だけが夜明けの澄んだ空気の中に響く。僧は蓮智房泰善。多武峯寺の第六代検校。

朝日が顔を出し始めた。 泰善はふと振り返った。 仰ぎ見る畝傍山は曙光を浴びてみるみる

稜線を際立たせていく。 その線をなそるように、 一羽の鵄が空を舞っている。太陽から

放たれた光条に照らされて一瞬、 鵄が金色に輝いたように見えた。

道の先に誰かが立っているのに気づいた。いつからあそこにいたのだろう。痩せこけた老人

だった。真っ白の髪を無造作にのばし、 茅を編んだ蓑を身につけたみすぼらしい姿。

畝傍山の方を向いて身じろぎもせず立っている。会釈をして脇を通り過ぎようとする泰善に、

「そこな法師」老人が声をかけた。 顔は畝傍山に向けたままだ。その声は低く、咳くよう

だったが、不思議とよく通った。 泰善は立ち止まり、老人に向き直った。名と住まいを

訊ねた。「我は人皇第一の国主なり。常にここに住んでおる」老人の言葉が終わるか終わら

ずかの瞬間、鵄が泰善と老人の間を鋭い風切り音とともに横切った。(後略)

大窪寺跡に関して、その寺域を神武天皇陵域に推測する説が知られる。現在の神武天皇陵は、

中世頃に所伝を失って所在不明となったのち、文久3年(1863年)に諸説のうちから「神武田」

と呼ばれる地の小丘に治定され、陵墓形成されたものになる。 この神武天皇陵と大窪寺跡と

の関係を推測する説では、前述の文書に見える大窪寺領の坪付が伝神武天皇陵周辺に位置し、

神武天皇陵東側にも塔垣内 南塔垣内・東今度・西今度の小字が遺存する点が指摘される

(「今度」は「金堂」の転訛か)。加えて、神武田に遺存した小丘は方形の土壇状であったと伝わる

ことや、「塔垣内」の字名から、小丘は本来は大窪寺の塔基壇の一部であった可能性が指摘

される。そのほか、神武天皇陵域内に残る礎石群も大窪寺のものとする説もある。

なお、大窪寺自体を神武天皇陵の陵寺や墓辺寺としての創建と推測する説もある。

   
 大久保神社 
   
 
 明治38年奉納画
 
 

大久保神社:福原市大久保町内垣内 245

御祭神:神日本磐余彦命

媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたら)

創建:不詳

社格等:旧村社

御利益:国家鎮護、恋愛成就、夫婦和合 他

別称/旧称:神武天皇宮天一大明神大窪神社 

 
 神社前に残る旧鉄道跡