第105代 後奈良天皇(ごなら)地図

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後柏原天皇(第二皇子)
藤原藤子(藤原教秀の娘)
誕生 …1496年(明応5年)12.23
御名・異称 知仁
女院 万里小路栄子(贈皇太后)
立太子 … ―――
即位 …1562年(大永6年)4.29
在位年数 …31年
崩御 …1557年(弘治3年)9.5(年齢62才)
皇居 平安宮 
年号 大永、享禄、天文、弘治
即位礼を挙げるまでには10年の歳月を要した。もちろん皇室財政の逼迫が原因である。幕府の調達した費用では完遂出来ず、朝廷は全国に勅使を派遣して上納金の調達に躍起となった。北条、大内、今川などの地方豪族から資金が集まったお陰で、ようやく即位礼がとり行われた。
荒廃した時代にあって、天皇は自己の役割を十分に踏まえて、疫病流行の際には般若心経を諸国の寺社に納めるなど、民衆の平安を常に祈願した。般若心経奉納国は、河内をはじめ近畿、東海、関東、山陰の各地方に及んでいる。
治世中には度重なる洪水や飢饉が民の生活を圧迫したため、天皇は伊勢神宮に宣命を奉り、聖徳の興隆と民生の安寧を祈願した。天皇はこのように慈悲深く、また学問にも熱心で古典に親しんだと伝えられている。
陵墓名 深草北陵  法華堂   後深草天皇以下十三方合葬
所在地 京都市伏見区深草坊町
泉涌寺で火葬され、骨桶を懸けて葬場殿に入る。桶は径四寸(約12cm)、深さ四寸の大きさで、一尺四方の絹でこれを覆い、これを長さ一尺、幅四寸の板に載せて葬場殿内に入る。御骨は深草安楽行院に納骨された。
御陵は深草北陵と称され、12帝陵の一つである。
贈皇太后朝子般舟院陵域内の西北隅にある宝篋印塔が、御奈良天皇の御塔と寺伝する。