父…後醍醐天皇(第七皇子)
母…藤原廉子
誕生…1328年(嘉暦3年)
御名・異称…義良(初名憲良)
女御…藤原勝子
立太子…1339年(暦応2年・延元4年)3
即位…1339年(暦応2・延元4年)8.15 在位年数…29年
崩御…1368年(応安元年・正平23年)3.11 年令…41才
皇居…吉野行宮、賀名生行宮、住吉行宮、天野行宮
年号…延元、興国、正平
○後醍醐天皇が建武新政を始めると、義良親王は北畠顕家らとともに奥州多賀城へ下向した。その目的は、東国の武士層を天皇方へ動員することにあった。
○足利尊氏が叛旗を翻すと、親王は北畠親房・顕家父子らとともに西にとってかえし、天皇のいる叡山で元服した。そしてまた、事態を見極め奥州へと帰還したが、多賀国府が襲われたため、各地で戦いをしながら吉野へと到達した。その間、顕家は戦死したが、奥州へ帰還しようとした。しかし、その際、暴風雨にあって伊勢へ寄せ返され、吉野に戻って立太子した。そして後醍醐天皇の譲位を受けて即位した。
○足利方の高師直が吉野を襲撃したため、やむなく天皇は紀伊へと下った。その後、足利一族の内粉が激化し、直義、尊氏が相次いで南朝に降参すると南朝は祟光天皇を廃して足利氏追討の方策をとった。
○のち、村上天皇は京都への回帰を果たした。しかし、足利氏はまた南朝に抵抗する行動に出て尊氏の子、義詮は軍勢を投入した。天皇は辛くも難を脱して賀名生に帰還した。
○天皇は幼い頃から奥州に下向して辛酸をなめ、南北朝の戦乱に翻弄された。一面で音楽や和漢の学に長けた天皇であったが、父醍醐天皇ともども安住の地を得ることができなかった。幾度にもわたって京都への回帰を試みたが、つねに厚い壁が眼前に立ちはだかった。
吉野宮⇒
|