父…鳥羽天皇(第一皇子)
母…藤原璋子(待賢門院
誕生…1119年(元永2年)5.28
御名・異称…顕仁・讃岐院
中宮…藤原聖子
立太子…1123年(保安4年)1.28
即位…1123年(保安4年)1.28 在位年数…18年
崩御…1164年(長寛2年)8.26 年令…46才
皇居…平安宮 年号…保安、天治、大治、天承、長承、保延、永治
○曽祖父白河上皇の意向によって鳥羽天皇より譲位され、顕仁親王は即位して祟徳天皇となった。しかし、5才のため、白河院政が継続されることになった。
○崇徳天皇は表向きは鳥羽天皇の第一子となっているが、実際には、入内前の藤原璋子との関係から白河院のご落胤であるといわれ、白河法皇が天皇の最大の庇護者であったことは間違いない。法皇が崩御すると、たちまち天皇の地位は不安定になった。
○鳥羽上皇の院政が本格化し、崇徳天皇は圧迫されてその権勢はにわかに衰えをみせた。歌人としては抜きん出ていたが、政治力に乏しく、鳥羽上皇の強引な申し入れによって、近衛天皇にやむなく譲位した。
○近衛天皇は眼病を患い、わずか17才で崩御、祟徳上皇は皇子の重仁親王の即位に望みをつないだが、結局鳥羽上皇の第四皇子の後白河天皇の即位が断行され、崇徳天皇の望みは絶たれた。
○鳥羽法皇が崩御、藤原頼長と祟徳上皇側、藤原信西、藤原忠通と後白河天皇側との間の藤原氏の中での覇権争いが起こり、朝廷と源・平二氏が関係し、貴族から武士の時代へ変化する発端となった。(保元の乱)
○鳥羽院の訃報に接した崇徳上皇は遺命によって面会を拒絶され、身の危険を感じて源為義や平の忠正らを集めて挙兵をはかろうとした矢先、高松殿に集る後白河天皇方からの夜襲を受け、敗北した。頼長は流れた矢に当たって亡くなり、上皇もいったんは仁和寺に身を寄せたが、まもなく捕らえられて讃岐国に流された。途中、鳥羽天皇陵に詣でようとしたが許されず、讃岐の御所も四方に垣をめぐらし、監視つきで、罪人扱いされ、京都に帰ることは終生許されなかった。
○讃岐国に流され幽閉された上皇は、世を恨んで荒んだ生活に身を委ね、晩年を悶えるように生き、一説には天下を傾けようと企図したともいわれる。院の死後、延暦寺の僧兵による強訴や度重なる飢餓、洪水に見舞われ、世情の不安が続いた。そのためかかる異変は院の怨霊のなせる業であるとの風聞が巷間ささやかれた。朝廷はそこで崇徳院の諡号を追贈してその霊を慰めた。その怨念の凄まじさはその後数世紀を経て京都に白峰宮が造営された。
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