亀形石造物(地図)
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亀形石造物 | |||||||||
周辺にある小判型石造物と、この場所の南方、階段を上がったところにある酒船石の遺構を含めて 酒船石遺跡という。 その後、調査が続くにつれて、酒船石のある竹藪の丘陵と一体のものであることが裏付けられている。 丘陵そのものは、わざわざ山を削り、その後、版築土(20cm×30cm)で積み上げた人工の丘であった。 丘のコーナーの石も発掘され、四重の石垣で取り囲み、周囲総延長800mある丘となった。 日本書紀斉明天二年条には「宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす」とあり、記事そのままである。
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斑鳩(いかるが)の中宮寺に伝来する天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の亀に酷似している。 更に、天寿国繍帳の亀甲には文字が刺繍されているが、背に文字のある亀が出現したことは 祥瑞(しょうずい=めでたい前兆)があるということで、奈良時代には、 霊亀・神亀・天平(年号は亀の背に「天王貴平知百年」の文字があったことに基づく)宝亀と改元がおこなわれた。 推古朝(592〜628)後半に、正円の甲羅をもち、四肢に4本の爪のある亀がすでに造形されていた。 亀形石槽はそうした造形をふまえ、斉明朝(655〜661)になって巨大な石造の亀として造りだされたとの考えもある。 |
酒船石遺跡は斉明天皇が水辺のまつりごとを執り行った見方がある。 これらの施設を維持するには管理が必要であるが、その後250年にわたり管理された。 都が遷った後も管理されたことは、天皇家にとって大変大切な場所であったと思われる。 |
平成12年(2000)に行った発掘調査で、亀形石造物を中心とした導水施設をはじめ石敷・石垣・石段が発見された。 | |
湧水施設に用いられた石はすべて天理砂岩で、斉明朝の特徴がみられる。 石を組み合わされて設けられた取水塔や貯水池の石と石との隙間には、 小石が詰められていたが、粘土も充填して水が漏れないようにしていた。 階段状の石垣特に最下段や左傾斜の亀の横のところには、黄色を帯びた凝灰岩質の砂岩の石がふんだんに使われている。 これらの石を運ぶために、運河を掘らせ、天理から飛鳥まで舟200艘で運ぶ運河を掘るために、石上の方で3万人飛鳥で7万人を要した。 石は(天理砂岩)天理市豊田山から川を利用し、最終の川は寺川となり、掘られた運河で宮の東の山まで運ばれた。 飛鳥川は宮を通ることになるので考えられない。砂岩⇒⇒ 斉明朝より時代は遡るが、日本書紀履中4年10月に、「石上溝(いそのかみのうなで)を掘る」とあり、天理大学と天理参考館との間(地図)に 幅15m、深さ2m(調査時点、実際はもっと深い可能性がある)、72mの長さにわたって運河が確認されており、推定石上溝となっている。 斉明朝の時に運河を新たに掘るというよりは、その時点にあるものを大幅に改良を加えたいったのかもしれない。 |
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これらの遺構は谷底の深い場所にあり、周囲を石垣や石敷で閉ざされた空間であることや、水の流れを見て楽しむ構造でないことから、 天皇祭祀にかかわる場所であったと推定される。 |
湧水施設から流れ出た水は木樋を伝って小判型石造物の水槽に溜まり、さらに8cm上の小穴から流れ出た少量の水が亀の鼻に入り、 背中の水槽に溜まる。そして、その水は尾尻から排出され、南北に走る構造になっている。 湧水施設はレンガを積むように石で組まれた貯水池とその中央部に設けられた石積の取水塔。 石はすべて黄色を帯びた加工し易い天理砂岩の切石で、計200〜300個を使用していると見られている。 湧水施設は、常に水が湧き上がるところが選ばれたと思われる。 続き⇒⇒⇒ |
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黒雲母の斑点が所々にある大きな石英閃緑岩(飛鳥石)を用いて、円形の大きな体部と、頭・両手足・尾尻を彫りだす。 全長約2.4m、幅2mで、顔を南、尾尻を北に向ける。 東西の水準は平衡で傾きはないが、南北の水準は尾尻の方(北)が低くなっており、水が流れるようにしてある。 亀の背中の水槽には約200L(ドラム缶1本分)の水の量を溜めることができる。 |
四天王寺の亀井堂の亀と水槽 |
水槽に供養を済ませた経木を流す。 飛鳥の亀形石造物と特徴が似ている。 亀と石水槽の形、水も金堂の地下から湧いて、 頭と尾は逆ながら、霊水といわれているところの、 儀式に用いられる水の扱い。 ここの亀には甲羅がある。 中宮寺天寿国繍帳には文字がかいてあるが、 甲羅にかいたものと考えるのが妥当なのでは ないかと思われる。 飛鳥の石造物にも、 当初は甲羅があったのではないかと想像したい。 |
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