さて、第四十代天武天皇(在位六七三~六八六)といえば、兄·天智天皇の子·大友皇子との間に骨肉 そして一般に『日本書紀』の編纂目的は、次のように考えられている。すなわち、天武天皇は甥殺し 『日本書紀』の完成は、天武天皇亡きあと三十数年を経ており、この間、天武天皇はもちろんのこと、 はなく、『日本書紀』編纂完了時の政権にとって都合のいい歴史書だったはずである。 もちろん、『日本書紀』編纂の西暦七二〇年といえば、天武天皇や持統天皇の血統が政権を掌握し 持統天皇は天武天皇 の皇后で あったけれども、一方で天智天皇の娘でもあった。この人物は、天智天皇(中大兄皇子)の懐刀·中臣 私見はこれを「静かなクーデター」とみなしているが、その証拠は、『日本書紀』の神話のなかに隠さ 通説通り、『日本書紀』が天武天皇の強い意志によって編纂されたとすれば『日本書紀』はたしかに ところが、『日本書紀』の神話のなかで、皇祖神として燦然(きぜん)と輝き、「天孫降臨」の主役とな 時に、高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ。 とあり、 高皇産霊尊が天津彦彦火瓊瓊杵尊を地上界に送りだした様子が見て取れる。これは文武 のちにもう一度触れなくてはならないが、持統天皇と不比等のコンビは、「女神からはじまる王権」と 間題は、持統天皇のしでかした「静かなクーデター」を『日本書紀』が巧妙に隠蔽し、あたかも天武王 なぜこのようなカラクリができ上がったかといえば、天武天皇の王家が正統な時存在であり、これを
天孫降臨の謎 関裕二 |
死者の世界である黄泉(よみ)の国について、葦原中国の地下にあると考える向きが強いが、同じ地 さて、黄泉の国の入り口であるが、葦原中国との境にある黄泉比良坂について、『古事記』は「今、出 この揖夜神社より東方へ数キロほど離れた地に、黄泉比良坂の入り口と伝えられている場所がある。 また出雲国風土記の出雲郡の記事によると、宇賀郷というところに高さ、広さともに六尺ほどある岩屋 この岩屋は、現在の出雲市猪目町にある猪目洞窟を指すといわれている。日本海に面したこの洞窟 黄泉の国の入り口とされる場所はほかにもある。『古事記』は、イザナミが葬られた場所について、「其 の神避れる伊耶那美神は、出雲国と伯伎国のさかいの比婆之山に葬りき」と伝えている。「比婆之山」 |
国譲り神話は、新たに始動した律令社会の実現に不可欠な思想的根拠であり、かつそれに信 見方を変えると国譲り神話とは、大和朝廷による葦原中国の略奪である。タケミナカタは力比 ベによ 嫌がる者から奪うのは、略奪である。にもかかわらず、記紀では最終的にオオクニヌシ (オオナムチ) 本来、日本神話には国を献上するという国譲り神話の話型は存在しなかった。それまでは国占め神 葦原中国にオオクニヌシがいたのも国占め神話を基にして国譲り神話が作られていることをうかがわ その内容はオオクニヌシの神名に隠されている。オオクニヌシとは、アシハラノシコヲ·オオナムチ·ヤ チホコノカミなど、多くの国つ神を総合·統合して造られた新たな神格であり、葦原中国を象徴する神の 実際には武力的な略奪や侵略があったはずだ。しかし記紀ではそれを隠す。記紀の平定物語は「言 同様に国譲り神話も略奪(負の歴史)を隠蔽し、正の歴史に塗り替える。
だが国譲りは一筋縄ではいかなかった。アメワカヒコとアメノホヒは国譲りに失敗する。この二神の失
敗は何を物語るのか。 ここで注意したいのが、二神の失敗には違いがあることだ。アメノホヒは婿びたために失敗し、アメワ 「謀反」は国家転覆(クーデター)の罪で、「謀叛」は不正者(反乱者や異国)に服従した罪である。律で 律では「謀反」にあたるアメワカヒコの方が、アメノホヒ「謀叛」)よりも重罪となる。罪の軽重に従って叙 要するに、国譲りの失敗は、次第に罪が重くなっていくように並べられている。このことは国譲りの成 二度の失敗に段階をつけ、後に成功するという設定も演出効果を狙ったものと考えられる。昔話では |
オオクニヌシは、国譲りの決定を息子のコトシロヌシとタケミナカタに委ね、一大決定を自分で決めな 葦原中国にはさまざまな神々や精霊が盤踞(ばんきょ)する。その代表がオオクニヌシである。だが、 コトシロヌシは託宣神とされる。 壬申の乱時に、高市 県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)にこの神が懸かって託宣を下し、勝利に 必要な祭配方法を天武天皇に教える(天武元年七月条)。また神功皇后の問新羅遠征の際にも、コトシ 神懸かる者は、神が慿く前に沈黙状態となる。高市県主許梅の場合もにはかに口を閉びて、言ふこ 鳥は霊魂を運搬する。言葉を発することができなかったホムチワケが鳥を見て「あぎとふ」(口をばくぱ くさせた)のも、言葉を司る霊魂を鳥が持っていたことによる。「鳥の遊び」とは、託宣に必要な霊魂をコ トシロヌシに身につけさせるため沈黙期間であったのだ。つまりコトシロヌシは国譲りを事前に察知して おり、その是非を問う託宣の準備を進めていたのである。託宣によって政を行うのも連合社会らしい。 しかし託宣だけでは心情的に納得できない者がいる。事実『日本書紀』では、反抗する悪神がおり、 実は相撲も神事であり、託宣であった。愛媛県大三島の大山祇神社で行われる一人相撲は、目に見 |
『古事記』には「火鑽(ひき)りの詞」と呼ばれる、「日本書紀」にない言葉が載っている。神聖な火を鑽 出雲国造は、毎日別殿 (御食焼所) で聖なる火を鑽り出して一人で食事をする。家族
でさえも、この建物に入ることは許されない。神と国 また、神聖な火は、国造が職を継承する際(火継ぎ式)と古伝新嘗祭においてもり鑽出される。火継ぎ |
京都・五塚原古墳(いつかはら)地図
京都府向日市の五塚原古墳(全長約91m、国史跡)で堅穴式石室がみつかった。市埋蔵文化財セン ターが6日発表した。出土した土器から3世紀中ごろに築かれた古墳時代前期の最古級の前方後円墳 の可能性が強まった。邪馬台国を治めた女王卑弥呼の墓説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中 ごろ~後半)と墳丘構造が類似することが分かっており、宮内庁が管理する陵墓として原則非公開の 箸墓古墳の石室を探る重要な発見として注目されうだ。 センターによれば、昨年7~11月に後円部の頂上部を発掘調査した。頂上の中央部にほぼ南北方向 五塚原古墳は、古墳時代に日本列島各地に広がった前方後円墳の原型とされる箸墓古墳(全長約 一瀬和夫·京都橘大教授(考古学)は「箸墓古墳と同時期に築造されたことがはっきりし、墳丘の構造も 類似しているため箸墓の石室を類推して考えられる。
箸墓の石室が河原石積みの可能性もある」と話 現場はすでに埋め戻されたが、発掘現場の写真などは7日から向日市文化資料館で展示される。 |
縄文時代は、旧石器時代とほぼ同じ狩猟、採集、漁労の三本柱で1万年以上続いた。人類史上特別な 旧石器人は「遊動的」だったが、縄文人は自然の一部を切り取って、ムラという根拠地にした。 そこは しかし、大陸ではハラを認めず、開墾して、ノラに変えて征服しようとした。
日本の縄文文化はそうした |
史跡 詩仙堂
現在詩仙堂とよばれているのは、正しく は凹凸窠であり、 詩仙堂はその一室である。 凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢晋唐宋の 丈山がこの堂に掲げる べき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永十八年、五十九歳の時であっ 建造物は後に覧政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲 丈山はここに ”凹凸窠” 十境を見たてた。入り口に立つ(1)小有洞の門、参道をのほりつめた所に立 の他丈山考案の園水を利用して音響を発し、鹿猪が庭園を荒すのを防ぎ、又、丈山自身も閑寂の中にこ 詩仙堂の四囲の眺めを見たてた“凹凸窠十二景”, は画家に絵を描かせ丈山自ら詩を作ったものである。 これらは毎年五月二十三日の丈山忌後、二十五日から数日間、「遺宝展」として一般公開している。 現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺である。詩仙堂の四季にはそれぞれ趣きがあるが、特に五月下旬
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神武天皇伝説
神武伝説は、継体天皇をモデルにして形成されたという見方がある(直木孝次郎)。『日本書紀』によれば 継体天皇は、越前の三国(福井県)から迎え入れられ、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位してからヤマト入り するまで二十年を要し、その間、樟葉に四年、山背筒城に七年、山背弟国に八年と三回の遷都を繰り返 継体天皇は、武烈天皇亡き後、皇統が絶えようかという状況の中で、越の国より応神天皇の五世孫とし それに継体天皇が磐余の玉穂宮(たまほみや)に即位している点が、神武の名前イハレビコとの関わり りし、即位するという形をみると、さかのぼれば神武、降れば継体の即位次第と繋がるありかたを示して また、壬申の乱の際の天武天皇の行動が反映しているという見方もある。神武がヤマト入りの際に吉野 これらの反映説は、取りようによっては邪馬台国東遷説などの史実反応映説の延長線上にあると見る |
いかにして東征説話が構築されたかという点については、儀礼との関わりにおいて説かれる場合と、 以下、『古事記』を中心に話を進めたい。まず第一段の日向から難波へ向かう場面については、 ないか。倭国が隋に送ったとされる国書に「日出づる処の天子」と記した意識ともそれは関わってくるし、 国号「日本」の成立とも関わる問題である。 「第二段階では、まずイハレビコの兄イッセの戦死が描かれる。大阪湾まで至って後にイッセはナガ ところで、このイッセは『古事記』で見ると、発言に「詔」 が使われ、亡くなった時に「崩」の字が使われ るなど、天皇に準じる扱いを受けている。「古事記」では初めにイハレビコと兄イッセが協議して東に行く ことを決めており、初めからイハレビコのみが突出した存在となってはいない。元はこのイッセを主役とし た東征伝承があったのではないかとも言われているが(中西進)、兄の死を経ることでイハレビコの位置 この後、熊野に至って一行は突然現れた熊の毒気にあてられて気を失ってしまう。その後、天照大神· 天照大神が天の石屋戸こもりを経て司令神となるという展開と重なる形である。 東征の後、ヤマト入りした神武天皇は、畝傍の橿原の宮で即位する。ところで、神武天皇の名前、 天照大御神の直系の御子は、 基本的に稲穂を神格化した名を持つと見られている。 子のオシホミミ =本居宣長説)」、イナヒは「稲霊」、ミケヌの「ケ」は食物を意味する語であり、ワカミケヌ·トヨミケヌも食物神 ところが、神武記において使われるカムヤマトイハレビコノミコトという名には、そうした意味合いの語は イハレも地名で、ヤマトの磐余の地を指すと見るのが一般的であるが、神武天皇と磐余との間に直接的 谷口雅博 國學院大學兼任講師 |
ウサギである。これはシロウサギと呼ばれているわけだが、白い兎という意味ではない。この部分
は、『古事記』の原文では、「素兎」という漢字が使われている。「白兎」ではなく、「素兎」であること 次に、オオアナムチがウサギに示した治療法だが、この部分、神話を扱った多くの一般書では、 『古事記』原文を忠実に読み解く限り、ウサギは、ガマの白い穂によって白い毛に戻ったのではな |
『古事記』によれば、兄弟神たちの虐待をうけた大国主神(大穴牟遅命)は、「須佐之男命のいらっ しゃ る根の堅州国にいきなさい」という大屋毘古神の言葉にしたがって、根の国に赴く。 この根の国はどこにあって、なにをする場所だったのか。 この話の最後尾で大国主神が須佐之男の娘·須勢理毘売を連れて根の国を脱け出す場面がある ということは、根の国の出入り口は黄泉比良坂である。死者が赴くという黄泉国も地中にあり、地上 黄泉国との場所の性格のちがいは、その名称から推測できる。 伊邪那美が火之迦具土神つまり火の神を産んだために女陰を火傷し、そのために病んで死んだ。 これに対して、根の国は根つまり根源·ルーツの国である。名前から推測すれば、物事の根源とな 大国主神が野原のまんなかで焼けにそうになったとき、 鼠が 「内はほらほら、外はすぶすぶ」とい そのありかはおそらく黄泉国よりもさらに深く遠い場所で、高天原地上·地中と乗直的に捉えられて 『日本書紀』では、素戔鳴尊は「母のいる根の国に行く」といい、八俣の大蛇を退治したあと須賀で しかしそんなことより、もともと母·伊邪那美は黄泉国にいるはずで、根の国にいるはずがない。 これは、母のいる場所を根の国とするか黄泉国とするかに異論があったのかもしれない。だがお 出入り口が共通であることから推して、黄泉は根の国の一部と見られていたと解釈できるし、須佐 |
黄泉の国と葦原 中 国とは黄泉比良坂(あるいは黄泉平坂、記紀)または黄泉の穴(出雲風土記) イザナミを連れ戻そうとしてイザナギが訪れる際の描写については、横穴式古墳がモデルとされた もしそうならば、黄泉の国の描写の一部はモガリが行なわれたモガリの宮の内部とも関連するかもし 妻の亡骸の 醜 い姿を見たイザナギは逃げ出し、イザナミは
辱 めを受けたとして彼女自身の分身 イザナギはさまざまな品物を投げると、それらが障害物となって追っ手を阻む。最後には桃を投げつ 陰陽五行説では、北東の方角である丑寅が災いの方角の鬼門に当たる。だから鬼は丑(牛)のよ 根の国(紀では根の堅州国)という、スサノヲが支配する神々の世界がある。大祓祝詞には「根の国、 底の国」が海の彼方にあると述べ、記は根の国への通路を黄泉比良坂としている。記では黄泉の国 |
昔、神武天皇の大和平定の初め、宇陀郡地方では、苦しい思いをして、未開の土地を開拓しながら すなわち土地を切りウガッて進まれたところを、ウガチの邑と呼び、それが今のウカシ村の元となった。 それからこの地方には、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)という者がおり、弟猾は先ず帰順したが、 |
松江市の田和山遺跡でみつかった弥生時代中期後半(紀元前後)ごろの石製品に、文字(漢字)が黒墨 福岡市埋蔵文化財課の久一住猛雄さんが1日、岐阜県大垣市で開かれた学会で発表した。石製品は 裏の中央付近に、二つの黒っぽい線のようなものが見られ、中国統一王朝の前漢後半から後漢初めの 同じく弥生時代の硯を調査している柳田康雄·国学院大客員教授(考古学)も文字とみて、「午」「壬」や 国内で確認された最古の文字は、福岡県や三重県で出土した土器に記された2~3世紀の事例があ 一方、松江市埋蔵文化財調査室がこの石製品を赤外線で撮影したが、墨書は確認できなかった。 |
賑わいをとりもどした飛鳥の都で皇位についたのは、人々の期待した中大兄皇子ではなくて、 間人への愛をつらぬくために、中大兄はあえて即位をみおくったと私は考えたい。それから七年たって 事情はどうであれ、中大兄の即位がおくれることは、宮廷にいろいろの影響をひきおこす。有間皇子 孝徳天皇と中大兄と間人との三角関係は推測の域を出ないが、中大兄とその同母の弟である大海人 皇子と、万葉歌人として令名高い額田女王との三角関係は、事実とみてよかろう。額田ははじめ大海人 (ただし、この歌を宴席での戯歌とする説もある)。
紫草の にほへる妹を憎くあら ば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 大海人皇子
天智天皇は律令国家の確立という大きな仕事をしのこしたまま、あとを皇子·大友(弘文天皇)にゆずっ |
河嶋皇子と天武の宮廷 河嶋(川島·河島とも書く)皇子は天智天皇の子、母は宮人の忍海造小 竜の女·色夫古娘で、同母の姉 「淡海帝(天智)の第二子なり」とある。天智の皇子は河嶋のほかに建皇子(母は蘇我倉山田臣石川麻呂 余談になるが、どういうわけか天智の皇子は、皇女が一○人もあったのにくらべて、成人したのはわず 現実には、伊賀采女を母とする大友皇子は壬申の乱に敗死し、天智の男子では河嶋皇子と施基皇子 の二人だけが、天武天皇の飛鳥浄御原朝廷で生活することになる。天智の皇子として近江朝廷に育っ たこの二人にとって、天武の朝廷での居心地は必ずしもよかったとは思えないが、『日本書紀』に記す 天武九年(六八〇)七月、二十四歳になった河嶋は、病死した納言兼宮内卿舎人王のもとへ高市皇子 天武八年五月に天武が吉野宮に行幸して、皇后と諸皇子に詔し、「千歳の後に事無からんと欲す(いつ 河嶋は天武の朝廷において、先帝の皇子にふさわしい待遇を得ていたとみてよいであろう。 川島皇子と山上憶良 白波の 浜松が枝の 手向草 幾代まてにか 年の経ぬらむ 川 島皇子 巻一 (三四番歌) 白波の寄せる海岸に生える松、その枝に結んだ手向けの幣(ぬさ)は、 どれほどの歳月を経て
この歌は、持統四(六九○)年の紀伊行幸の際に、川島皇子が詠ん だ歌です。『日本書紀』 紀伊行幸の途次で「浜松が枝」を詠むのは、有間皇子の 有間皇子は、謀反の罪に問われ斉明四(六五八)年に藤白(和歌山県海南市)で処刑された人物 有間皇子事件が起こった時、川島皇子はまだ生まれたばかりだったはずですが、大宝元(七〇 一方、この歌の作者である川島皇子は、朱鳥元(六八六)年に大津皇子の謀反を密告したとされ 現存する最古の日本漢詩集「懐風藻」(七五一年成立)には、大津皇子と生涯裏切ることのない 三四番歌の作者は川島皇子と記 されているものの、山上憶良の作とも注記されています。 二つの謀反事件と、それに関わらざるを得なかった人々の苦悩を させる歌だといえます。 県民だより奈良 2020-1 (万葉文化館井上さやか)
※1 〇印 天武八年吉野宮に行幸し皇后と皇子に詔し誓いを立てる
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浄御原朝廷での河嶋皇子の生活は決して不幸ではなかった。帝紀や上古諸事の記定にたずさわるに 白浪の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ (巻一~三四) の一首がある。「或いは山上臣憶良の作と云ふ」ともいわれ検討を要するが、和歌のたしなみもあったと 先に一部を引いた『懐風藻』の伝には、前引の「淡海帝の第二子なり」につづいて、 志懐温裕、局量弘雅。始め大津皇子と莫逆の契を為す。 とある。「莫逆」はたがいに逆らわないことで、大津皇子と心の通じあう親しい関係にあった、というので また河嶋は天武の皇子の忍壁とも親交があったと思われる。それは、 柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女と忍坂部皇子に献る歌一首の題詞をもつ歌(『万葉集』 右、或る本に日く、河嶋皇子を越智野に葬る時、泊瀬部皇女に献ずる歌なり。 とあることにより、河嶋が忍壁(忍坂部)の妹·泊瀬部皇女を妃としていたことがわかるからである。 つまり河嶋と忍壁とは泊瀬部皇女を介して義兄。義弟の間がらとなる。 いつその関係が生じたかは明らかではないが、持統五年に河嶋の没した時の年齢が三十五歳だから、 このように河嶋は天武の朝廷において、一方では相当の待遇を得、貴族としての教養も備え、他方 では天武の皇子のうち、比較的年長で自分と年齢の近い大津·忍壁の両皇子と親交を結んでいた。彼 は天武の朝廷で安定した地位を得ていたといってよいであろう。 しかし見方をかえると、三皇子の結びつきは疑惑を呼びかねない要素をもち、河嶋の立場をかえっ て不安なものにしないとは限らない。 ここで天武の皇子たちに目を移すと、先に天武八年の吉野行幸や、天武十四年の授位について述べ たように、天武朝における皇子たちの序列は、①草壁、②大津、③高市、④忍壁で、その他の場合 長·弓削(以上、母は大江皇女)、舎人(母は新田部皇女)、新田部(母は藤原鎌足の娘·五百重娘)、 つまり河嶋は、天武の有力な四人の皇子のうちの二人ととくに親しいのである。しかも河嶋自身も、 もし疑いの目を以て見るならば、三人の母にも一種の共通性のあるのに気づく。河嶋の母は忍海造 母方の援助が弱い点では、胸 肩君尼子娘を母とする高市皇子も同じである。万一、その共通性から 天武の宮廷でこの不安をもっとも強く感じていたのは鶴野皇后であろう。高市は天武の皇子中の最年 天武がしだいに老境に近づき、皇位継承が現実の問題になるにしたがって、河嶋皇子に対する無言 の圧迫が高まったのではないか、と私には思えるのである。 直木孝次郎 飛鳥より |
天武天皇は治世の一五年目の朱鳥元年(六八六)九月九日、ついに五十余年の生涯を閉じ(ふつう 津(大津)の逆を謀るに及びて、島(河嶋)則ち変を告ぐ。 と記す。大津の謀反発覚は、莫逆の友であった河嶋の密告によることがこれでわかる。なぜ河嶋は親 友を裏切ってこれを死地に追いこんだのか。誰しも感ずる疑問に対して河嶋の伝はつぎのように述べ 朝廷、其の忠正を嘉(よ)みすれど、朋友は其の才情を薄しとす。議する者、未だ厚薄を詳(つまび) 朝廷は河嶋の忠正な態度を賞したが、友人たちは河嶋は人情に薄いとして非難した。それぞれもっ ともであるが、第三者として議論する者は、皇子が忠義の心に厚いのか、友人としての情宜に薄いの か、よくわからない、というぐらいの意味だろう。伝はなおつづけて言う。 然れども余以為(おもえ)らく、私好を忘れて公に奉ずるは、忠臣の雅事、君親に背きて交を厚くす しかし私が思うのに、私情をなげうって公に奉ずる(親友をも告発する)のは、忠臣としてなすべき正 しいことである。君や親に背いて友との交わりを厚くするのは、徳に反する連中のすることなのだ。 しかし、こうは思うものの、河嶋皇子が争友――争ってでも相手の誤りを正すという真の友人――と して、なすべきことをせず、親友の大津皇子を塗炭(泥水と炭火、水火の苦しみ)に追いこんだことは、 私も疑問を感ずる(以上の解釈は「日本古典文学大系」本『懐風藻』の注を参照した)。 遠まわしな表現ながら、結論としては『懐風藻』の編者は河嶋皇子を非難しているのである。 たしかに「伝」のいう通りである。しかし河嶋の立場を考えると、複雑微妙である。大津がどれくらい叛 しかし彼が天武の没後の政局に不安を感じていたことは事実であろう。天武が没すれば、鶴野皇后が 草壁を守るために、最大のライバルの大津を失脚·没落させようとし、謀反の疑いをかけてくることは十 おそらく河嶋が大津と親交を結んだときは、天武もまだ壮健で、大津と草壁との関係はそれほど切迫 大津が謀反を企てていたかどうか不明であることは先に述べた。しかし鶴野皇后を中心とする政治 のありかたに何ほどかの不満を持ち、不平を親友の河嶋に洩らすことはあったろう。告発しようと思 えば、河嶋には材料があったにちがいない。 こうして大津は死を賜り、河嶋は身を全うすることができた。ただし身を全うしたといっても、『日本書紀』 大津についで鶴野皇后に警戒されていたと思われる忍壁皇子――河嶋の義兄――はどうかというと、 持統の朝廷からは河嶋以上に疎外されたと思われる。 忍壁よりましであったとはいえ、持統朝ですごした河嶋の歳月は、苦渋に満ちていたのではあるま いか。先に私は河嶋の作の短歌一首を挙げたが、その歌にも彼の悩みがにじんでいるように思われる。 それには、「紀伊国に幸しし時の川島皇子の御作歌」という題詞があり、左註に「日本紀に日く、朱 鳥四年庚申の秋九月、天皇紀伊国に幸すといへり」とあるのを参照すると、持統四年九月の天皇の紀 伊行幸に供奉しての作と推定される。 そう考えてよければ、河嶋の作歌「白浪の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ」から当然 想起されるのは、持統四年をさかのぼる三二年の昔、斉明四年(六五八)に謀反の罪で捕えられ、紀州 磐代の浜松が 枝 を引 き結び真幸くあらば また 帰り見む (巻二~一四一) しかし有間皇子はふたたび「浜松が枝」を帰り見ることなく、藤白の坂で刑死した。河嶋のこの紀伊の |
『日本書紀』によれば、天武天皇は朱鳥元年(六八六)九月九日に飛鳥浄御原宮の「正宮に崩じ」
それ から二三日目の十月己巳二日に、「皇子大津の謀反発覚し、皇子大津を逮捕す」とあり、翌庚午 三日 に「皇子大津を訳語田(おさだ)の舎に賜死(みまから)しむ」とある。一九八六年十月三日は大津皇子 没後満一三〇○年の命日になる。 この日、私は桜井史談会の招きにより、橿原市東池尻町の御厨子観音の名で知られる妙法寺に行き、 皇子追悼の講演を行なった。寺は天香久山から東北に延びる丘陵の中腹の見はらしのよいところに在 るが、丘陵の裾を東から北にひろがる水田は、かつての磐余池の跡と考えられる。この磐余池跡の推定 ところで皇子が死を賜った舎のある訳語田はふつう桜井市戒重の地とされる。磐余池の東北約一:五
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六四三年(皇極二)十一月一日、聖徳太子の嫡男、山背大兄王の住む斑鳩宮は、突然、蘇我入鹿の 聖徳太子が死んでもう二一年たつが、太子の築きあげた勢力と人望をうけついだ山背大兄が、当時 の政界に占める力は大きく、彼を天皇に立てたいと望む人々は少なくなかった。彼自身も皇位に希望 をかけていた。時の天皇は女帝の皇極である。夫の舒明天皇の死後に後継者が定まらないため即位 その願望に対するもっとも大きな障害は、山背大兄王の存在である。 入鹿は父の蝦夷も知らないうちに、ひそかに兵をあつめ、山背大兄王の宮に焼討ちをかけたのである。 陰暦朔日、新月の夜、闇にまぎれての夜襲ではないかと思われるが、さすがに山背大兄王、不意を つかれながらも、寄せ手の副将土師裟婆連を戦死させるほど手痛くたたかい、囲みを破って生駒山に 直木太次郎 飛鳥より |
山背大兄王一族の滅亡事件には、大化改新の中心人物中大兄皇子は姿を現わしていない。しかし、 この悲劇を傍観する皇子の心中は複雑なものがあったはずである。皇極女帝の治下皇位継承の候補 しかし熟慮するまでもなく、上宮王家をほろぼして意気あがる蘇我氏が、かえす刀で中大兄を襲う おそれは大きい。中大兄は年は古人大兄より若いが、現天皇を母とする血統の点では、蘇我氏を母と する古人のそれを上まわる。山背大兄以上に有力な次代の天皇の候補である。古人大兄をおしたてよ うとする蘇我氏の次のねら いが、中大兄に照準をあわせていることは明白である。 この危機を打開するには先手をうつほかはない。若い中大兄は決然と行動をおこし、政界きっての智謀の士、中臣鎌子(藤原鎌足)がこれを助ける。飛鳥寺での蹴鞠の遊びが両者のまじわるきっかけとなり、 儒学の師、南淵請安の家へ通う道すがら、蘇我氏打倒の策を練ったというエピソード『日本書紀』は伝え ている。鎌足は蘇我一族中の有力者、蘇我倉山田石川麻呂を味方にひきいれ、さらにその娘を中大兄 の妃にいれてちぎりを深めるなど、慎重に手を打ったうえで、六四五年(皇極四)六月十二日、蘇我入鹿 打倒のクーデターを決行する。おりから梅雨にけぶる飛鳥板蓋宮の殿上で、入鹿は中大兄のふるう剣を 身にうけてたおれ、翌日、父の蝦夷はみずから邸を焼いて死んだ大化改新の幕はこうして切って落され た。 直木太次郎 飛鳥より |
強大な蘇我氏が勢いを失い、ここにはじめて天皇中心の政治が実行できる条件がととのった。皇極は 位を中大兄にゆずろうとしたが、二十歳になったばかりの中大兄では、この政変のなかで天皇になるに は若すぎる。彼は鎌足とはかって、皇極の弟で、このとき五十歳の軽皇子を皇位につけ(孝徳天皇)、自 分は皇太子となって政治の実権をにぎり、阿部倉梯麻呂、蘇我石川麻呂を左右大臣として、政府の首 脳部をかためた。皇極四年は大化元年となり、その八月、政府は東国と大和とに使者をおくって、土地 と人民の調査をはじめ、国家権力による全国支配の政策を軌道にのせる。天皇制中央集権国家のスタ ートである。 一方、中大兄は、かつてのライパル古人大兄に追い討ちをかける。古人大兄は蘇我氏の 没落とともに政界での望みを捨てて吉野の山に入るが、中大兄は謀反の疑いありとして、兵をつかわし て攻め殺すのである。妻妾、王子もともに死んだ。非情な古代政治史のひとこまである。そうして中大兄 は同じ年の末、難波遷都を断行して、あたらしい政治をあたらしい都でおし進める。大和はしばらく政治 の中心から離れるが、国と評(こおり。郡)とからなる地方制度や、画一的な祖税制度など、支配の体制 都がうつって五年目の六四九年(大化五)、飛鳥の山田寺で、右大臣として令名の高い蘇我石川麻呂 という歌を皇后に送っているが、いうまでもなく皇后を大事に飼っている馬にたとえ、皇后と皇后をつれ 孝徳は悶々のおもいにたえかねて、皇位を去ろうとしたが、結局翌年、さびしく難波で世を去り、都は |
わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れくるかも 主人 大伴旅人(五~822) (梅·鳥梅) 梅の花は春のことぶれ。 かつては柳芽、霞、鶯とかが春のことぶれであったが梅の渡来により、梅の花が春のことぶれとして歓 梅花の歌で壮観なのが大宰帥大伴旅人卿宅での饗宴にて詠まれた「梅花の歌三十二首」。天平二年 「于時、初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋。 夕軸結霧、鳥封 縠(うすもの) 而迷林。庭舞新蝶、空帰故鴈。……後略」 折りしも初春のよき月で、気は清澄にして風はやわらか、梅は佳人の鏡前の粧ひのように開き欄は匂 鳥は林のなかで迷うている。庭には新蝶が舞い、空には故雁が帰ろうとしている。…… 後略、という 周知の旅人は大伴安麻呂の長男で家持の父である。旅人が大宰帥に任ぜられたことは、『続紀』の記 有力な説。梅の歌の早期の編集では巻三~四首、巻四~三首となっているが、作者は藤原八束、大伴 |
山振の 立ち儀ひたる 山清水 的みに行かめど 道の知らなく 高市皇子(二~158) やまぶき (山吹·山振·山麻夫伎) 「山吹の花が装いをこらして一面に咲いているあたりの山清水を汲みに行きたいが、行く道がわから 春の山野に咲く黄金の花。「山振之 立儀足 山清水・・・」に訓解の曲折があったのを、「ヤマプキノ タチョソヒタル ヤマシミッツ」と改めたのは「代匠記』」の契沖であった。山吹は既に万葉の頃から多く詠ま 花咲きて 実はならずとも 長き日(け)に 思ほゆるかも 山吹の花 (十~1860) 花が咲くだけで、実はならないとしても、長い間花の咲くのが待ち遠しく思われることよ。山吹の花、実 このように古くから両種類の山吹があったらしい。高市皇子の山吹はどちらであるのか。山深い谷間の 高市皇子は、生涯に三首の歌を残すのみで、すべては異母妹の十市皇女に贈られた挽歌。二人と も父は天武帝で、高市の母は胸方君尼子娘。十市の母は額田王。皇女は近江朝の大友皇子(父天智, 「山吹のにほへる妹」を求めて、十市皇女を取り戻すための
「黄泉」に至る道を探し求めて、山路に迷い 厚見王の歌一首(春の雑歌) 河蝦(かわず)なく 甘奈備川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花 (八~1435) カジカが鳴く甘奈備川に影をうつして今ころは咲いていることであろうか、美しい山吹の花よ。 山吹は風の吹くままに枝がゆれ動くので「山振」とも表記される。厚見王は父母は不明だが天平宝 字元年に従五位上を授けられる。 |
玉くしげ
見む圓山(まとやま)の さなかづら
さ寝ずはついに ありかつましじ 藤原鎌足(一~94)) さなかづら(狭名葛·佐奈葛) さねかづら (狭根葛,核葛) 「見むまと山のさなかずらーそのかづらの名のように、さねずー手枕まかずに、結局はこのまま 耐えていることができないでしょう」 現代ではサネカズラであるが、万葉ではサナカズラとサネカズラの両方がある。サネは実のこ と、カズラはつるの意味で、赤い実の目立つ蔓のことである。サナカヅラは「逢う」にかかるとい うこと。秋に蔓が延び、隣の蔓と縄のように絡まり合い=逢うという状態を導くのに実に適切な言 葉ということができよう。 歌は藤原鎌足が鏡王女と逢う時に贈ったものである。鏡王女は額田王の姉と言われる。姉妹はと もに中大兄皇太子(天智天皇)の寵愛を受けたが、鏡王女はやがて鎌足の正妻となった。鎌足の二 男藤原不比等は鏡王女から生まれたのではないかとの興味深い憶説があるが、真偽のほどは確かで はない。 |
吉野より蘿生(こけむ)せる松の柯(えだ)を折り取りて遣はしし時に、 額田王の奉り入れたる歌一首 み吉野の 玉松が枝は 愛(は)しきかも 君が御言(みこと)を 持ちて通はく (11~113) まつ(松·待·麻都) 「み吉野の立派な松の枝はいとしいことよ。あなたのお言葉を持って通ってくるのですもの」 初期万葉の代表といえば額田王。その生涯は謎をみながら最も広く知られている万葉女性歌人であ 弓削皇子は大江皇女(天武帝の妃)の第二子で兄に長皇子がある。おそらく持統女帝の行幸に従駕し 弓絃葉の上を鳴き渡って行く小鳥を、古に恋うる鳥かもと詠んだ弓削皇子の贈歌に対して、それはホ |
慶雲三年丙午、難波の宮に幸しし時、
志貴皇子の御作歌 葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて寒き夕へは 大和し思ほゆ 志貴皇子 (一~64) あし(葦) 「葦辺行く鴨の羽がいに霜が降って、寒さが身にしむ夕べには大和が思われてならない」 志貴皇子は天智天皇の第七皇子で、母の越道君伊羅都売が生んだ唯一の皇子であった。政変の激 しい時代に、天武、持統、文武の諸天皇に仕え、気品のある秀歌を『万葉集』に六首を残している。 御子の白壁王が即位して光仁天皇となった時に追尊されて「御春日宮天皇」「田原天皇」など の号が諡号られている。 上掲の歌は慶雲三(706)年九月二十五日に、文武天皇が難波に行幸された時に志貴皇子が詠んだも 弟日娘と(おとひをとめ)と 見れと飽かぬかも (一~65) 宮地 たか 花まんだら より |
居明かして 君をば待たむ ぬばたまの わが黒髪に籍はふるとも 磐姫皇后 古歌集(二~89) 「一夜を寝ずに明かしてあなたをお待ちしましょう。 ぬばたまのような私のこの黒い髪に、夜の霜が降りましょうとも」 ヌバタマは、「黒·黒し·黒駒·黒髪·黒髪山(地名)·髪·黒馬·黒牛潟村(地名)·大黒·夜·一夜·宵·タべ・月·昨夜 ぬばたまの黒髪の磐姫皇后は大へんに嫉妬深く、仁徳帝が他の女性に心を移すと率直に怒りを爆 発させて「足もあがかに(地団駄を踏むばかりに)嫉みたまひき(「仁徳記」)」の有名な伝説がある。 |
新田部親王に献る歌一首 勝間田の 池はわれ知る 蓮無し 然言ふ君が 髭無きが如し 未詳の婦人(十六~3835) は ちす (蓮) 「勝間田の池をわたしは知っております。蓮などありません。そういうあなたに髭がないのと同じですよ」 蓮の古名はハチス(蜂巣)でハスと呼称されるのは平安中期の頃からだとか。 蓮の花弁を装飾した「蓮華文」は、仏像の光背や台座を飾るとともに軒丸瓦の文様としても既に藤原宮 題詞の新田部親王は天武天皇の第七皇子。左注によれば皇子は勝間田の池(所在未詳)に遊行され、 そもそも親王には髪があったのか、なかったのか。私の思うに、思いがけない「蓮無し」との婦人の逆襲 ハチスは既に古事記歌謡にある。大長谷若建命(雄略天皇)に引田部の赤猪子が献上したと伝えられ 日下江の 入江の蓮 花 蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも いつまでも若くありたいという人間の悲願が込められている。かくも女ざかりが蓮花の美に例えられた |
倉山田石川麻呂は、蘇我蝦夷の末弟、倉麻呂の長男で、入鹿の従兄弟だった。しかし、大化のクーデ 遺体に斬りつけるなど、古代史上にも類をみないほど残忍な殺害を伝えるこの事件は、菟罪だったとい しかし、中大兄と鎌足は初めから無実を承知しながら殺した、ともいわれる。「仕組まれた事件」だった、 との見方も少なくない。 事件が、左大臣だった阿部倉梯麻呂が病死してわずか七日後に起こったことも見逃せない。作家の 猪熊兼勝氏も「左大臣の死は石川麻呂の勢力を強めた。何ら姻戚関係を持たない鎌足にとって、 ともかく、この事件を経て中大兄と鎌足はその権力をさらに強めた。蘇我氏は、本宗家に続いて傍系 |
白雉四年(六五三)、皇太子(中大兄)は天皇に「倭の京に移りたい」と申し入れた。天皇は許さなかった すると皇太子は、間人皇后を奉じ、大海人皇子など諸皇子を引き連れ難波を後にし、飛鳥に戻った。 皇后にまで去られ天皇は恨んで歌を詠んだ。 鉗(かんな)着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 見つらむか どうして他人が見る……·) 天皇は失意のうちに病気になり、翌五年十月、難波宮で亡くなった。〈巻二十五,孝徳天皇〉 これまた有名な孝徳帝の“置き去り”事件。威容を誇った長柄豊碕宮は、四年ばかりで幕を閉じ、宮都 間人皇后は夫を見捨て、同母兄の中大兄に従った兄妹の“許されぬ恋”を“置き去り”事件の要因とみ る文学的解釈もある。 しかし研究者の間では、外交方針の分裂が背景にあった、との見方が強い。当時の東アジア情勢は、 井上光貞氏も同様の見解で、「胸を張って外港の地に都をおいた当時の理想をもはや果たせなくなった 靍井忠義 日本書紀の大和 より |
斉明六年(六六O) 十月、唐、新羅と戦う百済の鬼室福信から救援軍の派遣と余豊輝の送還を求めて 斉明女帝は、「百済国は戈を枕にし、胆(い)を嘗(な)める苦労をしつつ、救援を願い出てきた。どうして 〈巻二十六,斉明天皇〉 「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今はこぎいでな」。額田王の有名な万葉歌は、この途 実は、百済は西征の前年、唐·新羅連合軍のために滅亡していた。蘇定方の率いる唐軍は水陸十万、 ときの新羅王は武烈王。大化三年(六四七)から一年ほど人質として日本に来たことのある金春秋だっ ただ、高句麗征討に精力を傾ける唐の百済進駐軍は手薄だった。このため、滅亡直後から遺臣らに 日本にとって百済は古くからの友好国。滅亡すれば半島への影響力を完全に失う。そればかりか、唐 しかし、書紀の西征の叙述は異様に暗くて、気味悪い。女帝は朝倉橘広庭宮(福岡県,朝倉町)に滞在 六六二年、中大兄が称制(即位式をあげずに天皇となること)して、天智天皇となった。百済へのテコ入 豊璋は、三十年間も人質として日本にいた百済の王族天智もその気心を知り尽くしていた。 しかし、王の器ではなかったのか、あるいは疑い深かったのか、福信に謀反の疑いを抱き、処刑してしま った。首を酢潰けにした、という。天智二年(六六三)、阿倍引田臣比羅夫らの救援軍二万七千人が出発し た直後のことだった。 百済の内紛
(福信処刑)を知った新羅はすかさず軍を出し、州柔城(つぬ)を囲んだ。一方、唐も百七十般 八月二十七日、到着した日本の軍船と唐の軍船が会戦した。日本側は「攻めかかれば相手はおのず 豊璋王は高麗へ逃げ去った。州柔城は陥落、多くの人々が日本に亡命した。〈巻二十七·天智天皇〉 靍井忠義 日本書紀の大和 より |
舒明天皇と法提郎媛(蘇我馬子の娘)の間に生まれた皇子。大化改新(六四五年)
直後、謀反の疑いで中大兄皇子に滅ぼされた。蘇我氏政権が続いていれば皇位 |
推古女帝の登極
物部守屋が、蘇我馬子や厩戸皇子(聖徳太子)らに討たれ、物部本宗家が滅んで直後の五八七年八月、 崇峻五年(五九二)十月、イノシシを献上した者があった。 天皇は指さし、「いつかはこのイノシシの首を 斬るように、きらいな男の首を斬ってしまいたいものだ」と言った。多くの武器を用意した。 伝え聞いた馬子は、自分が憎まれていることを恐れ、徒党を集めた。そして十一月三日、東 漢直駒に まもなく駒は、天皇に仕えていた馬子の娘、蘇我嬪河上娘を奪って妻とした。 これを知った馬子は、 崇峻天皇は欽明天皇の子で、母は蘇我稲目の娘、小姉君。馬子には甥にあたる。 「敏達天皇殯 宮事件」で皇位に野心を示し馬子に殺された穴穂部皇子とは同母兄弟。当初は、守屋ー 倉梯宮は、『古事記』では、「倉椅 柴垣宮」と記す。桜井市倉橋の寺川の渓流沿いにある金福寺あたり 倉梯岡酸も同所に治定され、崇峻陵として宮内庁が管理している。しかし、もちろん確証はない。樹林 北東約一·八キロ、倉橋ため池のたもとに「本当の崇峻陵」との見方が有力な古墳がある。赤坂天王山 南側に横穴式石室が開口している。花こう岩の巨石を積み上げて造り、全長約十五メートル。玄室は 幅一·七メートル、高さ一·ニメートルもある凝灰岩製のくり抜き式家形石棺が南北に納められている。斑 鳩·藤ノ木古墳の朱塗り石棺よりひと回り大きい。 自由に入ることができる。羨道部を進むとすぐ真っ暗闇に。懐中電灯を照らすと、巨大な石棺が浮かび 集落からは離れているとはいえ倉橋の地にあり、名前も「天王山」。即日埋葬の記事を信用するなら立 崇峻陵を伝承する古墳がさらにもう一つある。藤木古墳だ。 地元で語り伝え、法隆寺の江戸時代の古文書には図入りではっきりと「崇峻天皇御廟御陵山」と書か いずれが本当の崇峻陵なのか、まだまだ解けぬ謎だが、『延喜式』の崇峻陵の項は注目していい。 文献の伝える崇峻天皇の死と陵墓は実に“異常"なのだ。それだけに謎は深い。竜門山塊の北麓、は |
祭神は、「学問の神様」とあがめられる平安前期の公卿で文人の菅原道真、野見宿祢、そして土師氏、 拝殿は本瓦ぶき、社務所に続く渡り廊下などもあり、何となく優雅なたたずまい。古びた屋根の軒丸瓦 同社発行のパンフレットには、「全国各地に道真をまつる神社が設立され、世に道真を天満自在天神と いま、その知名度や参拝者の数では、北野と太宰府の天満宮に及ぶべくもないが、確かに由緒の点で 北約百メートルに道真の生誕地と伝えるところがあるから、というわけではない。日葉酢媛陵や田道間 直木孝次郎氏は、「本拠地である菅原、秋篠の地の近くに、垂仁陵、日葉酢媛陵と伝えられる古墳があ 和銅元年(七〇八)の秋、平城京造営にあたって、元明天皇が菅原の地を視察、その後、民家九十軒を 近年、平城宮跡内から四~五世紀の集落遺跡が検出され、調査にあたった奈良国立文化財研究所は 菅原神社のすぐ西南には、かつて管原寺と呼ばれた喜光寺がある。行基の創建と伝えるが、菅原氏の その一つが、河内土師氏の本拠地だった、といわれる大阪府藤井寺市の「土師の里」土師神社とも呼 一方、奈良時代に百舌鳥土師氏という氏族がいたことが『続日本紀』などから知られるが、堺市には百 このほか、箸墓の「箸」や北葛城郡広陵町著尾の「箸」も、「ハジ=土師」に関連するのでは、との考え方 靍井忠義 日本書紀の大和 より |
天武は即位後すぐに高市大寺の造営に着手し、のちに大官大寺と改め、天武朝末年にはかなり寺観 天武十四年、川原寺、飛鳥寺とともに大官大寺で天皇の病気回復を祈る法要が営まれた。書紀の三 これについて門脇禎二氏は「飛鳥寺にとっては地位の大低下だった。ひとり飛鳥を代表する大寺として 大官大寺跡は、香久山の南方、橿原市南浦町から明日香村小山、奥山にわたる地域に現存する。 昭和四十八年以来およそ十年がかりで、奈良国立文化財研究所が発掘調査した。 その結果、中軸線上に中門、金堂、講堂が並び、金堂の前(南)方東側に塔を配し、回廊は中門、金堂 金堂基壇は東西約五十三メートル、南北二十八·五メートル、高さ一・七メートル。あまりに大きく、従 来は、講堂跡と考えられていたほど。確認された建物は九間×四間。藤原宮や平城宮の大極殿並みの 塔跡基壇も大きく、東西三十六メートル、南北三十七メートル。塔本体は一辺十五メートル。香久山をし のぐ、高さ百メートル近い塔だった、と推定された。 『大安寺縁起』などは九重塔だった、と伝える。 問題は造営時期。出土した瓦は、藤原京時代よりもむしろ新しい様式だった。しかも、金堂と中門の基 下層から、藤原京が造られる直前まで機能していた建物跡が見つかった。いずれも、藤原遷都 (六九四 寺域が藤原京の条坊にきっちり乗って、左京四坊九・十条の六町分(東西二百六十六メートル、南北四 大官大寺跡の大官大寺は藤原京時代のもので、天武朝の大官大寺 (高市大寺)は別の場所にあったこ 天武朝の大官大寺は、飛鳥寺南方説、奥山久米寺(明日香村奥山)説、紀寺跡(同村小山)説などがあ 大官大寺の謎はほかにもある。『大安寺縁起』によると、百済大寺という寺を高市の地に移したのが 大安寺は、左京六条四坊、いまの奈良市大安寺町に法灯を伝える。奈良時代の建物は全く残らない 一方の百済大寺は、舒明天皇十一年(六三九)、百済川のほとりに百済宮とともに造営を始めた、と書紀 候補地の一つが北葛城郡広陵町百済の百済寺付近。 東方を流れる曽我川は百済川と呼ばれたこともあり、まさに百済の地。鎌倉時代の立派な三重塔 (重文) 地元の歴史愛好者らには百済大寺跡と信じる人が多く、町は昭和六十三年度から範囲確認調査を始 いま一つの候補地が香久山北西麓。橿原市高殿町に 「東百済」「百済」「西百済」の小字名があり、百済川と呼ばれる小川も流れていることや付近から古瓦が 昭和六十一年、その「百済」の地のすぐ隣(東南)木之本町で行われた奈良国立文化財研究所の飛鳥 「木之本廃寺」と仮称されるだけで、伽藍の実態などは全く明らかでないが、最近、大官大寺跡の有力候 補地として大いにクローズアップされるようになった。 百済大寺は、子部(こべ)の杜を切り開いて造ったため、神の怒りに触れ、完成したばかりの九重塔と 百済大寺ー高市大寺ー大官大寺ー大安寺。地下に埋もれる筆頭官寺にまつわる謎は深い。 |
斉明紀四年に記されている有間皇子の謀反事件では、留守官蘇我赤兄臣が有間皇子に斉明天皇の 三失政を挙げて謀反をそそのかすのだが、三つのうち、「長く渠水(みぞ)を穿(ほ)りて、公粮を損(おと )し費すこと」「舟に石を載みて、運び積みて丘にすること」有間皇子は逮捕された際、謀反を起した理 由を尋ねられ、「天と赤兄と知らむ。吾全(おのれもは)ら解(し)らず」と答えた。「天」を中大兄皇子とす るの が一般的だが、私は斉明天皇を指すと思う。後年、有間皇子を偲んだ歌が数多く作られたが、 天智の子である川嶋皇子も歌を詠んでいる(『万葉集』巻九 ~一七一六の左註)。もし中大兄皇子(天智 )が事件の背後にいたら、川嶋が歌を作ることはなかっただろう。『日本書紀』の分註によれば、有間皇 子はかなり周到な軍事行動を計画していたらしい。 斉明紀によれば、狂心の渠の掘削には三万余の功夫、宮の東の山に石垣を築くのに七万余の功夫 |
462年、大泊瀬幼武天皇(第二十一代雄略天皇)は、妃に桑の葉を摘ませ、養蚕をすすめようと考え、 臣下である螺嬴(すがる)に蚕を集めるように言いました。すると螺嬴は誤って子どもを集め、天皇に また、あるとき天皇は、螺嬴に私は三諸岳の神の姿が見たい。お前は力が強いので捕まえてこい。」 と命じます。螺嬴が三諸岳で大蛇を捕らえて天皇に見せたところ、その蛇は雷のような音を轟かせなが ら目を爛々と光らせたので、天皇は恐れてご覧にならず、蛇を丘に放させました。そして、その丘に雷と また、『日本霊異記』には、螺嬴(『日本霊異記』では柄軽)が亡くなった後、雷が落ちた場所に彼の墓 をつくり、「雷を捕まえた栖軽の墓」と碑を建てました。すると雷は怒ってその碑を蹴り割ろうとしたとこ 雄略天皇は、日本国内の古墳の副葬品に刻まれていた銘文から、実在の人物であり、中国の
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甘樫丘の下の広場から遊歩道を西北へたどる と、ほどなく明日香村豊浦。豊浦寺跡に建つ向原寺 の神名 帳では、甘樫 坐 神社四座とみえ、大社 であった。その社名から、「甘樫」と称する地 域にまします四柱の神を祀る神社であることが わかる。しかし現在の神社は、「豊浦」の地に あって境内地も狭く社殿も簡素で、甘樫坐神社 四座とするには問題が多い。 近世に成った『大和名所記』(『和州旧跡幽考」と も。延宝九年〈一六八一>)や『大和志』(享保二十一年<一 七三六>) では、甘樫神社の祭神を推古天皇とする。 崇峻 天皇五年 (五九二) 十二月、推古天皇は の地に豊浦寺が創建されたと伝える(『元興寺縁 起』)。向原寺の庫裏新築に際して実施された発 掘調査で、創建当初の豊浦寺講堂が検出され、 右の伝承は史実であることが確認された。さら にその下層から宮殿建物が検出され、推古天皇 の豊浦宮であることも確定した。 向原寺では、その遺構を保存し、「推古遺跡」 として公開されている。甘樫神社が豊浦寺跡に近接していることから、近世になって甘樫神社 の祭神を推古天皇とする説が生まれたのだろう。 しかし現在の社地は、古代の豊浦寺の寺域に含 まれる可能性が大きい。また甘樫坐神社四座の 社名からみると、豊浦ではなく甘樫の地に鎮座 していたと考えられる。 中世に記述された『和州五郡神社記』に、注 目すべき記述がみえる。文安三年 (一四四六)に 牟佐坐神社 (近鉄吉野線の岡寺駅のすぐ西側にある 神社) の禰宜、宮道君が撰述したもので、正式の書名は『和州五郡神社神名帳大略注解』という。 同書によれば、甘樫坐神社四座の鎮座地を「逝 回郷甘樫丘前」とし、その四座の神を、八十禍津日命、 る。また当時は「湯起請神」と俗称されていた という。逝回郷は古代の郷名ではなく、中世の 郷名である。その郷域は、『万葉集』に「行廻 丘(ゆきみるおか)」(巻八ー~五五七) と歌われた、 八十禍津日命以下の四神は、『古事記』『日本 書紀』の日本神話にみえている。黄泉国から戻 ったイザナギ命は、身に付着したケガレを祓う ために禊をするが、そのケガレから化生したの が八十禍津日神と大禍津日神。そして、その 「禍」を水の霊力で直した神が神直毘神と大直 毘神であった。 五世紀中葉の允恭朝に、姓の混乱を正すため 甘樫丘で「クカタチ」(盟神探湯) を行なったと 伝える。物事の正邪を判定するため、熱湯の内 に小石などを投げ入れ、それを無事取り出すこ とができた者は、その言動が正しいと判定され た。クカタチを行なった場所を、「味白梼の言 八十禍津日の前」 (『古事記』)、「味橿丘の辞禍戸 さき」(『日本書紀』允恭紀四年九月条。以下、『日本書紀』 からの引用は、允恭紀四年九月条のように略記する) と伝える。いずれも甘樫丘の「禍々しい言葉 (言,辞)」を判定する場所を指し、甘樫丘の「前」 「さき」としている点が注目される。 現在の甘樫丘 (豊浦山) を巡って観察すると、 飛鳥川に架かる甘樫橋に近い所に岩盤の露頭が 認められる。甘樫丘を少し上ると、犬養孝氏揮 毫の明日香風の歌の碑がある。その付近から見 ると、頂上から東北方向に延びる尾根筋が顕著 で、その先端が山裾の岩盤であることがよくわ かる。それが甘樫丘の前·さき であろう。岩盤が 張り出しているため、雷 丘との間で飛鳥川が 大きく屈曲し、小さな滝となっている。古代に はケガレを祓う禊の場所だったのでは、と思う。 右の検討に基づけば、古代の甘樫坐神社四座 は、甘樫丘 (豊浦山) を少し上った尾根上に鎮座 していたらしい。飛鳥川で禊してケガレを祓い、 水の霊力で元の状態に直し、その上でクカタチ により言葉の正邪を判定したのだろう。四座の 神々はまた、言葉の呪力を掌る神々でもあった。 飛鳥寺の西側にあった広場が、誓約をしたり服 属を誓う場所であったのは、そこからすぐ間近 に甘樫坐神社四座を仰ぎ見ることができたから である。 |
鳥形山に鎮座する飛鳥坐 神社を訪ねてみよう。 明日香村大字飛鳥小字神奈備に鎮座する飛鳥坐 神社は、「延喜式」の神名帳にみえる式内大社で、 正式の社名は飛鳥坐神社四座という。飛鳥の地 に鎮まっておられる四柱の神を記る神社である。 飛鳥三日比売神·大物主神と伝えられているが 後にもふれるように問題を残している。 境内には五十余の末社があったと伝えられて いるが、享保十年 (一七二五)二月の火災により、 本社·末社ともに焼失した。安永十 年(一七八一)に高取藩主植村出羽守 家利により再建され、本殿 (同棟に四 座を祀る)、拝殿のほか、東側の小高 くなった一帯に、伊勢両宮·三輪, 出雲社をはじめ、八十余の末社が祀 られた。その境内はまことに広大で ある。参考までに、嘉永六年 (一八五 三) 三月に刊行された「西国三十三所 名所図会」にみえる挿図を掲げてお いた。 「図会」とは挿図入りの書物をいう。 著者は、当時、大坂を代表する著述家であった 暁, 鐘成 (木村明啓。一七九三~一八六○)。現地を 訪ね、諸史料を博捜して成ったもの。『淀川両 岸一覧』『淡路国名所図会』『金毘羅参詣名所図 会』などとともに、暁鐘成の代表的な著作であ る。本書の評価をさらに高めたのは、浦川公左 と「浪華の広重」と称された松川半山による挿 図であった。「飛鳥神社」の挿図は、西南上空 からの鳥瞰図に仕立てられている。往時の景観 と比較しながら境内をたどると、百五十年余の 変遷がわかり、興味つきない。現在、境内には 多数の陰陽石が祀られ、飛鳥坐神社は子授けの 神としての信仰が厚い。しかし挿図にはみえな いから、近代以降に集められたものだろう。 平成九年(一九九七)に老朽化した本社と拝殿 が撤去され、本殿が新しくなった。吉野の丹生 川上神社上社 (奈良県吉野郡川上村迫小字宮の平に 鎮座)が大滝ダムの建設により水没することに なったため、その本殿が飛鳥坐神社に移築され たのである。当時、飛鳥坐神社の境内には杉の 巨木が何本もあり、石段付近から本殿にかけて の一帯は、昼間でも小暗いほどだった。 ところが平成十年九月二十二日の午後、奈良 県中南部を襲った台風七号による強風で、その ほとんどが倒れた。そのため境内は明るくなり、 昔日のおもかげはない。まことに猛烈な風だっ た。奈良県北葛城郡新庄町 (現、葛城市) にある 消防署の風速計では、瞬間最大風速五九·六メ ートルを記録している。 奈良県の中部·南部では、 (西南)の方向から吹く風が強烈だったため、 大きな被害を生じた。円錐状の優美だった三輪 山の稜線も、まるで櫛の歯が欠けたようになり、 明日香村周辺の細川山や南淵山では、西南斜面 の木々が東北方向へ傾いでしまった。今でもそ の惨状を眼にする。大木の聾えていた神社ほど 被害が大きく、奈良盆地の中南部では、倒壊し た樹木でムラの鎮守の多くが大破した。多くの 巨樹が倒れた飛鳥坐神社では、倒木を整理した 跡地に、ツツジなどを植栽して整備が計られて いる。 |
折口信夫と飛鳥 鳥居の脇に、古来、名水として知られた「飛鳥井」がある。 『西国三十三所名所図会』の挿図とは異なり、今では井戸屋 形が架けられていて、湧水を眼にすることができない。石 段中程の右手に、折口信夫(釈沼 空。一八八七~一九五三) の歌碑がある。昭和三十二年(一九五七) 十一月三日に、大 和沼空会の発起により建立されたもの。細い流麗な筆跡で ある。 ほすすきに夕ぐもひくき 明日香のやわがふる里は ひをともしけり 折口信夫は歌人·詩人にして、偉大な国文学者·民俗学者で あった。悲劇的な死を遂げた大津皇子や、当麻曼荼羅を織 り成したと伝えられる中将 姫の伝承を踏まえ た小説、『死者の書』(中公文庫) は、とりわけよ く知られている。大学一回生の秋に、恩師の上 田正昭先生のお勧めで「死者の書」を読み、心 がふるえた。上田先生は初め國學院大學に学ば れ、折口信夫の薫陶を受けておられる。爾来、 繰り返し読み継いでいる。幼い頃から二上山を 眺めて育った私が、なお一層のこと、その山容 に魅かれるようになったのは、『死者の書』の 影響があるかと思う。 歌碑の歌は歌集にみえない。飛鳥坐神社の宮 司、飛鳥家に所蔵されていた短冊のなかから見 つけ出されたもの。折口信夫は、繰り返し飛鳥 を「わがふる里」と歌っている。飛鳥とは深い 縁(えにし)があった。 折口の祖父、造酒之介は飛鳥直(あたい)の後裔、飛鳥 家の出身で、大阪·木津の折口家に養子として 入った人。正確には明日香村岡の岡本家の出で、 飛鳥家の養子という形をとり、折口家に迎えら れた。折口の自伝小説『ロぶえ』にも描かれて いるように、折口は天王寺中学在学中に飛鳥坐 神社を訪ねており、それが機縁となって後に両 家の交流が復活した経緯がある。右の歌には、 故郷飛鳥への哀借の念がにじんでおり、また夕 聞に立つ折ロの孤影が浮かび上がってくる。 |
奈良市の菅原遺跡で異形の建物跡が確認された。直径15mほ どの円形建物跡を、約40m四方の回廊と塀が「ロ」の字状に取 り囲む。出土瓦の時期などから、東大寺大仏造立の立役者で もあった高僧、行基の供養堂らしい。 が、その構造や立地には 不可解な点がいくつもあり、研究者は頭を悩ませる。 無理に東寄り非対称の構造 まず、真東に東大寺を望む立地。死してなお大仏を見守るロー ケーションは「偶然ではないだろう」(東野治之。奈良大名誉 教授)。しかも丘陵上の東端に可能な限り寄せて造営され、東 への眺望に強烈なこだわりが見て取れる。 奇妙なのは、当初全体を囲むとみられた回廊が実は西半分だ けで、どうしたわけか東側は単純な塀だったらしいこと。佐藤 亜聖·滋賀県立大教授によると西側に建物全体をずらすだけの 空間的余裕はあったという。対称性を犠牲にしてまで無理に東 に寄せたのはなぜなのか。 回廊は掘っ立て柱構造で、出土瓦から瓦ぶきの屋根だった可 能性がある。だが普通、瓦の重さを支えるために用いられるの は礎石立ちの建物だから、これも腕に落ちない。 最古の多宝塔?復元案に諸説 さらに悩ましいのは外観だ八角円堂(八角墳・八角堂)の一類型、 それとも未知の構造物だろうか。従来の常識に収まらな い遺構だけに、復元案には諸説が飛び交う。 供養堂といえば、まずは八角円堂が思い浮かぶ。平面八角形 来、八角の理由について円形加工は技術的に難しいからとされ てきた。が、もしそれが可能だったのなら通説に再考を迫るば かりか、両者が混在するのはなぜか、菅原遺跡に限りあえて円 形構造を採用したのはどうしてか、新たな疑問が浮上する。 八百万や八咫烏、八卦など、8という数字は国内外で聖数扱 いされることも多い。飛鳥時代の天皇陵に採用されたのも八角 墳だ。今回の発見を機に、古代社会の思想的背景を探る動きが 活発化するのでは、との声も聞こえる。 一方、最初期の多宝塔建築とみる考えも。方形建物の上に円 (大津市)、高野山の根本大塔(和歌山県高野町)などが知ら れる。その出現は平安時代とされ、もし奈良時代までさかのぼ れば最古となって通説は揺らぐ。 中国の天壇と結びつける見方もある。中国古来の「天円地 方」の宇宙観にもとづいて皇帝が天を祭る祭壇で、明の永楽帝 が造ったという北京の天壇は世界遺産に登録されている。そん な中国思想の導入があったのかどうか賛否は割れそうだが、奈 良時代の盛んな国際交流を踏まえれば、あながち荒唐無稽とも 言い切れない。 インドの影響?海外の技術か 「日本の技術を使った木造建築でない可能性が高く、ストゥ ーパ(インドの半球形の仏塔)のようなものだったのではない か」。建築史の鈴木嘉吉。元奈良国立文化財研究所長は、そう 指摘した。 ストゥーパは釈迦など聖人の遺骨。遺品を納めた土まんじゅ う形のモニュメントで、紀元前3世紀のアショカ王ゆかりのイ ンド。サーンチーのストゥーパは有名。日本に伝わって五重塔 や三重塔になったとされ、「卒塔婆」はその音訳だ。 当時はるかインドの影響が極東の島国まで直接及んでいたの か議論は分かれるところだが、大仏開眼会で導師の大役を務め た天竺出身の僧、菩提僊那も来日しているし、東南アジアにみ られるインド的な土塔に行基やその弟子が関心を寄せていた、 遣唐使を通じてコスモポリタンな文化·芸術が花開いた奈良 時代だけに、狭川真一·大阪大谷大教授は「多様な仏塔の系統 があったのかもしれない。そのなかから結果的に選択されたの が五重塔などだったのではないか」と語る。 取り巻き関与?人物像に迫る 行基生誕の地、堺市には、行基と彼の支援者が築いたという 国史跡の「土塔」がある。平面方形のビラミッド状で、一辺53m、 高さ8m余り。13層にわたって瓦がふかれていたらしい。 土塔と菅原遺跡の円形遺構が結びつくのかも気になるところだ。 行基集団と呼ばれた彼の取り巻きは、行基の没後急速に史料 から消えてゆく。「行基集団が関与したのかどうか、興味があ る」と栄原永遠男,大阪市立大名誉教授。 常識を超えた破格の古代建築。それも行基という超人的な 存在の投影なのだろうか。坂井秀弥,大阪府文化財センター理 事長は、いう。「行基に関係する具体的な考古資料は少なかっ た。伝説的な彼の人物像が見えてきた」 |
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2年前に類例のない奈良時代の円形建物跡が検出され 東大寺の大仏建立に携わった高僧・行基 (668~749) を供養する の発掘調査報告書が刊行された。円形の建物は「多宝塔」の可能 調査を実施した元興寺文化財研究所(元文研、奈良市)が5日、 菅原遺跡では2020~21年に約2千平方が発掘調査され、回廊と が見つかった。 出土した土器や瓦を検討した結果、建物は行基の 基年譜」に登場する「長岡院」である可能性が一層高まったという。 円形の仏教建築として知られるのは多宝塔だ。方形の建物に 報告書では、いずれも建築史研究者の奈良文化財研究所の 多宝塔という復元案を提示 菅原遺跡の調査に当たっ元文研研究員の佐藤亜聖・滋賀県立 器の銘文に『多宝之塔』という言葉があり、行基の遺骨と多宝塔 と話している。 2023-4-6 朝日新聞(今井邦彦) |
平城京の西部には、押熊・秋篠の里のあたりを経て、この都
の跡を北から南へと貫いて流れる秋篠川がある。この川の流域 后陵といった古墳時代前期 (三世紀後半~四世紀) 大前方後 円墳が点在し、また秋篠寺の西方からは銅鐸四個や弥生式土器 の出土があって、大和平野北部では最も早く居住者を見た土地 である。またこの付近の住民は秋篠川をサイガワと呼んで来た が、これはあらゆる災いを遮り防ぎ、また他界と斯界(このよ)、 菅原の中央部には菅原神社と菅原寺 (喜光寺)。その上流に 当る北部には西大寺・西隆寺跡・秋篠寺。 下流の地域には 世界を構成する。 因みに都の東部は春日野だが、春日と書いて カスガと読むのはカスガの枕詞がハルヒであるためで、カスガ とは、清浄を意味するスガに、か細い、か弱いなどに見られる 接頭語の力が付いたもの、春日の山に昇る春の日に映える清浄 な神や仏の世界が春日野で、そこは春日の神山御蓋山を中心に、 つまり平城京は東と西を聖地とした吉祥の都であった。 菅原には古代豪族土師氏が居住した。 この氏族について 『日 本書紀』には垂仁天皇三十二年、皇后日葉酢媛の薨去のとき、 野見宿禰が殉死の制を止めて土製の埴輪に代えることを進言。 これによって宿禰は土師臣の姓を賜り、埴輪をはじめ古墳の造 営や天皇・皇族の葬送に携わることになる。 秋篠川流域の前期 の大古墳はこの人々の造営によるが、彼らは高度な知識と技術 を持つ人々で、古墳時代の中期には河内から和泉へと移動し て大古墳群の造営を司る。 が、 奈良の土師氏は奈良時代末期に 氏名改めを申請し、その居住区の地名から菅原氏と秋篠氏を名 乗る。 やがて菅原氏は延暦九年(七九〇) 朝臣(あそみ)の姓(か 平城宮の乾(いぬい・西北) という吉祥の地に造営された秋篠寺 宝亀十一年六月 「秋篠寺に封百戸を施入」 とあるのが初見。 善珠の開基と伝える奈良時代最後の官立寺院。秋篠氏もその 造営や運営に携わったと思われる。 延暦二十四年(八〇五)に は桓武天皇の勅命により善珠の弟子常楼が入寺、この頃には 七堂伽藍も整備されていた。 また縁起によれば、常暁律師が 当寺の本尊に帰依して参篭、このとき香水閣に湧き出る清浄香 水に大元帥明王を感得したが、 承和元年(八三四) 唐に渡って 国家鎮護の大元帥法を請来。以後正月八日に宮中で大元帥法が 修されるときは、この井の香水が運ばれるなど当寺の信仰に大 きな影響を与えた。 保延元年(一一三五)六月、講堂を残して金堂や東西両塔、 南大門・東大門・真言堂・鐘楼などのほか、 鎮守の八所御霊社 などことごとく炎上。 講堂を本堂に転用して焼け残った仏像を 修理・安置し香水閣も再建する。 嘉吉元年(一四四一)には 「僧 宇十六坊」の記事があり、寛永九年(一六三二)には寺領百石 のほか、本堂大元堂・御香水・大日堂・経堂・鎮守などの寺 社や、坊舎十七坊衆僧二十三人をあげた記事がある。 現在森 林に囲まれた静寂な境内には、本堂・大元堂・香水閣・開山堂・ 鐘楼などがあり、南門を入った右手には東塔跡の礎石群、本堂 前方の緑したたる苔むらに金堂跡と思しき礎石も点在する。 また、南門の向かって左手前には鎮守の八所御霊神社がある。 |
大池が鏡のように空を映している。水の中をのぞき込むと、無数の この場所はかつて天皇のための庭園だった。794年の平安京遷都 当時は南北は約500M、東西は約250mあり、約18万㎡の広さだっ 境内は江戸時代までの神仏習合の雰囲気を色濃く残す。 池の中 「仏様より神様の方が多いんです。びっくりする人もいますけど、こ 神泉苑は常に水と共にあった。地下鉄建設に伴って1990年代 に実施された発掘調査で、縄文時代からこの場所に自然の池があ よく知られているのは、 824年に東寺の空海と西寺の守敏が法 力を競った伝説。守敏があらゆる龍を水がめに封じ込めると、空海 は遠くチベットにいた善女龍王を見つけ出してこの池に勧請し、雨 を降らせたという。 869年に祇園祭の起源とされ祇園御霊会が行われた場所とし ても知られる。 祇園祭を行う八坂神社(京都市東山区)の本殿の地 下にある「龍穴」 と、 神泉苑の大池とがつながっているという言い 伝えもあり、今年7月には初めて神泉苑と八坂神社の水を交換する 儀式が行われた。 1200年前に池に迎えた善女龍王は、今も地下の水脈を自在に 行き来し、 古都の水源を守っているのかもしれない。 |
平安時代後半になると神泉苑は徐々に廃 れ、鎌倉時代以降も 荒廃と再興を繰り返し た。現在に近い形で整備されたのは江戸 時代の初期だ。新たに築城した二条城の堀に神泉苑の水を利用 する一方で、 京都所司代の板倉 勝重や片桐且元が歴史ある神 泉苑を復興した。規模は大幅に縮小したが、平安期の面影が残 る希少な場所として、 1935年に国の史跡に指定されている。 池には無数の鯉のほかにも、 カメやスッポンなど多くの生き物 |
京都市営地下鉄東西線の二条城前駅から徒歩2分。 大池は |
降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養(ゐかひ)の岡の 寒からまくに 穂積親王 巻二(二〇三番歌) 降る雪よ、多くは降ってくれるな。 吉隠の猪養の岡に眠っている方が、寒いだろうから。 吉隠の雪 この歌の題詞には、ある冬の雪の日、穂積皇子(大宝元年の令制定以 降は穂積親王と表記)が但馬皇女大宝元年以降は但馬内親王)の 墓を遙かに望み、悲しんで涙を流しながら作った歌とあります。 穂積親王は天武天皇の六人目に生まれた皇子で、但馬内親王は彼 の異母妹に当たります。当時、異母兄妹の男女交際は珍しいことで はなく、両者がひそかに会っていたと記す題詞(巻一・一一六番歌) も あることから、二人は恋愛関係にあったと言われています。 『続日本 紀』によれば但馬内親王は和銅元(七〇八)年六月に亡くなっており、 但馬内親王が葬られた地として歌われている吉隠は、桜井市東部 に現在もその地名を残しています。『延喜式』諸陵寮式には、光仁天皇 隠には大和から伊勢に至る交通路(後の伊勢街道)が古くから通って おり、大和から東国への出入口でもありました。そのため、吉隠の地名 には東の果ての僻遠の地という印象が伴っていたものと考えられま す。加えて、三輪山南麓から吉隠まで続く長い谷は、季節風に乗って 西から東へ流れる雲の通り道となり、初瀬から吉隠あたりでは冬に 雪が舞う景色がしばしば見られます。この歌には、こうした吉隠の土 地の特徴が反映されていると言えます。
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「石上麻呂が有力」カギは鏡と祖先の墓地 天理市杣之内町で4年ほど前に見つかった杣之内火葬墓が、奈良時代初 めの左大臣・石上麻呂 (640~717)の墓だという説を、天理大付属 天理参考館の日野宏学芸員が打ち出した。 石上麻呂は極彩色壁画が描かれ た明日香村・高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め) の被葬者の有力候補で もあり、同古墳をめぐる議論にも影響しそうだ。 杣之内火葬墓は1981年、グラウンドの建設に伴う発掘調査で発見された。 火葬墓がある杣之内地区は、古墳時代から活躍した豪族・物部氏の拠点だ 葬墓も、石上氏を率いたリーダーの墓である可能性が高いとみる。 「続日本紀」によると、702年に持統天皇が天皇や皇族では初めて火葬され、以降は文武、元明、元正と天皇の火葬が続いた。 元明天皇は721年に死去する直前、遺体は火葬し、別に墓を設けずにその場 日野さんは、別の場所で焼いた骨を埋葬した杣之内火葬墓は、元明天皇が として死去した石上麻呂が最もふさわしいと結論づけた。 一方、高松塚古墳にも唐からもたらされた海獣葡萄鏡(直径約17cm)が副 「麻呂の墓は、6世紀から継続的に物部氏、石上氏の墓が築かれてきた 古墳並みの版築で基礎が作られた火葬墓は、麻呂にふさわしい」と日野さん 杣之内火葬墓についての日野さんの論文は、10月に刊行された「天理参考 |
飛鳥時代、国家筆頭寺院として藤原京に巨大な伽藍を誇った大官大寺は、 百済大寺から変遷 「日本書紀」によると、高市大寺は天武2(673)年、天武天皇が美濃王らを 「縁起」には「百済の地から高市の地に寺を遷す」とあり、高市大寺の前身 太子から大寺にするよう依頼されたのが発端だった、と「縁起」などには記さ 一方、大宝2 (702)年には、文武天皇が高橋朝臣笠間を造大安寺司に任 この大官大寺は伽藍の完成を見ないまま、平城遷都翌年の和銅4(711)年、 高市大寺から改名した大官大寺はこの間も存続していたとみられ、 同型の瓦出土 これまでの発掘調査で藤原京左京九・十条四坊に該当する場所にあった また、百済大寺については、吉備池廃寺(奈良県桜井市)だったことが確 大安寺への変遷の多くは解明できたものの、いまなお判明していないの 藤原宮の東側にあったとされる木之本廃寺ではこれまで、奈良文化財研 しかし、寺院の遺構などは調査範囲内では確認できなかった。 相原准教授は「瓦の出土量や釘が残った仏の存在は、この周辺に古代 関連も推測させる。 木之本廃寺が高市大寺だった可能性は高い」と指摘し 相原准教授はまた、瓦の分布状況などから、 伽藍の規模や配置を推測。 藤原京に2つあった大官大寺。 高市大寺改名の大官大寺は、藤原宮(宮城)に近すぎることや、新京の国家 たのだろう」と話している。 |
飛鳥時代の女帝斉明天皇 (594~661年)が実施させ、 作業員を無駄に費や 「数万人の損」 『日本書紀』では、「狂心渠」は斉明2 (656)年是歳条に描かれている。 垣とした」。この溝工事について、「狂心の渠だ。功夫(工夫)を浪費すること 位(642年)。都とした 飛鳥板蓋宮は、息子の中大兄皇子 (後の天智天皇)らに よる蘇我入鹿殺害(乙巳の変、645年)の 現場となったところで、これを機 に 弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位 した。が、孝徳天皇の死後、再び即位(重祚) して、斉明天皇とな た。斉明天皇は、孝徳天皇が営 んだ難波長柄豊碕宮 (大阪市中央 区)から、都を再び飛鳥に戻している。 ■ 酒船石遺跡から 『日本書紀』にある「宮の東の山」。宮は斉明天皇の宮都とみら れ、その東方丘陵にあるのが酒船石遺跡。謎の石造物・酒船石や亀の形を る。 ここで使用された天理砂岩。 『日本書紀』に石上山から積載とあるが、その石上山については、天理市の 『日本書紀』は、「狂心渠」の起点「香具山の西」とするが、さらに南に下っ 幅約10m、深さ約1・3mで物資運搬用の運河跡とみられている。 相原准教授は「狂心渠は香具山 古道の側溝拡幅 では、その経路はどうだったのか。 相原准教授は飛鳥地域については、 相原准教授は3案を検討。 ①については大規模な運河の建設が必要だが、 は7世紀中頃で、斉明朝と思われる。その際、側溝を運河規模に拡 相原准教授は「藤原京の造営で資材運搬用に運河が造られているが、 |
能面「増女」は、「羽衣」や 「三輪」などの天女や女神、 「楊貴妃」のようなとても位の高い貴人の役に用いられます。 単に「増(ぞう)」と呼ばれることもあります。室町時代の 今回の増女の作者は、是閑(ぜかん)という桃山時代の面打。 能面は、時代が下ると左右非対称に作られるようになり、陰 陽が出てきます。人間味と言ってもいいかもしれません。しか し是閑の増女は、時代の割にその陰陽が少ないのです。その 分、人ではない「神性」が前面に出ているとも言えます。能面 の進化から外れた傑作です。 =おわり (金剛流二十六世宗家・金剛永謹・ひさのり)
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平城宮から遠く離れていたこともあり、「研究者もほとんど関心を示さなかっ た」といわれる光仁天皇陵。一気にクローズアップされたのが昭和5年の 光仁天皇陵からわずか500m 西側の茶畑から、 太朝臣安萬侶」と書かれた 「安萬侶墓が見つかるまで、光仁天皇陵だけなぜ都から隔絶された山間部 非主流派の悲哀 奈良時代の天皇陵は、安萬侶に古事記の編纂を命じた元明天皇をはじめ 一方で、光仁天皇陵やその南西約2㌔にある光仁の父・志貴(施基)皇子の墓 は、はるか東方の山間部に築かれた。 その背景には、皇統の問題があったとみる。 光仁は、飛鳥時代に大津宮 奈良時代の複雑な皇統は、飛鳥時代にさかのぼる。 671年に天智天皇が 死去すると、翌年には後継をめぐって息子の大友皇子と天智の弟・大海人 勝利した大海人皇子は翌年、天武天皇として飛鳥で即位し、天皇中心の 天武のひ孫の聖武、その 前園さんは「本流ではなかった天智系の光仁天皇や父(志貴皇子)は、都 果敢な改革政治 天武以来の皇統が天智系へ移ったのが、称徳から光仁への代替わりだ った。 続日本紀によると、光仁は称徳の遺言によって即位したとされるが、もと 「酒をほしいままに飲んでは行方をくらまし・・・」と記され、皇位への野望など 熾烈な権力闘争を生き抜くための老練政治家ぶりもうかがわせた。 しかし、後継に決まるとさっそく、年齢を感じさせないエネルギッシュな国づ くりを進めた。 臣下を前に「役人が多すぎる。いたずらに国費をついやして それでも年齢には勝てなかった。「脱は高齢で体も弱ってきた」。即位から 平安時代を開いた桓武天皇の誕生だ。そしてこの年の12月、光仁は78歳で |
奈良時代末の781年に死去したとされる49代・光仁天 皇。宮内庁が指定する奈良市日笠町の同天皇陵はいかにも古 墳に見えるが、古墳時代が幕を閉じたのは100年近く前。 時代が大きくかけ離れている。 同庁の管理で墳丘の学術的な 発掘はできず、築造時期はいっさい不明。 そもそも古墳かど うかも分からない。 66歳という歴代最高齢で即位した天皇の 墓をめぐっては、謎が多い。 産経新聞 (小畑三秋) 水田に囲まれた中にこんもりと樹木が生い茂り、外観はきれ いな円墳だ。奈良県遺跡地図(県発行)では「田原東陵(光 仁陵)」の遺跡名で登録され、「古墳時代、円墳、直径36m、 石室」と記され、文字通り「古墳」との位置づけだ。 光仁天皇陵については、平安時代初めに書かれた歴史書「 陵(奈良市北部)に葬られたが、光仁の後を継いだ息子の 「延喜式」には「田原東陵」と明記。現在の光仁天皇陵一帯 は、今も「田原地区」と呼ばれている。 幕末には各地の天皇陵とともに再整備され、領主だった津藩 主・藤堂高猷(たかゆき)が、幕府の山陵奉行に願い出て藩費 江戸時代後期の記録には「羨門あり、幅四尺」と記され、石 室もあったらしい。 奈良市教委 前園実知雄・奈良芸術短大特任教授は「続日本紀の記述から も、位置的に光仁天皇陵とみて「矛盾はない」とする一方、「外 観はまさしく古墳。 田んぼのなかにぽつんと築かれており、 本 当に不思議だ」と話す。 宮内庁が調査 実態解明へチャンスもあった。 平成8年、光仁天皇陵にあ る宮内庁の管理施設の改築工事が計画され、事前に調査が 同庁の「書陵部紀要49号」(平成10年3月発行)では、エ 事に際して「遺構・遺物の発見に備えた」としたが検出され なかった」と報告。同28年度にも参道が調査されたが、遺物な どは見つからなかった。 同庁の元陵墓調査官、徳田誠志・関西大客員教授は「光仁天 皇陵は墳丘の発掘も行われておらず、情報が全くないといって いい。 現在の姿は幕末に整備されたもので、古墳かどうかも含 めて本来の姿は分からない」 と指摘する。 南西約2㌔には、光仁天皇の父・志貴(施基皇子として同 庁が管理する墓もあるが、県遺跡地図では「田原西陵 古墳時 代、円墳、直径40m」とあり、光仁天皇陵と同様に「古墳」と されている。 786年の光仁天皇陵の改葬は、少しでも父・志貴の墓の近 くにとの配慮ともいわれる。 もともと古墳だったのを光仁天皇 の墓として再整備したとの見方もできるが、具体的な資料はな く定かではない。 太安萬侶墓の発見 光仁天皇陵が注目を集めたきっかけは、約500M西の茶畑 昭和56年、太安萬侶墓が発掘されたことだった。 国内最古の 歴史書の古事記を編纂した奈良時代の高級官僚で、「安萬侶」 と記された墓誌が発見された。 当時の発掘を担当した前園さんらは、安萬侶墓にとどまらず 一帯についても調査をした。 地元住民の話などから、 周辺の 光仁天皇陵や志貴皇子の墓が、当時の都平城宮 (奈良 市) から遠く離れた山間部にあるのを疑問に思っていた前園さ ん。「安萬侶墓が見つかったことでこの一帯は、光仁天皇ら当 時の皇族や高級官僚の墓が築かれたことが分かった。奈良 安萬侶墓の発見は、茶の木の植え替えを行っていた竹西英 り、「昔の人のお墓やったんやな」と供養のため丁寧にいった ん菓子箱に納め、現場の状況も写真撮影していた。 「太安萬侶墓から光仁天皇陵へ。一つの発見から、今まで分 からなかったことが解明される。これが考古学の面白さ」と 前園さん。そしてこう言葉を継いだ。 「何より、発見当時に竹 西さんが現場をきちんと残してくれたおかげなんです」 |
飛鳥時代の女帝 斉明天皇 (594~661年)が営んだと、 『日本書紀』 斉明天皇が造営 斉明天皇は、夫の舒明天皇の死後、皇極天皇として即位(642年)。 殺害した現場となり、これを機に弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位。 び飛鳥板蓋宮で即位(重祚)して、斉明天皇に。その翌年、飛鳥板蓋宮 が火災にあったため、同じ場所に新たな宮殿が造営され、 『日本書紀』ではこの年の条で、 呼んだ。また、『天宮』ともいった」としている。さらに続けて、「水工に 石の山丘を造っても、造った端から壊れるだろう、と謗られた」という。 天理砂岩の石垣 「両槻宮」については、『田身嶺』を、奈良県桜井市の御破裂山(標高 一方、飛鳥板蓋宮や後飛鳥岡本宮が営まれた場所(飛鳥宮跡)のす また、『日本書紀』は、「狂心渠」の起点が「香具山の西」とあるが、 紀中頃の南北の大溝を検出。 幅約10mで物資運搬用の運河跡とみ 小笠原名誉教授は「狂心渠は石材を産出した石上山 (豊田山)と 小笠原名誉教授は「両槻宮が王宮を伴うものとすれば、丘陵の裾 政変で身の危険 当時の日本と特に関係の深かった百済では、5、6世紀代の首都・ では、その意図は何だったのか。 小笠原名誉教授は「斉明天皇は皇極天皇時代に起きた乙巳の変の |
わずか16年で藤原京を捨てた
飛鳥・奈良時代に活躍した政治家、藤原不比等(659~720年)。 遣して唐との外交関係を結び、銭貨を鋳造して貨幣経済の導入 分かれた賛否 奈良盆地北端に造営された平城京への遷都が行われたのは 持統8(694)年に飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村)から都を移した 一方、平城京は東西約4・3㌔ロ、南北約4・8㌔の長方形の北 路が通り、その西側を右京、東側を左京とされてい 遷都をめぐっては、「続日本紀」の慶雲4(707)年2月の条に、 去。後を受けて即位した元明天皇(文武天皇の母)は翌年の和 こから始まったとみられる。こうした一連の動きは、右大臣の 遣唐使の情報 わずか16年で本格的な都城だった藤原京を捨て、新都(平城 「続日本紀」では、元明天皇が遷都の詔で、「王公大臣はみな、 この時期、日本と唐が争った「白村江の戦い」 (663年)以来途 訪問から帰国した使節団は、唐王朝や都の長安城など多くの情 事実、平城京は碁盤目状の道路が走り、北側中央に宮殿、 藤原京から、平城京への遷都を主導した不比等。その邸宅は |
藤原不比等の施策として注目されるのが和銅元 (708)年に行われ た貨幣「和同開珎」の鋳造・発行だった。ときは藤原京から平城京 に遷都する2年前。貨幣の発行は、平城京の造営資金の確保につな 「今後、銅銭を用いなさい。銀銭を用いることなかれ」と命じた、という 「富本」と記された大量の貨幣や鋳造に使う鋳型などが出土。 から、天武天皇が発した「銅銭」は富本銭であることが確実になった。 「続日本紀」によると、 和銅元年2月に催鋳銭司(さいじゅせんし)(銭貨鋳造を担当する役 を置き、和同開珎の鋳造を開始。5月に銀銭を発7月には近江国(滋 翌2 (709)年3月には銀銭で4文以上の価値のあるものは銀銭で、 和同開珎鋳造のために催鋳銭司が置かれた和銅元年2月に行わ り、造平城宮司を任命して平城宮の地鎮祭が営まれたのは同年末。 巨大な新都を造るためには、莫大な資材と労働力が必要になる。 与えて使役すること(雇役)が規定されている。この功直を銭貨で支給 発行の大きな理由とみられ ている。 工事に携わった労 働者に、 「和同開珎の発行は、平城京遷都とセットで実施さ れた。 労働力に対する支払い手 良大学教授(日本古代史)。 渡辺氏は「財源として機 能するために、流通させて 価値を持たせ るかに多い。畿内、播磨 (兵庫県南西部)、越前 (福井県東部)まで 律令政府は和同開珎の流 通策をとってきたが、和銅 4 (711)年 一定量の銭を蓄えると引き 換えに位階が与えられると いう内容で、 和銅2年1月の元明天皇の詔。「先に銀銭を頒布して、前に通用し 偽造、変造が横行するほど流通量は多かったのか。 和同開珎は天平宝字4(760)年の「萬年通宝」と交代するまで、52年
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矢釣山 木立も見えず 降りまがふ
雪のさわける 朝楽も 柿本人麻呂 巻三(二六二番歌)矢釣山の木立も見えぬほどに降りまがう 雪の乱れふる朝は楽しいことよ。 この歌は、柿本人麻呂が新田部皇子に献った長歌 (二六一番歌) 「やすみししわご大王 高輝らすの皇子 しきいます 大殿のうへに ひさかたの 天伝ひ来る 白雪じもの往きかよひつつ いや常世まで」 (皇子がいらっしゃる大殿の上に降ってくる雪のようにいつまでも行 き通いましょう) とあり、新田部皇子が居住する大殿(皇子宮)に おいて皇子を褒め称えた歌であることがわかります。両歌から、この 日は新田部皇子宮のあたりで雪が降っていたとみられます。なお、 反歌第四句「雪のさわける」 (漢字本文「雪驟」)は「雪にうぐつく」な どの異訓もあり、訓みが定まっていません。 り、叙位の順番などから、高市・草壁・大津・忍壁・磯城・穂積・長・ 『古代天皇制史論』ほか)。出生順については異なる説もあります が、新田部が最年少の男子であることは確実で、初めての叙位年で ある文武天皇四(七〇〇)年頃に成人したと想定されます。 新田部の母親は藤原五百重娘(藤原鎌足の娘)で、天武天皇との 歌のやりとり(『万葉集』巻二・一〇三、一〇四番歌)から、鎌足が邸 竹田遺跡 (明日香村) 八釣集落西側の丘陵部南側にある竹田遺跡の発掘調査では、 複数の建物が方位を揃えて並んでいたことがわかっています。 |
竹田遺跡発掘調査 |
近江の荒れた都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
玉襷(たまだすき) 畝火(うねび)の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代(みよ)ゆ あたりを通った際、その荒れた都を詠んだものです。巻一は時代順 に並んでおり、この歌は持統天皇の時代の作として、「春過ぎて・・・」 の歌の次に配列されています。 初代の神武天皇から代々天皇は大和に宮を置いていたのに、そ こを離れて、「いかさまに思ほしめせか」近江の大津に宮を置かれた 天智天皇の宮はここだというけれど、すっかり面影もなく、見ると 悲しいことだ、と歌います。「いかさまに思ほしめせか」は挽歌によ く用いられる表現で、失われたものを惜しんで投げかけられる挿 入的な句です。顧みられなくなった場所に対する鎮魂の歌でもあっ たのでしょう。 天智天皇は六六七年三月、国防上の理由などから近江に遷都し ました。六七一年天智天皇が崩御すると、六七二年壬申の乱が起こ ります。天智天皇の皇子である大友皇子が破れ大海人皇子(後の天 武天皇)が勝利したことで、宮は近江から飛鳥に戻ります。この歌 の作歌時期には諸説ありますが、少なくとも六八六年天武天皇崩 御後の作であり、人麻呂が見た近江大津宮は乱から十五年程度経 過していることになります。 人麻呂の作と明記されたうち、年次のわかる最も古い歌は六八九 年の草壁皇子挽歌 (巻二・一六七番歌)ですが、今回の歌はそれよ り古い可能性があります。人麻呂の最初期の長歌であるといえま す。掲載には省略しましたが、この歌には6箇所にわたり「或云」 という注が付されています。人麻呂の推敲ではないかと見られ、人 麻呂が歌としての完成度を追求した現われと考えられています。 訳 美しい襷をかける畝傍の山麓、橿原の地に都した天皇の御代からずっと、お 生まれになった歴代の天皇が、梅の木のように次々と天下を統治なさったのだ が、天に充ちる大和を後にして、青土よき奈良山を越え、どのようなご配慮か らか、天道遥かな田舎ではあるが、石走る近江の国の楽浪の地の大津の宮に天 下をお治めになったという天皇の、大宮はここだと聞くが、また大殿はここだ と人はいうが、春草が生い繁り、たちこめて春日の霞が煙っている、ももしきの 大宮のあたりを見ると悲しいことだ。 |
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青森県八戸市の一王寺遺跡から国内最古となる縄文時代中期前半(約53 00~5100年前)の土面が出土し、市埋蔵文化財センター是川縄文館 が展示を始めた。 土面は粘土を薄く焼き固め、人の顔を表現したもので、 土面は儀式や祭りに用いられたとされ縄文時代のものは全国で少なくと も150点見つかっている。発掘調査のリーダーを務めた同館の渡則子さん は「土面の歴史を知る重要な手がかりになる」としている。 同館によると、今回出土したのは長さ8cm、幅8・1cm、厚さ1.2¥cm。 右下の4分の1程度が欠けており、貫通した穴で目を、粘土ひもで眉をそれ ぞれ表現している。 ひもを通す穴はなく、手で掲げるように使ったとみられ る。 一王寺遺跡は世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する是 石器時代遺跡の一部。 土面は今年6月の発掘調査で、土器捨て場から見つ かった。表面の模様が縄文時代中期前半の特徴的な装飾で、周囲から同 |
八角墳の創出 古墳時代(3~6世紀)を通して続いた前方後円墳の造営は、7世 紀に入り、方墳造営へ移行しました。飛鳥地域では石舞台古墳 (明 日香村)や菖蒲池古墳(橿原市)が知られており、これらはまだ横 穴式石室や家形石棺など古墳時代の形式をとどめていました。 その後、乙巳の変(645年)にはじまる一連の政治改革「大化の改新」では、薄葬令により、墳墓や墓室規模が規制されまし た。さらに、天皇を頂点とする中央集権体制の確立に向けて、最 上位の墳墓として新たに日本独自の八角墳が生み出されました。 八角形の墳丘を凝灰岩の貼石で化粧した墳墓です。飛鳥では、 火葬の導入と古墳の終焉 古墳時代からの葬送儀礼にも大きな変化が見られます。仏教ととも に伝わった火葬の導入です。それまでの身体を納める棺から、火葬骨 天皇陵古墳の石室の中に、棺と金属製の壺が併置されていたとされま す。また、中尾山古墳は骨蔵器だけを納めることを前提とした小さい石 室となっています。 この中尾山古墳が八角墳の最後の造営となりました。平城京へ遷都 後の天皇陵は、唐に倣い、山を墳丘に見立てる山陵形式となり、古墳 |
弥生時代の環濠集落、池上曽根遺跡 (大阪府 )の大型神殿跡の柱材に ついて、紀元前 52年と同 7 8 2年の木が確認されたとのニュースを先週に 聞いた。弥生時代の建物 にもかかわらず、 7 0 0年以上 前の縄文時代の 木も使われたことになり、研究者も「理由が思 い浮かばない」と困惑する ▼年輪幅で木の伐採年代を測定する年輪年代法と、酸素同位体比も合わせ た手法によるダブルチェックで検証された。考古学の謎を科学で解き明かす はずが、迷宮に入り込んだ感すらある ▼こうした事例は邪馬台国の候補地、奈良県桜井市の纏向遺跡でもあった。 導水施設が見つかり祭祀跡とされたが、堆積土の分析で大量の寄生虫卵が 見つかった。ヒトの便だ。神聖な祭祀場が一転、古代人の水洗卜イレ説が 浮上した。ただ、両遺跡とも神がかり的な施設とされる。真相は神のみぞ知る ということか。 2024-7-16 産経新聞(夕刊)港町365 |
① 上知令には、江戸時代に行われたものと明治時代に行われたものがある。 江戸時代の上知令は天保の改革時に水野忠邦が発布した法令'で、江戸幕府 は経済的な要所を押さえることで緊迫する幕府財政の立て直しを図るとともに 中央集権的な政治体制を誇示するために、」江戸及び大坂周辺にある。大名 や旗本の領地を取り上げ、他の土地を新たに与えることを実施しようとした。 しかし、領主である大名や旗本や領民の反対により、水野忠邦の上知令は実 現しなかった。 ② 江戸時代の上知令は江戸・大坂の大名や旗本を対象としていたのに対し、 明治時代の上知令は寺社を対象としていた。 ③ 知行 (所領支配)権の取り上げが主な趣旨だったので、「上地令」ではなく 「上知令」の漢字を用いる。 ④ 明治時代に上知令は二つの法令により実施された。 一つ目は明治4年 (1871)1月の太政官布告「社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上地 被仰出土地ハ府藩県二管轄セシムルノ件」(社寺領上知令)で、各藩が版籍奉還を 実施したのに対し、寺社だけが私有地を保有しているのは不相当であるとして、 寺社境内以外の土地を上知することを命じた。なお、同5年には、寺社に対して 現石高の2割5分を禄米として支給することとしていた。 二つ目が、明治8年(1875) 6月の地租改正事務局達乙第四号『社寺境内外区画 取調規則』(第二次上知令)で、境内地を祭典や法会に必要な範囲に限定して他は すべて上知することを命じた。明治5年から支給されていた禄米も同17年に廃止。 ⑤ 上知については、地方官の裁量に任せられ、全国でバラバラな基準の下で実施。 ⑥ 明治時代に上知令により寺社の土地が没収され、官有地となったのは、政府の 財政的な要因も大きい。 明治時代の上知令により官有地となった土地のその後 ① 民間に払い下げ、それで得た資金を殖産興業と軍事力增強に充てた.京都では、 払い下げにより、南禅寺界隈別荘群、新京極、祇園花見小路界隈などが生まれた。 ② 小学校や役所などの敷地にした。明治5年の学制発布後、多くの小学校が寺院 の敷地、伽藍を使って開校。興福寺一乗院は奈良県庁や奈良地方裁判所として使用。 ③ 公園にした。奈良公園 (興福寺•春日社などの土地)•京都の円山公園 (祇園社 などの土地)•東京の上野公園(寛永寺の土地) ④国有林にした。 ⑤寺社に無償で貸し付けた。 ⑥明治32年(1899)の 「社寺保管林規則」•「国有土地森林原野下戻法」により、官有 地となっていた、寺社の土地の一部が社寺保管林や境内地となることもあった。 ⑦昭和22年(1947)4月に公布された、「社寺等に無償で貸付けてある国有財産の処分 に関する法律」に基づいて、無償譲与が行われた。ただし、無償譲与されないまま、 登記上は公有地である寺社境内地(墓地も含む)も残った。 2024ー6-22 山の辺文化会議 天理大学非常勤講師 藤井稔 資料より |
奈良県には辰年にふさわしい、雨をもたらす龍神信仰の神社や伝説などが多い。薬師寺 (奈良市 )は「龍宮造り」と呼ばれる壮麗な堂塔で知られるが、境内には地域の信仰を集め てきた龍王社もある。 金堂や東塔 (国宝 )、西塔が並ぶ伽藍の東側に東院堂 (国宝 )があり、そのすぐ南側に 龍王社は鎮座している。 室町時代の建築という小さな社殿のみが建ち、普段はひっそりとしているが、毎年7月26日 には祭礼が行われる。祭神は天武天皇の子、大津皇子と龍神とされ、伝大津皇子坐像 (重文 )と龍神像が伝わる。 龍王社は明治維新後に薬師寺境内に移されるまでは、寺の南西に位置する大池 (勝間田池 ) の周辺にあった。 記録から龍王社では鎌倉時代に祭礼が行われ、薬師寺が関係したことが分かるといい、 同寺宝物管理研究所研究の宍戸香美さんは「平城京が廃都となった後、薬師寺は (基盤を 固めるため )龍王社に関与することで地域とつながろうとしたのでしょう。雨ごいの龍神信仰 に大津皇子が結びつくことで神格がパワーアップした」と説明する。•大津は皇太子の草壁 に謀反を企てたとして捕らえられ、 20代の若さで死を賜った悲劇の皇子だ。なぜ大津皇子 なのか。 薬師寺は天武天皇が後の持統天皇の病気平癒を願い建立した大寺。?平安時代の縁起 によると、捕らえられた天武の子、大津皇子が悪龍となり、世の中が不穏となったために僧 に鎮めさせた。龍となった大津皇子が、池の水を稲作に使う人々が降雨を願う龍僧仰と結 びついたという。 宍戸さんは「少なくとも鎌富倉時代から行われている祭礼には地域の人の思いが今まで 込められ続け、特筆すべきこと」と指摘する。 26日の祭礼は「水郷」と呼ばれる五条、六条、七条、西ノ京、九条の 5カ町の当番が準備 する。雷太鼓を模したナスとカボチャの造り物やオニユリなどを供え、薬師寺僧侶が読経 する。 「各時代に龍神信仰があり、古代と現代がつながっている。今も地域で農作物が供えら れており、今後も地域と寺で継承していくべきだ」と•薬師寺主事の高次喜勝さん。 大寺の知られざる一面だろう。 2024-7-22 産経新聞 (岩口利一) |
古墳時代はいっから始まったのか一。倭国の女王・卑弥呼の墓ともいわれる奈良県桜井市の 箸墓古墳 ( 3世紀後半、墳丘長 2 8 0m)が起点というのがかっての学界の主流だった。大きな ー石を投じたのが同古墳近くにあるホケノ山古墳 ( 3世紀半ば、同 80m )。平成 12年の発掘で 類例のない埋葬施設「石囲い木槨」や中国製の画文帯神獣鏡が見つかり、弥生時代と古墳時代 をつなぐ存在として注目された。出土品は今年、国重要文化財に指定。今月 7日には記念講演 会が開かれ、ヤマト王権誕生の謎に迫った。 2024-7-25 産経新聞 (小畑三秋 ) 講演会は 橿原市の県立 橿原考古学研究所で行われ、当時の調査担当者 3人が登壇。岡林 孝作•学術アドバイザーは調査にいたる背景も含めて解説した。 古墳の成立について学界で議論が活発化したのは、1980年代 :ヤマト王権は前方後円墳を権 力の象徴として日本列島を統治したという点は定説化されていたが、古墳の定義は明確ではな かった。 こうした中で注目すべき学説が相次いだ。墳丘があれば古墳というのではなく、巨大前方後円 墳が築かれ、埋葬施設や副葬品の構成が統一された段階が古墳時代とする説だ。 300m近い 箸墓古墳は巨大前方後円墳としては最古で、ここからが古墳時代と定義し、研究者の支持を得 た。 そこに疑問を投げかけたのが、箸墓古墳以前に築かれた「纏向型前方後円墳」説。前方部が 極端に短いのが特徴で、邪馬台国の有力候補地の纏向遺跡に集中することから名付けられ、 ホケノ山古墳も含まれる。 後円部と前方部の長さの比率が「 2対 1」と規格性があり、北部九州や千葉県まで広がってい ることから、箸墓古墳より前にヤマト王権による統治が行われ、古墳時代が幕を開けたとみる。 「箸墓以前」に着目 学界を二分するような論争となったが、最古級の前方後円墳の発掘例が少なく議論にも限界 があった。 「煮詰まり感を打開しようと始まったのが、ホケノ山古墳を含めたの古墳の輩的な発掘だった」 と岡林さん。檀考研を中心に平成 5年から奈良盆地部にある 4基を相次いで発掘。黒塚古墳 (天理市 )の調査では、卑弥呼が中国から譲り受けたともいわれる三角縁神獣鏡が国内最多の 33面も見っかり、考古学史に残る成果を上げた。 4基目がホケノ山古墳だった。最古の古墳の実態解明には纏向型前方後円墳の調査が不可 欠」として発掘。出土した土器や画文帯神獣鏡などから、築造時期は箸墓督より古い 3世紀半 ばと判明。さらに、後円部で発掘された石囲い木槨は長さ 6 .5m、被葬者を納めたコウヤマキ製 の舟形木棺は6.3mもあることが分かった。 岡林さんは「弥生時代の木槨より格段に長く、古墳の竪穴式石室との間をつなぐもの。副葬品 の構成も、青銅鏡や武具など前期古墳の基本的な要件を満たす」とし、「ホケノ山古墳を含めた 纏向型前方後円墳の段階で王権が誕生し、古墳時代が始まった」と説いた。 その上で、「ホケノ山古墳の段階では威信財として画文帯神獣鏡を中国から入手して配布。 次の段階で箸墓古墳など定型化した巨大前方後円墳が築かれ、三角縁神獣鏡を配布した」とし、 古墳時代の始まりには 2段階の飛躍があったとの見解を示した。 石室の上を神聖化 北山峰生•調査第 1係長は、木槨の上に長方形に並べられた土器に着目。ホケノ山古墳より 数十年後の桜井茶臼山古墳 ( 3世紀末、同 2 0 m )では、竪穴式石室の上に築かれた壇の上 に土器が方形に並べられ、壇の周囲に丸太が壁のように立てられていた。 北山さんは「被葬者を納めた石室の真上という空間をいかに神聖な形にするか。土器を並べ ただけのホケノ山古墳から桜井茶日山古墳への発展は、古墳がどのように完成していったかを 示す」と述べた。 刀剣や鉄鏃など副葬品からアプローチしたのが、資料課長の水野敏典さん。同時期の千葉や 愛媛などの古墳と比較し、鉄鏃の形状や副葬品の組み合わせが共通している点を挙げ、 「ヤマ卜王権から地方へ金属製品などを広範囲に配布した政治的ネットワークが読み取れる」と 解説した。 画文帯神獣鏡については「黒塚古墳などと比べてはるかに精巧。わずか 8ミリ四方の区画の 中に漢字 4文字が刻まれるなど見事な技術」と評した。 ホケノ山古墳が築かれた 3世紀半ばの倭国について魏志倭人伝によると、卑弥呼は 2 3 9年 に魏に朝貢して親魏倭王の称号を与えられ、 2 4 8年ごろに死去したとされる。被葬者は、卑弥呼 を補佐した側近だったかもしれない。 |
力士、牛、太鼓、ニワトリ…。不思議な集団が土の中から姿を現した。これらはすべて埴輪。大阪府 高槻市の今城塚古墳で国内 最多の約 2 3 0体分が発掘された。「真の継体天皇陵」といわれるだ けあって、人の背丈ほどある国内最大の家形埴輪も出土。天皇が神に祈りをささげた祭殿とされる。 大量の埴輪群は、天皇崩御に伴う厳粛な皇位継承儀礼を再現したという。 1 5 0 0年前の天皇陵の 埴輪から、現代の天皇の御代替わりの源流も見えてくる。 2024-8-8 産経新聞(小畑三秋 ) 真の天皇陵とされながら、これほど傷めつけられた巨大古墳はない。戦国時代に織田信長が砦と して使い、豊臣秀吉の時代にはマグニチュード ( M ) 7〜 8クラスの伏見地震で墳丘が崩壊。被葬者 を納めた石室は跡形もなく、後円部も上半分ほどが失われた。安威断層による直下型地震が原因だ。 墳丘だけではない。周囲は田畑で開墾され、40〜 50年前までは廃材置き場としてダンプカーが行 き交っていたという。それでも奇跡的に残ったのが埴輪群だった。墳丘を囲む内堤に立てられ、長年 の間に地下に埋もれていた。 40年以上も前のこと。台風で内堤の木が倒れて根がむき出しになった。地元の人が被害の様子を 確かめに行くと、埴輪の破片が目に入った。「大事なものかもしれない」と高槻市に届け出たのが、 重要な発見の始まりだった。 家形埴輪の一部で、全国的にも類例がない大型だと推測された。「ここにはすごい埴輪が埋もれ ている」。市立今城塚古代歴史館の元特別館長、森田克行さん ( 73 )は古墳の重要性を改めて感じた。 現館長の内田真雄さんも「土を少し払うだけで埴輪の破片が散らばっていた。発掘現場では足の踏 み場もないぐらいだったようだ」と話す。市民から届けられた埴輪には、全体が残るほどの武人埴輪も あったという。 満を持しての発掘 埴輪が見つかった内堤部の発掘は、平成 13年に史跡整備に伴って始まった。墳丘北側の内堤が 少し張り出しており「特別な区画だとピンときた」と森田さん。「掘るならしっかりした調査態勢が必要」 と準備を整えた。 2年間の調査によって、張り出し部 (長さ 65m、幅 10m)から冠をかぶった貴人、両手を広けて踊る 巫女など約 2 3 0体分を確認。大型の家形埴輪は、土台部分が築造時に据えられたままの状態で残 っていた。 これらは、塀や門をかたどった埴輪によって4区画に分かれていたのが大きな特徴だ。各区画で 埴輪の種類や数が異なり、重要な祭祀の場面がそれぞれ再現されたことが分かった。 中でも国内最大の家形埴輪は高さ 1.7mもあり、太い柱と巨大な屋根が象徴的な堂々とした姿だっ た。屋根には天を突くような 2本の「千木」や「鰹木」があり、伊勢神宮を思わせる構造だった。 「千木は天から神様が降りてくる目印。その神様と地上の大王が酒食をともにする祭殿だつた」と森田 さん。この建物はまさに、平成から令和への御代替わりの鶯「大嘗祭」で設けられた「悠紀殿」「主基殿」 に通じるという。 最古の太鼓形埴輪 埴輪群発見から 20年後の令和 3年、今城塚古墳が再び注目された。国内最古の太鼓形埴輪の 発見だ。平成 13、 14年に出土した数万点に及ぶ埴輪の破片を調べた結果、太鼓のたたく面や鋲の 部分と分かった。「丹念に破片を分類して接合し、全体像の復元などを長年続けてきたことが、太鼓形 埴輪の発見に結びついた」と内田館長は語る。 埴輪群の意味について森田さんは「種類や配置を総合的に考えると、葬送儀礼のなかでも 『殯宮儀礼』を表現した」と指摘する。先帝の遺体の埋葬とともに、後継の大王が即位する最も重要な 儀式を再現したとみる。 天皇の葬送儀礼を示すという埴輪群。築造から 1500年の間に田畑の開墾がもっと深かったら、ある いは廃材を運搬したダンプカーが埴輪群を粉々に踏みつぶしていたら・・・。幾つもの偶然が重なって 埴輪は残った。地下からよみがえった埴輪のメツセージをいかに聴き取るか。現代人に託された宿題 は壮大なロマンでもある。 |
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家形埴輪
千木
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奈良県北部には .「かき氷」を扱う店が 50店以上あり、夏になると氷を食べて涼む人の姿が見られる。 これだけ多くのかき氷の店があるのは、古代に同県天理市福住町周辺の氷を天皇に献上したとの故 事があり、日本最古の氷室神社が存在するから一というのが一説だ。豊かな自然が育んだ水と氷の 文化と歴史は、今も大和の地に息づいている。 2024-8-11 産経新聞 (平岡康彦 ) 日本書紀に 奈良市中心部から車で40分。緑の濃い山間地にたたずむのが福住氷室神社 (天理市福住町 )だ。 この神社の起源ともなった氷室とは、穴などに氷や雪を貯蔵して春夏まで保存する施設のことだ。古代か ら世界各地で利用されてきたが、日本の氷室の歴史は仁徳天皇の時代にさかのぼる。 日本の文献に初めて氷室が登場するのは最古の史書の一つ「日本書紀」で、仁徳天星62 (西暦 374)年、 額田大中津彦皇子が闘鶏 (つげ・現在の福住町)で狩猟をした際、氷室を発見したと記されている。皇子が 地元の豪族、闘鶏大山主に説明を求めたところ、「冬に穴を掘り、萱やすすきを敷いた上に氷を保管する と夏まで解けない」「暑い月には水や酒をひたして使う」と答えたという。 皇子がその氷を献上すると天皇は大いに喜び、以後は冬に氷を貯蔵し、春に朝廷へ献上するしきたりが 根付いたとされる。社伝によると、 允恭天皇の時代 (430年ごろ )に氷室の守り神を祭ったのが 福住氷室神社で、全国の氷室神社の発祥とされる由縁でもある。 平城京の長屋王邸跡から出土した木簡には福住町の氷室から氷が運ばれたことを示す記述が見つかる など、貴族の夏の生活と氷室との関係がわかってきた。 神社の周辺には氷室跡があり、福住町の有志が平成11年から氷室の歴史を後世に残そうと、復元した 氷室に冬の氷を蓄え夏に同神社まで運搬する行事を続けている。今年は 7月 15日に実施され、小学生が 大八車を引いて同神社に氷を届けた。 2月に氷室に収めた氷は 3トンあったが、残っていだのは 2 4 0キロ。 福住鉱区の区長会長、辻沢正博さん ( 74 )は「気候変動のせいか、去年より少ない。この先大丈夫か心配 になる」と気をもみながら「子供の数が少なくなるなか、地元の氷の歴史を守っていきたい」と話す。 業界も信仰 奈良県には名高い「氷室神社」が奈良市春日野町にもある。和銅 3 ( 7 1 0 )年の平城遷都に伴い、春日野 一帯に氷を採取する池や氷室が造られ、守護のための氷の神を祭るとともに、夏の天候で稲作の具合を占う 祭祀を行ったのが起源とされている。 和銅 4年に天皇に氷を献上する勅祭が行われ 70年以上にわたって平城京に氷を納めるようになったが、 平安遷都(794年)後は廃止されたという。故事にちなんで今も製氷や冷蔵冷凍にかかわる業界の信仰を集め ており、巨大な氷柱を立てて商売繁盛を祈願する「献氷祭」が 5月 1日に営まれている。 大きな祭事ばかりが見どころではない。「奈良・大和は日本のはじまりの地だ。氷にまつわる行事を、みなさ んにもっと理解し、楽しんでもらいたい」と大宮守人宮司 ( 74 )。 氷の行燈にろうそくを入れて明かりをともす「氷献灯」は 20年来続く毎月1日の行事で、柔らかな明かりが 境内を神秘的に照らす。珍しい「氷みくじ」も引 くことができ、境内にある氷に張り付けると文字が浮かび上 がる。 大宮宮司は「経済も政治も国際関係も、現代の日本は国難が多すぎる。こうした行事には文化•伝統の継 承だけではな <『国難氷解』の意味も込めている」と話している。 |
日本の時刻制度の始まりは「漏刻」 (水時計 )とされる 。『日本書紀』によると、近江神宮 (大津市)の祭神・ 天智天皇が、時 ・文化の発展に不可欠と考え671年、都の近江大津に漏刻を創設し時報を開始したことに 由来する。後に太陽暦に換算した 6月10日が「時の記念日」と制定された。近江神宮の境内には奉納品の 巨大な漏刻が設置されており、いまも清涼な水の流れとともに時を刻み続けている。 24-8-12 産経新聞(土塚英樹 ) 一定の水流 漏刻は水の流れが一定であることを利用した時計。複数段ある水槽の最上段から順に水が流れ落ち、最 下段の水槽に入ると水量が増す。すると最下段に設置した矢が浮き上がり、矢の目盛りを読むと時刻を知る ことができる。水槽を複数段にすることで水量や水圧、流量を安定化させ、より正確性を高めている。 ただ当時は現代のような濾過された水道水はなかったため、不純物が混じり、導水管が詰まるなどして不安 定化するトラブルがあった。冬季の凍結防止や夜間運用のため、灯明を用意したり監視役を配置したりする 苦労も。複数の漏刻を使用して時刻を比較したり、別途日時計で計測した時刻で誤差を補正したりしたことも あるという。 「なかなか運用は難儀だったことが文献からもうかかえます」と近江神宮の禰宜、岩崎謙治さん。「恐らく時 を知る最も古い手段は太陽で時を知る日時計でしようが、より安定して正確に時を知るための機器として、 水の流れを利用した漏刻が発明されたのでは。それだけ人類と水の関わりが深いことが分かります」と推測 する。 記念日制定 近江神宮によると、天智天皇は671年に漏刻を作り、近江大津宮の新台に設置。鐘や太鼓を鳴らして時報 を始めたという。しかし実はその少し前、斉明天皇時代の 660年にも、中大兄皇子 (天智天皇の皇子時代 )が 漏刻を作ったとの記述もあり、「どちらが初めてか、よく分かつていません」と岩崎さん。 660年の記録には日付 がなく、結局、日付のある 671年の記録を太陽暦に換算した 6月10日が大正9年、「時の記念日」に制定された。 「時の記念日」制定を機に、全国各地で社寺や企業などが当日正午に鐘や太鼓ーを打ち鳴らしたり、記念 講演や展示などを開催したりするようになり、恒例行事として普及。知名度は上がった。 現在も続く 昭和 15年11月には、大津ゆかりの天智天皇を祭る神社がほしいとする地元の強い要望を背景に、近江神宮 が創建された。 翌16年 6月10日の時の記念日には第 1回「漏刻祭」を開催。その後絶えることなく現在まで続いている。今年 も王朝装束などを身につけた時計業界の関係者らが、新製品の時計を厳かに神前に奉納。時計の歴史の 進展を報告し、一層の発展を祈願した。境内には、スイスの高級時計ブランドの代理店から奉納された巨大な 漏刻も置かれ、とうとうと水が流れ出ている。 近江神宮は水と縁も深く、京都府と滋賀県の境に近い大津市西部の山中に発した柳川の清流がそばを通り 抜け、琵琶湖へと注いでいる。 岩崎さんは「神社の漏刻の水や川の清流に、時の流れを感じてもらえれば」と話している。 |
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