鞍馬寺地図
由岐神社地図
梶取社地図
二ノ瀬 龍田大神地図
専称寺地図
厳島神社地図
小町寺地図
(如意山補陀洛寺)

木の根道
 このあたりの地質は、主に砂岩であるが、岩脉が貫入し、
その熱によって砂岩が硬化し風化しにくくなっている。
 そのため、此所に芽生えた杉の根が地下へのびることができず、
地表に近いところに根を張ってこの珍しい景観をつくっている。
 「木の根道」といわれて、くらま山の名所の一つとなっている。 
 伝説によると、この辺りで牛若丸は天狗から兵法を教わった。
 鞍馬寺は洛北鞍馬山(570m)に伽藍を備える平安京鎮護の寺である。
中尊の毘沙門天が手をかざすのは山上から帝都を偵察する所作とされる。
祭神 大己貴命 少彦名命
 木の根が張り巡らされているその先に奥の院魔王堂がある。累々と石灰岩の重なる柵内は日本庭園の源流といわれる磐座である。
僧正ガ谷は、源義経が天狗に兵法を習ったというところで、修験者、呪術師の修行の地でもある。
 洛北の奥深くにある鞍馬山は、神秘の山と崇められている。鬱蒼とした大杉が繁る。
 延暦15年(796)に桓武天皇の勅願により平安京の北方守護の寺として鞍馬寺が創建された。
 本尊は毘沙門天(びしゃもんてん)で、平安京を見つめ守護している様子である。
 由岐神社(ゆき)は、地震などの天災や平将門の乱で騒然としていた天慶3年(940)、
朱雀天皇は都の鎮魂のために御所に祀られていた由岐大祭神を鞍馬に移した。
その遷座の行列は、道中にかがり火を焚き、鴨川の葦でつくった松明で、1キロにおよぶものだったという。
この雄壮さに感激した村人が、この模様を後世に伝えようとはじまったのが、鞍馬の火祭りである。
 おこり病を患った光源氏が、治癒のために参籠した北山の寺は、鞍馬寺がモデルという説がある。
光源氏はその北山で、雀の子のことで泣きじゃくるような、あどけなく美しい少女を目の当たりにする。
これが、光源氏の最愛の妻となる紫上との出会いであった。
 ここにある木の根道は、地盤が固くて木の根が地表から浮いている。
光源氏は北山でみかけた少女と暮らしていた尼が没したことを知り、少女と乳母を強引に二条院に連れて行く。 
毘沙門天吉祥天善弐師童子(国宝 木造 橡くぬぎ 檜)
大雲寺 護国の寺   
 
 鞍馬寺西門へ
 
地図 
   
     
  私は鞍馬街道というと、スタスタ坊主をおもいだしてしまう。鞍馬寺の
大きな石段の下に鞍馬街道が走っている。その街道に沿って、京格子
のふるめかしい民家がびっしりならび、山峡(やまあい)の風が吹きぬ
けているあたり、いかにも古街道のおもかげがのこっているが、この民
家の軒下にひと群れのスタスタ坊主を配すればそのまま江戸中期の風景
になる。
  街道をゆく (4)  司馬遼太郎 より
 鞍馬駅
   
 由岐神社に伝わる「鞍馬の火祭」は京都三大奇祭の一つ。
氏子の男性らが巨大なたいまつかつぎ「サイレイヤ、サイリョウ」
のかけ声が響く。
平安時代に御所から祭神を迎えた時の様子を伝えるものとされ
ている。
10月22日午後9時ごろから、大きなもので長さ4m、重さ100kg
もある松明が鞍馬寺の山門前に勢ぞろいする。 
   
 「舎那王於鞍馬山学武術之圖」左

 源氏の子という己の出自を知り平家打倒に夢を馳せた義経は、夜な夜な住まいの東光坊から険しい
鞍馬山の木の根
道を駆け抜け、僧正ガ谷で天狗との剣術修行に燃えた。

 源義経ほど庶民に愛されたヒーローはいないだろう。 源氏の棟梁の子でありながら、幼くして父母
離別した薄幸の生い立ち。平氏
追討に武勲をあげるも、兄.頼朝との確執から京を追われ、奥州平
で果てた。栄光と落醜の日々が
織りなす31年の生涯は、 幾多の伝説に彩られ、いまも人々の胸を打
ずにはおかない。

 本展は、江戸末期に活躍した最後の天才浮世絵師月岡芳年が躍動感あふれる遠近法で描いた名版
画の世界を、西井正氣氏(日本画家)所蔵の作品で紹介。芳年の感情移入と表現力の深さによって、時代
のヒーロー·義経と源平合戦
の名場面が鮮やかに難る。

     京都新聞出版センター



由岐神社 地図 

     
天慶3年(940)鞍馬寺が御所から鎮守社として勧請した。
 


梶取社

 

祭神 宇賀魂命(うがのみたまのみこと)

貴船川と鞍馬川が合流する贵船口に鎖座。

玉依姫命が水源の地を求め、黄船に乗って淀川・鴨川を

遡ってこられた(御鎮座縁起)時、 上手に梶を操った梶取

大神か祀られているとも伝えられ、航海安全交通安全

人生進路守護の神と崇められている。 

 




龍田大神

   



専称寺

   
     


厳島神社

   
 


小町寺

   
   本堂

 小町寺とは俗称て如意山補陀洛寺という。

 遠く陸奥路まで漂泊の身を運んだ一世の美人小野小町も、年老いて

容色も衰えた身をここ市原野に昔、父が住んていたなつかしさから荒れ
果てた生家を訪れ、そとて朽木の倒れるように、あえなくなるが、葬う人
とてもなく、風雨に晒らされ小町の髑髏(どくろ)から生い育った(本の

芒(すすき) が風にふるえていた。

この伝話に因んで穴目のススキ、老衰した小町像や、少将の通魂塚が
作られている。

  京都詰曲史跡保存会 

     
   
 小野皇太后供養塔(鎌倉時代)    小野小町の姿見の井