祟道盡敬皇帝(すどうじんけいこうてい)黄金塚古墳地図

舎人皇子(とねりのみこ)
薨後に淳仁の父として
崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)の諡号を贈られた。
日本書紀』編修事業の総裁を務めた
正面が古墳の入り口 人がみだりに入らぬように
柵がしてある。
黄金塚陵墓参考地
宮内庁
   
   
 165号線窪之庄バス亭から南東方向に400m〜500mのところに池があり、道が3つに(写真では2つ)分かれている。
一番北の道に入る。竹藪が繁った道を200m程進むとひっそりとした古墳があらわれる。
宮内庁陵墓参考地としての扱いの為か、他の追尊天皇陵に較べると、お参りするには少し寂しい。
舎人親王  太安万侶  新田部皇子への献歌 

 奈良市の平城京跡の発掘調査で、奈良時代前期の大型
掘立柱建物跡3棟が見つ かった。市教育委員会が3日発表
した。調査地周辺は、「日本書紀」の編纂者 として知られる
天武天皇の皇子・舎人親王 (676〜735)邸の有力候補地で、
その主屋だった可能性がある。  地図
 今年1〜3月、共同住宅建設予定地約370平方を調査した。 

 3棟の建物跡は南北に並び、最も大きいと推定される北側
の建物は、推定で東西約20m、南北は10mM以上。柱を立て
るために掘っ方形の穴も、一辺1.・5mと巨大だった。

 平城京は、碁盤目状に区画された「町」(約130m四方)が土
地の基本単位で、皇族や貴族、官僚らには地位に応じた広さ
が宅地として与えられた。

 五位以上の貴族は1町だったが、1988年に邸宅跡が発見さ
れた左大臣・長屋王 (676?〜729)ら大臣クラスは4町だったと
される。
 今回の建物群も複数の町にまたがって見つかり、やはり4町
の土地が一体的に利用されていたらしい。

 付近は当時の貴族の邸宅が集まる「一等地」だった。この場
所では、同じ窯で焼かれた瓦が4町分の範囲から出土都の中
心部に広大な建物を構えられた人物として、舎人親王をあげ
ていた文化庁の近江俊秀・主任文化財調査官は「敷地内に塀
で囲まれた建物群が複数あるのも、役所ではなく貴族の邸宅的
可能性はさらに高まった」と話す。

  2023−4−4  朝日新聞(今井邦彦)






















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