石上神宮 出雲建雄神社拝殿 正面5間(柱が6本)奥行1間、桧皮葺。 中央の1間が馬道(めどう)と呼ばれる土間の通路で、これは建物の中間に通り抜けるために馬道をもうけると、使い勝手が格段によくなる。寺院建築では古い遺構として、法隆寺東院舎利殿及び絵殿(えでん)、唐招提寺礼堂(とうしょうだいじらいどう)、東大寺二月堂参籠所(さんろうじょ)などに馬道がある。 屋根は唐破風(からはふ)となっており、馬道四隅の柱の上に三斗(みつど)を組んで虹梁(こうりょう)を渡し、輪垂木(わだるき・湾曲した垂木)をかけたものとなっている。左右2間は縁の付いた板床張り部屋で、格子戸で仕切られている。 柱や格子、軒下の垂木や舟形の肘木など、いずれも木取りが細く、繊細なつくりとなっている。 建物の中央部に通路を持つ割拝殿形式で素朴で優美な姿を見せている。 また、蟇股(かえるまた)も時代的特色がよく現れている。その構造は優美、典雅で我が国拝殿中でも重要な遺構である。 中世の和様の建物としては技術的にすぐれ、優雅で洗練された外観をもっている。 永久寺の鎮守社の拝殿として13世紀に建立されたとみられており、唐破風として古い例の一つといわれる。 廃寺の後、大正3年(1914年)に移建された。 |
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元来は興福寺大乗院末寺内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、大正3年に現在地に移築されました。 内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113〜18)に創建された大寺院でしたが、神仏分離により明治9年に廃絶されました。鎮守の住吉社が残されましたが、本殿が明治23年に放火で焼失し、拝殿だけが荒廃したまま放置されていたのを、当宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築しました。従ってこの建物は内山永久寺の遺構として貴重なものです。 構造は、桁行5間・梁間1間の一重の切妻造りで、屋根は檜皮葺です。中央の1間は「馬道(めどう)」と呼ぶ通路で、このような中央に通路を開く形式の拝殿を「割拝殿(わりはいでん)」といいます。馬道部分は柱上に三斗(みつと)を組み、梁上に透彫りの蟇股(かえるまた)を置き、正面背面とも唐破風(からはふ)をのせます。左右各2間は床板張り廻縁付きの室を設け、大面取角柱に舟肘木を組み、柱上に虹梁を渡し蟇股をおいて化粧棟木を支え、天井は疎垂木(まだらたるき)の化粧屋根裏としています。建具は両側面は板扉とし、そのほかは全て引違いの格子戸です。全体に非常に優雅で上品な住宅風の建物です。 建立時代については、はじめは保延3年(1137)に桁行3間の建物として建立され、13世紀中ごろに桁行5間に改築、正安2年(1300)に馬道を開いて前後に唐破風を設けたとk考えられます。 山の辺の文化 第43号 平成25年2月発行 より |
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内山永久寺についてくわしく⇒⇒⇒ | ||||||
平成21年3月12日早朝、心が痛む放火があった。幸い火は消し止められたが写真のような被害に遭った。現在は綺麗に修復されている。 | ||||||
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出雲建雄神の草薙の剣について 大化の改新後、次々と政治の刷新を図ってきた天智天皇は、皇位継承の神器に「鏡」と並んでもう一種「剣」を加えようと考えた(「勾玉」が加わるのは持統天皇以後)。ところが尾張氏のもとに奉斎されている。 神剣のが盗まれる事件(実際には仕組まれた)を契機に朝廷に召喚された草薙剣が、天武天皇のときに、石上神宮にわざわざ摂社出雲建雄神社を建てて奉斎されたということである。 出雲建雄神とは素戔嗚尊のことである。彼は「建(武)雄」呼ばれたようで、愛知県武豊町の武雄神社など全国にもかなりある。 石上神宮には 当時石上神宮は、日本の開祖・スサノオと大和朝廷の始祖・ニギハヤトと国 朱鳥元年(686)6月10日、天武天皇の死の3か月前、勅命によって急遽尾張に返還されている。 召喚されたのが天武天皇6年(677)、祀られたのが9年後の朱鳥元年(686)まで鎮座していたことになる。 草薙剣は、天武天皇の頃には石上神宮にあって、布留剣と呼ばれていた。草薙剣と命名されたのは、天武天皇死後のことである。 石上神宮 祭神⇒⇒⇒ 熱田神宮⇒⇒⇒ |
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