龍宝山 大徳寺地図
芳春院
地図
大仙院
地図
大慈院地図

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京都 散策ガイド
 
大徳寺山内 勅使門 
 洛北・紫野の松並木の美しい広大な寺域に、22の塔頭寺院をもつ臨済宗大徳派大本山。
正和4年(1315)に大燈国師(だいとう・宗峰妙超・しゅうほうみょうちょう)が開いた庵が始
まりで、花園天皇、後醍醐天皇の帰依を受けて勅願所となった。応仁の乱後は一休禅師
によって復興され、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み菩提寺として総見院を建立したのを
幾に、戦国武将の塔頭建立が相次いだ。また村田珠光、千利休はじめ茶人が参禅し茶の湯
文化とも縁が深く、数多くの茶室が残されている。
高桐院⇒⇒⇒
龍源院⇒⇒⇒
瑞峯院⇒⇒⇒
 一般に公開されているのが、上記4ッの院。大徳寺本坊などは、秋に公開される。
 典型的な禅宗伽藍配置で法堂などが南北に一直線上に建っているが、
並んだ場所は、境内の東端の一部分で領域から言えば、その十分の一にも当たらない。 
大仙院 高桐院 龍源院 瑞峯院
三門「金毛閣」(重文)
五間三戸。二階二重門。入母屋造。本瓦。
 すでにあった三門、単層のまま建ち腐れていたのを、独力で上層部を天正17年(1589)利休が再建し寄進した。
 利休が建て直したときの門は、朱に彩られていたはずであり、楼門というもののそれが常であった。
 重文指定で、国の修理でまっ赤な焔の塊と化したが、年月を経るにしたがって当初の生々しさが薄れ、落ちついてきた。
  上層部に釈迦三尊・十六羅漢像とともに千利休が雪駄ばきの像があるが、この像が「天下人たるわしがくぐり、
天皇や上皇の勅使院使も通る頭上へ、履物姿の寿像(じゅぞう)を乗せるなど、不遜なやつ」と豊臣秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命ぜられた。
 利休⇒⇒⇒ 
 拝観の手引き⇒⇒⇒
仏殿(重文)
 
 法堂(重文)
  戦国時代になって、入洛の際の仮宿舎として、塔頭寺院を利用するものが現れて、
寺内に、それぞれ個有的な寺院を営みはじめた。六角政頼の大仙院、畠山義隆の龍源院
、織田氏の総見院、三好氏の聚光院、細川氏の高桐院、、小早川氏の黄梅院、
前田氏の芳春院等である。
 そのため法堂以下の主要堂舎よりも、塔頭寺院の方に勢力が集まった。
寺内土地の多くは塔頭寺院に占有され、折角、一休禅師の努力が実ろうととした時には、
法堂以下の主要建物は、その一隅にやっと寺地を求めねばならなかった。
 法堂の天井画は江戸初期の絵師・狩野探幽(たんゆう)の筆になる雲龍図が描かれている。
この絵に向かって手をたたくと、龍の鳴き声に聞こえると言われている。
臨済宗大徳寺派の大本山
 鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。
 室町時代には応仁の乱で興廃したが一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀(秀吉の焼香争いがあった)を営んだ。
 山門は千利休居士によって二階部分が増築され金毛閣と称したが、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の
原因になったとも言われている。
 本坊方丈庭園は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。 
 室町幕府三代将軍義満が禅宗寺院の五山・十刹(じゆっさつ)のをさだめたとき、
大徳寺は南禅寺と並んで五山の上位に列せられていたが、相国寺が幕府庇護のもとに隆昌したのと反対に、
五山の下の十刹の九位になった。十四番目の位ということになった。
 大徳寺は格上げを狙うどころか、反対に、十刹の寺格をみずから放棄し、林下(りんか)と呼ばれる在野の寺になった。 
 徳川幕府の宗教統轄政策は大徳寺をはじめとする禅宗寺院を痛めつける。幕府の許可なく、
勅許だけにもとずく住持任命や紫衣許可は無効だとして、返還を命じた。
 大徳寺は反対運動の前面にたった。沢庵や玉室が流罪を命じられるが、まもなく釈放され、
大徳寺は反権力の誇りとともに江戸時代を過ごすことになる。  
 大燈国師は、この紫野に庵を結ぶまでは、五条橋に寝起きし、乞食や病人と暮しをともにして修養していた。
花園天皇が使者を立て、五条橋下に彼をさがすが、大燈はなかなか見つからない。ある人から師の好物がまくわうりだと聞いた使者は、
うりを携えてさし示し「このうりを口でない口で食う者はいるか」と聞いた。するとなかから「手でない手でさし出したら食ってやる」
と答えた者があった。
大燈はそこで見つかってしまい、大徳寺へ招かれたという。天皇に相見したときも、彼は破れ衣を引きずっていた。
  大燈国師⇒⇒⇒
   
  唐門(国宝) 2015-4-22 朝日新聞より
 
 
 
 
上4枚の写真 A.S氏ご提供

 
唐門(国宝)
世界の誇り匠の技文化財保護強調月間ポスターより
 唐門は四脚門。前後に唐破風をつけた切妻造。檜皮葺。
天正14年(1586)秀吉の造営した聚楽第の遺構を、慶長8年(1603)に
村上周防守が当寺塔頭(たっちゅう)に寄進したもので1886年に方丈前に移されたと伝わる。
 総円柱。身円柱の上に冠木を置き、その両端を妻側に突き出し、豪華な金具で、木鼻を包む。
 西本願寺豊国神社の唐門と並べて、京都三唐門の一つに数えられる。
 詳細に亘って観賞すれば、一日では足りないというところから、江戸時代から
「日暮門」の別名があるほど、構造美も工芸美も完備したものとされる。
唐門は日光東照宮の日暮門の元になった。 
 渦巻く波濤(はとう)を飛び出した2匹の鯉が双龍と化し、天空の宝珠を争い求める様が
極彩色の彫刻で表わされている。
ほかにも鶴や麒麟(きりん)などの彫刻や、菊桐紋の金具で飾られた絢爛豪華な門。
桃山時代を代表する建造物。
  大徳寺のイブキ
 大徳寺の現在の仏殿は寛文5年(11665)に再建されたものであるが、
このイブキも、そのころに植栽されたものと思われる。
 イブキは、ヒノキ科ビャクシン属の高木で、日本では本州(宮城県以南)・
四国・九州に分布する。
イブキビャクシン又は単にビャクシンと呼ばれることもある。
一般に長命の木であるが、これほどの大木になることは稀であり、
貴重である。
 昭和58年6月1日京都市指定天然記念物に指定された。  

 塔頭・真珠庵(しんじゅあん)には一休さんの肖像画がある。
日本画家 高橋玄輝が重文の一休宗純像をモデルに描いた作品。



芳春院地図

方春院非公蘭塔頭

 前田利家の妻松子(まフ)が慶長十三年(1608)

に前田家の菩提寺とレて、玉室宗珀(ぎょくしつ
そうはく)を開祖に建立。

境内の北端にあ、塔中の中で唯一女性によ

る建立寺院。親交の深かた豊臣秀吉の正室

ねね(北政所)が、さきに法・高台寺をフけ

た菩提寺を建てたことに倣ったといわれている。

芳者院の建造物は、楼閣山水の中心である。

「京都四閣」に数えられる呑湖閣(19世紀初

頭)、庭園の打月橋(同)、芳春院(はつ)の霊

屋(19世紀初頭)など6棟は厂史的な価

値に加え、桃山から江戸に至るまでの禅宗

建築の流れも考える上で字術的に重要と

て200年3月京都府登録文化財に指定。

呑湖閣

呑湖閣は二重楼閣で本堂背後に建つ均整

のとれた姿で、18世紀末に一度焼失し、再建さ

れた。池も越える屋付きの打月橋など立

体的在構成て小堀遠州の作。

庭園は枯山水の花岸庭と呑湖閣を望む池

泉回遊式庭園の2園からなる。 本堂の南側の

花岸庭は89年昭和の小堀遠州と称された

中根金作氏(元大阪芸大学長) が手掛けた庭.

(京都四閣)、金閣,銀閣,飛雲閣,呑湖閣

利家とまつ

まつは天文十六年(1547)尾張沖ノ島篠原家に生れ、

3歳て前田家の養女となる。10才違いの従兄弟の
利家に12歳で嫁ぎ2男9女に惠まれる。
.利家没後長二代目藩主利長に家康謀反の疑いが
かけられたため、63歳から15年間、江戸て人質生活
を過ごす。

利長の死で江戸から解放され金沢の地で没した。 






大仙院地図

方丈北庭 方丈北庭。左の庭と塀をはさんで続く。 方丈南庭

〈大仙院〉室町時代(国宝)

大仙院本堂(方丈)は永正十年(1513)に上棟れ、

方丈としての東福寺建築とては東福寺竜吟庵方丈

に次く古い遺構。単層入母屋造,銅板葺き、南北2

列東西3列の6室がらなる。 開山の古嶽宗亘の隠所

として建た。方丈玄関は最古の玄関遺で国宝。

庭園は、室町時代の傑作とさる枯山水。巨石教

多く使い、水の流れをダイナミックに、 白砂は静寂の海

を表現するという。

 大徳寺大仙院の枯山水は、奇岩巨石を聚(あつ)めて狭い地割の中に壮大な山水の景観を幻想させる石組みである。竜安寺と双璧と云われるが、竜安寺の静に対して、これは動の庭である。私はいつも誰も見ていない方丈北庭の砂敷きの小庭の、ほとんど対角線上に配された五個の石に、日本海に面した海岸の岩礁を想像し、飽かずに眺めていたものだ。また方丈南庭の、ただ白砂を敷きつめただけの庭に、豊かな海の幻想を自由に遊ばせていた。

  京洛四季  東山魁夷  より 


大慈院

 長さ約2uの細い竹材30本ほどの東

組み立てれば、京間で2畳ほどの茶室に

早変わりする。 枠を通して見える自然や

風景がそのまま、庭になる。

 大慈院は一休和尚で知られる大徳寺に

ある。人間も自然の一部。禅の思想の原

点に「帰る」という意味で「帰庵」と名

付けた。「人の手が入っていない本来の

自然で、お茶を飲みたいなと」

 職人たちが工場に出入りしている家で 

育った。やんちゃ坊主だった。一方で心

静かに、人との関わりも大切にしながら

生きたいという思いがどこかにあった。

会計事務所に勤めていた26歳の時、思い

立って禅宗の修行の道に。5年半の修行

を経て住職になった。

 大徳寺は、戦国武将がたしなんだ
「わび茶」発祥の地。「武道で戦い、茶道で

仲良くしようとした。どちらかだけでは

だめなのは、いまの外交も同じ」

 4月には、大阪城公園内に帰庵を建

て、大阪国際がんセンターの患者とお茶

を楽しんだ。こぢんまりとした空間に

2、3人が集まり、お菓子を食べてお茶

を飲めば、自然に話が弾み出す。

 帰庵は建てるのも、しまうのも15分ほ

ど。片付けると、茶室は跡形もなく消え

てしまう。 「でも、『帰庵で心がのびの

びした』という印象は、ずっと残ると思

う。 心が落ち着く時間を、もっと持って

もらいたい」。そう願いながら、また次

の場所に出かけていく。
  2023−7−11 朝日新聞文 河原田慎一