第55代 文徳天皇(もんとく)地図
父 … 母 … 藤原順子(藤原冬嗣の娘) 誕生 …827年(天長4年) 御名・異称 … 道康・田邑帝 女御 … 藤原明子(太皇太后) 立太子 …842年(承和9年)8.4 即位 …850年(嘉祥3年)3.21 在位年数 …8年 崩御 …858年(天安2年)8.27(年齢32才) 皇居 … 平安宮 年号 … 嘉祥、仁寿、斉衡、天安 ○「文徳実録」には、文徳天皇を評して、帝王の位につかれてからは、心は政治にあり、生まれつき、真相を見抜く力があり、もっぱら天下の平和を思い、巡幸遊覧などは好まれなかった、と載っている。病弱のため、藤原良房が政治の補佐にあたった。 ○ 文徳朝で注目されるのは、皇太子選定の問題である。文徳天皇には、すでに第一皇子である惟喬親王をはじめ三人の皇子があったが、即位後まもなく第四皇子として惟仁親王が誕生した。天皇は惟喬親王の立太子を望んでいたが、結果は惟仁親王が皇太子になった。これは惟喬親王の母は紀名虎の娘静子であったのに対し、惟仁親王の母は藤原良房の娘明子であったためである。 ○ 853年(仁寿3年)の天然痘の流行により社会不安をきたしている中で、855年(斉衡2年)5月23日、東大寺の大仏の頭部が落ち、朝廷に衝撃を与えた。勅使を聖武天皇山陵と宇佐八幡宮に遣わし、藤原良助と高岳親王を奉行に命じ、修造に着手した。 |
陵墓 … 所在地 … 京都市右京区太秦三尾町 ○ 御陵は直径約35m、高さ約7mの規模の南面する円墳である。 ○「延喜諸陵式」には、陵戸三烟、遠陵に班している。陵の四至は、東を勝隆寺の東の谷、南は御在所から南へ約63m、西は源氏墓の北で、北は白河を限って四至としている。 |