三輪山地図
撮影ポイント地図 耳成山と結ぶ線上で、丁度三輪山に大鳥居が正面となる。 |
三輪山は大物主神の籠りいます神体山であるとともに、日神(太陽神)祭祀の祭場でもあった。後に日神祭祀の祭場は伊勢に移され、未婚の皇女が斎王として奉仕するようになった。垂仁朝に倭姫命が斎王として遣わされたみえるが(垂仁紀二十五年三条)、伊勢神宮の創祀伝承にすぎない。斎王として遣わされた確実な事例は、継体朝の 和田萃 飛鳥の古社を歩くより |
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古代神話に重大な役目をつとめているこの三輪山はまた特に大和の山らしい。なだらかで、長く尾をひいて、古代の墳墓に見られると同様なあの柔らかな円味を持ったやさしい山を崇拝するのは、比較的にまれなことではないだろうか。あの山の姿から超自然的な威力を感ずるという気持ちは、どうも理解し難い。むしろそれは完全なるもの調和あるものへの漠然たる憧憬を投射しているのではないだろうか。もしそうであるとすれば、この山もまた神話の書である。 和辻哲郎 古寺巡礼より |
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三輪山は面積ざっと百万坪、倭青垣山というその別名でもわかるように、日本盆地におけるもっとも美しい独立丘陵である。神岳(かみやま)という別称もえる。秀麗で霊気を感ずる独立丘陵を古代人は神南備山(かんなびやま)ととなえて山そのものを神体としてしまったが、神南備山である三輪山は、日本におけるその古代信仰世界の首座を占める。 古代出雲族の活躍の中心が、いまの島根県でなくむしろ大和であったということ、・・・その大和盆地の政教上の中心が三輪山である。出雲族の首都といっていい。 司馬遼太郎 街道をゆく(1)より |
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ここに大国主の神愁(うれ)へて告りたまはく、「吾独(ひとり)して、何(いかに)かもよくこの国をえ作らむ。いづれの神と、吾(あ)とよくこの国を相作(つく)らむ」とのりたまひき。この時に海をてらして依りくる神あり。その神の言(の)りたまはく、「我(あ)が前(みまへ)をよく治めば、吾(あれ)よくともどもに相作り成さむ。もし然あらずは、国成り難(がた)けむ」とのりたまひき。ここに大国主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむ状(さま)はいかに」とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、「吾(あ)をば倭(やまと)の青垣(あをかき)の東の山の上に斉(いつ)きまつれ」とのりたまひき。こは御諸(みもろ)の山の上にます神(注)なり。 御諸の山の神 古事記より |
注)三輪山の大神(おおみわ)神社の神。その神社の起源神話。鎮座の神は大物主神。 | |||||||||
だいたい、古代日本人にとって、神の住む山というのは、なだらかな山である。三輪山、春日山、大和三山、みな同じような、なだらかな傘形の山である。山につく「あしひきの」という枕詞が、よく古代日本人の山というもののイメージを表しているといえるかもしれない。傘形の、裾野がゆるやかで、容易に登ることの出来る山、そういう山に、古代日本人は神の降臨の可能性を感じたのであろう。神奈備山というのがかかる山である。 梅原猛 赤人の諦観 より |
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神が降臨する神奈備として、「三輪」「鴨(葛木)」「飛鳥」「竜田」「卯名手(うなて)」が伝わっている。いずれも神々のいます処として、気が澄み、あたり払うような 静けさにみちている。「卯名手」は畝傍山のすぐ北西方向に位置する。現在は「雲梯」と表し、同じ読み方をする。 |
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自然景観というだけなら、大和路が特に優れているとは思えません。たとえば、飛鳥の里を巡り歩いても、それほどきわだって美しいとは感じられず、単なる田園風景に過ぎないとも言えるでしょう。しかし、そこに古代の人々の歴史があり、その遺産があります。そういうものから生まれてくる古代人への郷愁が手伝って、大和路が美しいと思えるのです。京都の高雄の紅葉とか嵐山の桜のように、風光明媚とはいえなくても、やはり、青垣 山隠れる 倭しうるはし と歌われるような景観が感じられるのです。 大和路は、周囲に山が沢山連なっています。日が出る山といえば三輪山で、古代人は神が特に美しく作り給うた山 と見ていますが。 また、日が没するのは二上山です。二つとも印象の強い山です。この二つの山があって、一日が始まり、一日が終わるという目安にもなります。当時の人にとっては、三輪山や二上山が生活の中に深く染み込んでいた山だったと思います。 入江泰吉 大和路遍歴 より |
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まほろば 畿内大和は、山の入りロや外側の意味ではなく、山々に囲ま れたところ、山のあいだ、山のふもとを意味するものであった。事実大和は、 この三輪山をはじめとして、二上・葛城などの山々に囲まれた青垣であった。 その青垣の東に秀麗な三輪山がそびえる。 そこに神の降臨と神の実在を、古代の人々が信じたのは、げにもとうなずかれる。それは大和の国魂の宿る神体山であった。平安京およ 『万葉集』に”うまさけ三輪の山””三輪山をしかも隠すか”と、三輪山がたえず大和を象徴する霊山として歌われたのも、この山こそ大和の |
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三輪山の神婚譚2種類 日本書紀が伝える倭迹迹日百襲姫命の話で、三輪山の神、大物主の妻となったが、夫は夜だけ通って顔を見せない。「お姿を見たい」と言う姫に大物主は「明日朝、あなたの櫛箱を開てみるがよい。しかし、私の姿を見ても決して驚いてはいけない。」と念を押した。姫はいぶかしがりながらも、翌朝、櫛箱を開けてみると衣紐ほどの小さな蛇が入っていた。驚き叫んでしまった。すると大神は恥じて、あれほど注意しておいたのに自分に恥をかかせたと言って、三輪山に去る。後悔して座り込んだ姫は、そこにあった箸で陰部を突いて死んでしまった。それで姫の墓を箸墓という。 美しい活玉依姫(いくたま)のもとに毎夜、立派な男がかよってきて、やがて姫は妊娠した。両親は男の正体を知ろうと、娘に「糸巻きに巻いた麻糸を彼の着物の裾に針で刺しなさい」といった。翌朝見ると麻糸は戸の鍵穴を抜けて、三輪山の神の社のところでとまっていた。それで生まれた御子が三輪の神の子であることがわかった。この神の子孫が、後に疫病を鎮めた大田田根子である。また、麻糸が最後に三輪だけ残ったので、この地を三輪というようになった。
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奈良平野の古代文化が、まずこの地に根を下ろし、山麓一帯を中心に原始日本の組織ができたところであり、かつ初瀬川を軸として農耕文化の花が咲いたところであった。 付近一帯は古く磯城とよばれており、川の南は磐余の地とよばれていた。 神武天皇伝説では、磐余彦が磯城の大物主神の娘と婚姻することになっている。 |
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笠形で美しい。大神神社の御神体なので神社裏の禁足地には入れないが、狭井神社社務所で入山料を納め、許可を受けて山頂まで登ることが出来る。山の中には、神の宿る標識にあたる磐坐(いわくら)が点々としてある。山頂には奥津磐座(おきつ)がある。 撮影禁止。 |
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三輪山のうしろ(北)に龍王山や巻向山が左右に並ぶのを、鳥が羽を広げた姿に見立てた三山が「飛鳥」の語源という説もある。⇒⇒⇒ | ||||||||||
大神神社のご神体の三輪山(467m)には、摂社狭井神社で受付をしてから入山する。 |
箸墓古墳と三輪山⇒ | |||
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(撮影ポイント)地図 聖林寺の山門から盆地の東南部が一望のもとに見渡せる。 正面の山が前後重なっているが、前にある形の良い山が三輪山である。 |