壺阪寺地図

概要と特徴
 お里・沢市の壺阪霊験記で知られ、本尊は八角殿に、礼堂、三重塔、印度招来の観音石像
目の不自由な老人の慈母園がある。
   
観音信仰
 当山は西国三十三ヶ所観音霊場の第六番で、ご本尊十一面千手観音菩薩
(木彫、丈六座像)は、眼病に霊験あらたかな仏として広く信仰され、
元正一条桓武天皇をはじめとして、眼病平癒を祈願する者多く、
その霊験は感霊録等にも多く記されている。 
   
 
 本堂が八角円堂となっている。
八角円堂は持統天皇の霊をなぐさめるために弁基が建立したものと考えられる。
三重塔(重文) 本尊は十一面観世音菩薩
礼堂(重文) 
 現在の塔は、文明年間(1469〜87)ごろのもので、どっしり落ち着いた美しい塔である。南大和の寺には塔が残っていないから珍しい存在といえる。
 塔の解体修理の際、その下から奈良以前の形式を持つ、古い塔の心礎石が発見され、大宝年間より古い寺ではないかと考えられるようになった。
 「壺阪寺(正式寺号は南法華寺)は大宝三年(703)元興寺の僧弁基によって創建された。この時代は飛鳥時代から培われた日本人の力が白鳳時代を迎えて都らしい都藤原京を創建したときでもあった。壺阪寺所蔵南法華寺古老伝によると、弁基上人が、この霊峰にひかれて山中にて修行中、秘蔵の水晶の壷中に観世音菩薩を感得したので、その壷を坂の上に安置して供養し、壺阪観音を模刻して本尊としたと記されている。壺阪の名の由来でもある。その後元正天皇ご在位のとき、勅願寺となり、その折り南法華寺の寺号を頂いている。また弁基上人は後に還俗し、春日倉首老と名乗る文化人になり、春日倉人の統括者に任命されている。即ち続日本書紀巻二、大宝元年三月十九日の条に、令僧弁紀還俗。代度一人賜姓春日倉首名老。授追大壱。とある。南法華寺は一山の総称で古老伝によれば、平安時代に全盛期を迎え金堂、五大堂、灌頂堂等を含め36堂60余坊の大伽藍が造営され、清少納言の雙紙にも壺阪、笠置とその偉容がたたえられている。しかし数度の大火で諸堂や僧房が消失し、現在では室町時代に再建されたお堂の一部礼堂、三重塔(共に重文)、八角円堂の建物を残すのみとなり、山腹の静かなたたずまいの中美しく調和を保ちつつ現存している。
 壺阪寺は上代より霊刹として尊崇をあつめた寺で、続日本書紀承和十四年十二月丙辰(885)の条定額寺に列せられたこと、また三代実録 貞観八年三月五日(859)には転読会を命ぜられたりして、古くから霊験山寺として知られている。」
壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)
 壺阪寺近くに住む坐頭沢市の美しい妻お里は、毎夜どこかへ出て行く。男のもとへと通うのかと疑った沢市は、夫の眼を治すためお里が壺阪寺へ詣でると知り、身を恥じ、所詮眼の開かぬ自分のために苦労させるのを忍びず谷に投身。それと知ってあとを追うお里。観音の霊験で二人は助かり、沢市の眼も開く。三つ違いの兄さんと・・・で名高い浄瑠璃・歌舞伎。
 説話壺阪霊験記は、盲目の夫沢市の開眼祈る妻里の純愛が沢市の目をあけさせるという夫婦愛の物語りで、明治初年当代三味線の名手団平の妻千賀女によって創作され、浄瑠璃の調べにのって演ぜられる人形や歌舞伎の技は世界各地での公演の中で大いなる賛辞を得たとか。
お里・沢市の墓  文楽 壺阪観音霊験記  笠置寺の本尊 
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