元正天皇 (げんしょう)地図

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草壁(くさかべ)皇子
阿閇(あべ)皇女(元明天皇)
誕生…680年(天武9年)
御名・異称()(だか)新家(にのみ)日本(やまと)根子(ねこ)高瑞(たかみず)(きよ)(たらし)(ひめ)天皇
皇后━━
立太子━━
即位…715年(霊元元年)9.2  在位年数…9
崩御…748年(天平20年)4.21  年令…69
皇居平城宮  年号霊亀、養老
36才で即位した元正天皇は、「続日本紀」によると「天皇神識沈深。言必典礼」と述べる。つまり、落ち着いて考え深く、言葉づかい等も礼にかなっているといわれている。
○即位にあたり、(ずい)()が献じられ、霊亀と改元され、陸田に麦や粟を栽培して凶作に備える勧農の詔を発した。
又、美濃国不破の行宮(あんぐう)で多度山(養老山)の美泉にふれ、その効能にいたく感心してこれを天の恵みとして、年号を養老と改元した。
多治比(たじひの)(あがた)(もり)らが遣唐使に任じられ、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)吉備真備(きびのまきび)玄ム(げんぼう)らが留学した。
○文武朝に撰集された大宝律令を、718年(養老2年)、藤原不比(ふひ)()に命じて改定させた。(養老律令)又、舎人(とねり)親王や太安万侶らによって編纂された「日本書紀」30巻が完成した。
○人口増加にともなう田地の不足に対応するため、新しく開墾の土地を三代に亘って伝世を許す、いわゆる三世(さんぜ)一身(いっしん)法が発せられた。

崇仏・排仏  藤原不比等  書紀の編纂  藤原氏のうごき  
女帝を考える  太安万侶   五節舞 壺阪寺  
終末期古墳  吉野宮 天皇陵の「非・古墳化」   

陵墓()保山(ほやまの)西陵(にしのみささぎ) 山形
所在地奈良市奈良阪町
○佐保山陵で火葬され、奈保山陵に改葬された。

 長い年月の間に山陵の場所はわからなくなりましたが、幕末の慶応元(一八六五)年に奈良阪の弁財天山

 が元正天皇の奈保山西陵と定められ、現在に至ります。
○「延喜諸陵式」には「兆域東西三町、南北五町、守戸四烟」とあり、現陵は丘陵を利用して南面するが詳細は判別で きない。

    ほととぎす なほも鳴かなむ

    本つ人 かけつつもとな 我を香し泣くも

       元正天皇巻二十(四四三七番歌)

  本つ人:もとつひと
  我を音し:あをねし

    ほととぎすよ、もっと鳴いておくれ。

    亡き人の名をわけもなく口にして、私を泣かせるよ。

 

 この歌は、七五五年三月三日に大伴家持らが出席した宴席において、古

歌の伝誦を得意としていた大原今城が詠唱した歌です。 題詞には「先太上

天皇御製」、割注には「日本根子高瑞日清足姫天皇」という諡号があり、元

正天皇が自ら作った歌(御製歌)とわかります。元正は七四八年に亡くなっ

ており、宴席で歌われたのはその七年後となります。

 元正は、父の草壁皇子と母の阿閇皇女(あべ・元明天皇)の間に生まれた長女

です。七一五年に退位した母の元明のあとを継いで即位し、七二四年に甥に

あたる首親王(聖武天皇)へ譲位、その後は二十年以上にわたり太上天皇

として聖武を後見しました。彼女は生涯を通して独身を貫き、子どもを

もうけませんでした。その理由として、草壁の直系男孫である聖武を後

見する役割を期待されていたために、あえて未婚のまま実子を持たなかっ

たとする説が有力です。

 元正は、両親ときょうだいの全員に先立たれています。父の草壁は六八

九年に二十八歳で、弟の文武天皇は七〇七年に二十五歳で、母の元明は七

二一年に六十一歳で亡くなりました。妹の吉備内親王長屋王に嫁ぎ

ましたが、夫のあとを追って七二九年に自害しました。子を持たなかった元

正の後半生は、全ての肉親を失った孤独の中にあったと言えます。

 ほととぎすは夏の訪れを告げる渡り鳥としてよく知られていますが、

「古に恋ふらむ鳥はほととぎす」(巻二・一一二番歌) という表現にもあ

るように、過ぎ去った世や亡くなった人への追慕を表象する鳥でもありました。

 元正がほととぎすの鳴き声の中に聞いた亡き人の名とは、父母弟妹のいず

れかの名だったのでしょうか。
   県民だより 奈良 2023−6月号 (本文万葉文化館 竹内亮)