元正天皇 (げんしょう)地図
父…
陵墓… 長い年月の間に山陵の場所はわからなくなりましたが、幕末の慶応元(一八六五)年に奈良阪の弁財天山 が元正天皇の奈保山西陵と定められ、現在に至ります。 |
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ほととぎす なほも鳴かなむ 本つ人 かけつつもとな 我を香し泣くも 元正天皇巻二十(四四三七番歌) ほととぎすよ、もっと鳴いておくれ。 亡き人の名をわけもなく口にして、私を泣かせるよ。 この歌は、七五五年三月三日に大伴家持らが出席した宴席において、古 歌の伝誦を得意としていた大原今城が詠唱した歌です。 題詞には「先太上 天皇御製」、割注には「日本根子高瑞日清足姫天皇」という諡号があり、元 正天皇が自ら作った歌(御製歌)とわかります。元正は七四八年に亡くなっ ており、宴席で歌われたのはその七年後となります。 元正は、父の草壁皇子と母の阿閇皇女(あべ・元明天皇)の間に生まれた長女 です。七一五年に退位した母の元明のあとを継いで即位し、七二四年に甥に あたる首親王(聖武天皇)へ譲位、その後は二十年以上にわたり太上天皇 として聖武を後見しました。彼女は もうけませんでした。その理由として、草壁の直系男孫である聖武を後 見する役割を期待されていたために、あえて未婚のまま実子を持たなかっ たとする説が有力です。 元正は、両親ときょうだいの全員に先立たれています。父の草壁は六八 九年に二十八歳で、弟の文武天皇は七〇七年に二十五歳で、母の元明は七 二一年に六十一歳で亡くなりました。妹の吉備内親王は長屋王に嫁ぎ ましたが、夫のあとを追って七二九年に自害しました。子を持たなかった元 正の後半生は、全ての肉親を失った孤独の中にあったと言えます。 ほととぎすは夏の訪れを告げる渡り鳥としてよく知られていますが、 「古に恋ふらむ鳥はほととぎす」(巻二・一一二番歌) という表現にもあ るように、過ぎ去った世や亡くなった人への追慕を表象する鳥でもありました。 元正がほととぎすの鳴き声の中に聞いた亡き人の名とは、父母弟妹のいず れかの名だったのでしょうか。 |