父…允恭天皇(第二皇子)
母…忍坂大中姫命
誕生…401年(履中天皇2年)
御名・異称…穴穂尊
皇后…中帯姫
立太子…━━
即位…453年(允恭天皇42年)12.14
在位年数…3年
崩御…456年(安康天皇3年)8.9 年令…56才
皇居…石上穴穂宮 年号…━━
○允恭天皇崩御に伴い、太子の木梨軽皇子と穴穂皇子が互いに兵力を結集して対立した。しかし、日頃から淫乱との風評のあった木梨軽皇子に味方するものはほとんどなく、人心はことごとく穴穂皇子についた。
木梨軽皇子は物部大前宿禰の家に隠れたが、自殺した。
○仁徳天皇の皇子の大草香皇子と履中天皇の皇女中帯姫は夫婦であったが、大草香皇子は、安康天皇の弟で気性の荒い大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺され、中帯姫は天皇の妃になり、やがて安康天皇の皇后となった中帯姫には大草香皇子との間に、連れ子の眉輪王があった。ところが眉輪王は天皇を殺した。
天皇と宮の名⇒⇒⇒
陵墓…菅原伏見西陵(古城古墳) 山形
所在地…奈良市宝来町字古城
○陵は台地の北緑辺に立地し、一辺約57mの方形壇を形成するが、古墳かどうかは未詳。1688年〜1704年(元禄年間)の御陵検討で、垂仁天皇陵の陪墳の兵庫山を当てられたことがある。
○「山陵志」によれば、現陵は所在地の古城や、周辺に城ノ内、古城山等の地名もあり、中世の山城を改造した可能性もある。
○先代の允恭天皇陵、二代後の清寧天皇陵がいずれも巨大前方後円墳であるので、安康天皇陵も同種のものと推測される。
○「紀」は菅原伏見陵に作る。「記」は管原之伏見岡と作る。とあって、丘陵上に営まれた御陵であったようである。
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