父…市辺之忍歯王(第二皇子)(履中天皇の皇孫磐坂市辺押磐皇子)
母…蟻臣?媛
誕生…450年(允恭天皇39年)
御名・異称…弘計尊・来目雅子尊・袁祁立石巣別尊
皇后…難波小野女王
立太子…━━即位…485年(顕宗天皇元年)1.1
在位年数…2年
崩御…487年(顕宗天皇3年)4.25 年令…38才
皇居…近飛鳥八釣宮 年号…━━
○父の市辺之押磐皇子は痛ましい最期を遂げたが、その時天皇は幼く自ら逃げて隠れ、その後広く御骨を探したが知るものがなかった。しかし、近江国老婆置目が知っていた。天皇は、父を殺した雄略天皇を非常に憎んでいた。
○天下泰平で豊年が続き、稲一斛で銀銭一文であったという。(貨幣により物が見える最初に記事である)徭役もなく、百姓も富み、馬も野にあふれた記事がある。
陵墓…傍丘磐坏丘南陵 前方後円墳
所在地…奈良県北葛城郡香芝町大字北今市
○御陵は、「陵墓要覧」では前方後円墳となっているが、全体は山形である。この頂上部に小形の前方後円墳が存在していると考えられている。○元来夷子社という小祠が墳上にあったが、1889年(明治22年)の修陵に際し、村の西側に移された。
○御陵の東南の水田中に三基の小円墳があり、これを陪墳とする。
○「山陵考」によると巨石の横穴式石室に練石(家形石棺)の石材があって、刀剣、金器類の副葬品のあったことを伝えている。
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