鳥谷口古墳地図

 奈良県指定史跡

鳥谷ロ古墳   昭和62年3月10日指定

場所  當麻町大字染野字島谷口679番地

時代  古墳時代終末期 (7世紀後半頃)

 この古墳は約1300年前に築造された、一辺が約7..6mの方墳です。

基室は横ロ式石槨という構造で、南側に開口部があり、二上山産出の

疑灰岩が使用されています。 また、底石や北側の側壁には家形石棺の

蓋石の未製品を利用するなど、 特異な石槨の構造となっています。

 
   
     
 

 登山口の一つ、当麻町染野で昭和五十八年、土取り作業中に一基
の終末期古墳が発見された。雄岳から東
に延びる尾根の南斜面に築
かれた一辺七メートルほどの方墳で、凝灰岩の石槨があった。
鳥谷口古墳と名付けられた。

 「小さな石郷」が特徴的だった。内のりの長さが一.六メートル、幅五
十センチ。長辺部に棺を入れるのに
用いたらしい入り口があったが、
これも幅五十センチ
ばかり。

 橿原考古学研究所の河上邦彦氏は「長さ一メートル弱の棺しか
らないだろう。成人を入れるのは不可能」
 として、改葬墓とみる。そし
て、大伯皇女の歌の題詞
に「二上山に移し葬る」とあり、大津皇子
改葬され
たことをうかがわせることに注目する。

 書紀に大津の墓に関する記載はない。山頂の治定地なのか、鳥谷口
古墳なのか、あるいは別の場所なのか
決定的な考古資料もない。ただ、
悲劇の皇子、大津を
語る場合はやはり二上山。

★所在地:葛城市染野

★墳丘:方墳(1辺7.6mで唐尺の25R)南に開口。外護列石あり。

★埋葬施設:横ロ式石槨(石槨の内法は長さ1.58m、幅0.6〜0.66m、高さ0.71m。)

★出土遺物:須恵器、土師器

★築造年代:7世紀後半〜末

★発掘調査:1983年、1985年

★被葬者:大津皇子?

特徴

@墳丘規模が7.6m (唐尺の25尺)で当時の墓制では最低の規模。埋葬施設は
凝灰岩使用の横口式石槨(組合せ式家型石棺状)石材として組

合式家型石棺の部材が使われておりなんと天井部と北側面については石棺の
蓋石が流用されており謀反のかどで捕まえられた大津皇子の墳墓

に状況的に当てはまる。石槨の規模も上記の内法で成人を土葬したとは思えな
い小空間であり改葬墓の可能性が高い。

A遺物が須恵器、土師器だけであるが7世紀後半から末のものと推定されている。

B古墳の位置が染野(しめの)と呼ばれておりこれは古代の標野(しめの)の名残で
この周辺の地域は皇室の管理下の土地だった可能性がある。

C大津皇子の姉の大伯皇女(おおくのひめみこ) が弟の死を嘆き悲しんだ歌に
「うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我れ見

む」があるが、「もう今はいない弟をこれからは二上山と思ってすごそう」と言う意味
でこの歌の前文に弟の屍を二上山に移し葬る時に嘆き悲しんで作った歌とあり
二上山周辺に大津皇子の墳墓がありしかも改葬墓の可能性を示唆している。
現在宮内庁は二上山の頂上に陵墓として祀っているがこの時代は丘陵の南斜面
に作られることが多く山の頂上に造る事はありえないし他にも例がない。現墓は幕末
の頃に比定されたもので古墳かどうかも疑問である。