二上山と畝傍山,甘樫丘より。 |
二上山は万葉集では「ふたがみやま」現在では「にじょうざん」とよむ。 雄岳(517m)雌岳(474m)の二つのコブ状になっており、この名がある。 雄岳の頂上に大津皇子の墓がある。 この墓に埋葬されたことについては、謀反へのみせしめとか、怨霊への恐怖からくる鎮魂などの説がある。 |
大津皇子はさきに天武天皇の前に誓盟された六皇子の一人である。 いかなる心境でこのような不幸を招かれたのか。ここにも群臣の様々な謀略があったと思われる。 天武天皇の深い念願にも拘わらず、天皇の御一代は壬申の乱に始まって大津皇子の最後に終わらねばならなかった。 |
南 | 北 | |
二上山は、葛城の麗峯の北に連なり、、「葛城の二上山」といわれるように、 古くは葛城の山のうちであった。奈良県と大阪府との境にまたがり、 北の雄岳(右)と南の雌岳の双峯からなっているから、その雄偉な山容は、 大和平野からも大阪平野からも朝夕に眺められ、古く大和人に親しまれ、 神聖視されてきた山だが、万葉では大津皇子の悲劇にまつわる山としてきこえている。 |
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見る場所と日にちによって異なるが、丁度雄岳と雌岳の間に夕日が沈む。 この景色を写真撮影する多くのスポットがある。 |
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ラクダのコブのような形をしたトロイデ式火山が二上山であり、 約2000年前には噴火活動をしており石器の材料となるサヌカイト原石を噴出した。 大阪府、近畿各地で発掘される石器のほとんどが二上山産のサヌカイトで作られたものと 推定されている。 二上山の南側には奈良飛鳥と難波を結ぶ古代の重要道路にあった竹内街道が東西に走っている。 |
二上山の火山活動でできた火山岩に、サヌカイトとよばれる安山岩の一種がある。 黒いガラスのようなこの石は、石器作りに最適であった。旧石器人は、サヌカイトの 岩盤にむけて穴を掘ったり、礫となって流出したサヌカイトの堆積層を掘削して原石を 入手した。二上山北麗には、無尽蔵のサヌカイトに腕をふるった旧石器人の石器製作 遺跡が集中している。 橿考研説明パネルより |
二上山のサヌカイト 橿原考古学研究所写真パネルより |
二上山産サヌカイトの使用と国府型ナイフの広がり 列島の旧石器人が石器作りに利用した石材は、サヌカイト・黒曜石(こくようせき)・硬質頁岩 (こうしつけつがん)・チャート等があり、 地域ごとに違っている。しかし旧石器人には、異なる地域の石材に対する順応性もあったようだ。 遠く旅した近畿中部〜瀬戸内の旧石器人が、各地の石材で試みた国府型ナイフ形石器が発見 されている。 |
近鉄二上山駅から二上山に登り、竹内峠・平石峠と縦走して大阪府側平石に下るコース。 富麻町新在家から田園の中を登り、大池から大竜寺・祐泉寺を経て杉林の斜面を二上山に登る、雄岳頂上には二上神社 や大津皇子の墓があり、雌岳頂上には広場として整備されていて展望が良い。 岩屋峠から一旦鹿谷寺跡の方へ下り、登り返して竹内峠に出る。 竹内峠からしばらくは杉林の中の林道を歩き、林道と分かれ谷間を登る。 稜線に出てからは、片側人工林・片側雑木林の県境線上をたどり、所々で樹間から展望を楽しみながら平石峠までの稜線上 を縦走する。 平石峠は杉や桧の植林でおおわれた暗い峠。峠からはその暗い人工林の中の道を、平石の集落まで下る。 |
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間近に迫る二上山、雄岳(右)雌岳(左) |
大津皇子の墓 | |||||||||||||||||||
大津皇子 大津皇子は、壬申の乱(672)に際して近江大津宮を脱出し、伊勢の鈴鹿(関)で天武天皇に合流した。 |
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天武天皇の皇子。母は天智天皇の子大田皇女。文武人徳に優れ将来を嘱望されていたが、 天武の死の直後に謀反の罪をきせられ非業の死を遂げた。 天武天皇がなくなった朱鳥元年(686)訳語田(おさだ)の邸宅で死を賜る。 持統天皇がわが子草壁皇子をたてるるため排除された形。 薬師寺⇒⇒⇒龍王社
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大津皇子相関 | ||
祖父・伯父 | 天智天皇 | |
父 | 天武天皇 | |
母 | 太田皇女 | 天智天皇の娘・持統天皇の姉 |
姉 | 大来皇女(大伯・おおくのひめみこ) | |
叔母 | 持統天皇 | 天智天皇の娘 |
大伯皇女
鳥谷口古墳 | ||
大伯皇女歌 |
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二上山と首子塚古墳 |
東 | ||
北 | 南 | |
雌岳山頂より東に奈良盆地(藤原京)に浮かぶ大和三山、大和青垣を望む。 西に大阪平野、遠く明石海峡大橋を望むことも出来る。 |
山頂にある日時計。 | 馬の背にあるトイレ。 |
雌岳山頂より葛城山、金剛山を望む。 | 雌岳山頂より雄岳を望む。 |
笹百合(2012-6-30) |
あじさい(2012-6-30) |
夏見廃寺跡(昌福寺) | 昌福寺 | |
大来皇女(大伯・おおくのひめみこ))は、実在初の齋王(さいおう・いつきのひめみこ)となった女性で、 天武天皇と持統天皇の姉にあたる太田皇女とのあいだにできた皇女で、大津皇子とは同母姉弟である。 年9月9日(686年)天武天皇が亡くなると、皇位継承の有力候補であった大津皇子は、天皇の不安どおり、 それから1ヶ月もたたないうちに、「大津皇子事件」が発生した。 皇太子・草壁皇子の安泰を願う皇后の謀略であるとの見方がある、大津皇子の謀反の企ては、密告により露見し、 大津皇子は、即刻、訳語田(おさだ)の家で捕らえられ、その後、磐余の池畔で24歳の若さで処刑された。 その後遺体は二上山の頂上に移送された。磐余の池⇒⇒⇒ 飛鳥・白鳳⇒⇒⇒ 斎王:豊鋤入姫、倭姫 |
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この夏見廃寺跡は、大来皇女が齋王の任務を終えて建てた昌福寺とされる。 寺は南向きで、最上段中央に金堂、その東に塔、南西方に講堂がある。 ここから二上山を西に位置し、大来(大伯)皇女は、密かに大津皇子を偲んだのではないだろうか。 |
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大津皇子、竊(こひそ)かに伊勢神宮に下りて上り來ましし時の大伯皇女の御作歌(みうた)二首
105 わが背子を大和へ遣(や)るとさ夜深けて 暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡れし 198 二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が獨り越ゆらむ |
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飛鳥時代後半(白鳳時代 7世紀末~8世紀前半)に建立された。 斜面に沿って、本尊を安置する金堂を西に、仏舎利を埋納した塔を東に、 僧侶の修行の場である講堂を西南の位置に配した変則的伽藍配置をしている。 |
吉備池廃寺は、東・西に金堂・塔を並べた法隆寺式伽藍配置をとる寺院跡 で、舒明11年(639)に建立された日本最初の勅願時である百済大寺に比定 されている。 1997年吉備池の南東岸で行われた発掘調査において、巨大な金堂基壇 の掘込地築が検出されて以降、塔、回廊、僧坊や雑坊と考えられる建物群、 南門に伴う雨落ち溝などが確認され、東西230m、南北280m以上におよぶ 大規模な寺域が想定されている。 国史跡の指定をうけている。 |
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吉備池廃寺 東西約230m、南北280m以上の広大な寺域をも つ古代寺院。吉備池の南側で行われた発掘調査で 大規模な金堂や塔の基壇が確認されたほか、回廊 や僧坊、付属施設と考えられる建物群が見つかっ ています。これにより東に金堂、西に塔を配し、 それらを回廊で取り囲む法隆寺式伽藍配置をとる ことが明らかとなりました。 このような大規模な伽藍から、天皇の発願による最 初の寺院であり、舒明11年(639)に建立がはじまっ た「百済大寺」の跡であると考えられています。 |
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春日神社の近く吉備池の堤に、大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬(はふ) りし時に、大来皇女哀しび傷(いた)みて作りませる御歌二首 の歌碑が設置してある。 吉備池堤より西に向かい二上山と耳成山を望む。 |
磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに 巻2-166 磯のほとりに生えている馬酔木を手折りたいが、 お見せするあなたがいるわけではないのに。 万葉集に六首の秀歌を遺す大来皇女であるが、 名張の夏見廃寺(昌福寺)に最も似つかわしい歌とされ、 不遇な死をとげた弟大津皇子への思いがある。 日本書紀などには、 大津皇子が皇位をねらったと記録されているが、 持統天皇が仕組んだ謀反劇といわれる。 |
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(おとせ)とわが見む 巻2-165 この世に残された自分は、明日から二上山をわが弟と思って眺めよう。 解説⇒⇒⇒ |
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大来皇女が西に向い二上山を見るような位置に設置してある。 |