稲荷山古墳地図

 金線を埋め込む技法(金錯)で銘文が記された鉄の剣。
 長さ73.5cm。銘文表裏合わせて115文字あり、ヲワケ臣
の系譜と、杖刀人首(じょうとじんのおびと)として、ワカタケル
大王を補佐したことが書かれている。
 冒頭の「辛亥(しんがい)年七月中記」の辛亥は西暦471年。
ワカタケル大王は雄略天皇で、宋に入貢した倭王武(ぶ)
とみられ、辛亥年は元嘉暦(げんかれき)という中国の暦に
よると考えられる。
 「七月中」は、ひと月を節気(せっき)と中気(ちゅうき)にわける
「二十四節気」による記述で、処暑(しょしょ)にあたる。
 この剣は5世紀後半に、中国式カレンダーがわが国でも
用いられたことを示している。
 この時の暦は外国人の技術者に頼っていた可能性が高い。
 6世紀の欽明天皇の時代でも、百済に対して暦の計算をする
暦博士を交代で派遣するよう要請している。
  2015−11−15 朝日新聞 









稲荷山古墳 鉄剣銘文の発見
金 お金 手形 甦った二千年の地名 
稲荷山古墳の鉄剣名  万葉賛歌
刀に象眼文字   文字の始まり  
 
国宝 金錯銘鉄剣(きんさくめい)
埼玉県稲荷山古墳出土
埼玉県立さきたま史跡の博物館提供 

写真はK.I 氏ご提供
   
 さきたま風土記の丘  
   
 施設案内  国宝 金錯銘鉄鉄剣
国宝 金錯銘鉄剣 武蔵埼玉稲荷山古墳出土
 昭和43年(1968)の発掘調査によって、稲荷山古墳後円部の、遺体を埋葬した礫郭から
出土したこの鉄剣に、金線を埋め込んだ115の文字が発見された。
鉄剣には、辛亥(しんがい)の年(471)に乎獲居(ヲワケ)という人物により、
代々系譜と、雄略天皇と思われる獲加多支鹵(ワカタケル)大王に仕えた「杖刀人
(じょうとうじん)」のリーダーとして、活躍したことが記されていた。
 「100年に一度の大発見」といわれ、昭和58年(1983)、
一緒に出土した勾玉や鏡、馬具などとともに、国宝に指定された。

 こうしたことから、熊本・江田船山古墳で明治初期に出土した鉄剣(5世紀後半)の銘文も
「文官がワカタケル大王に仕えた」と読むことが出来るようになり、、ヤマト王権の支配が東国
から九州まで及んでいたことが明らかになった。
 
 遠望
   
  前方部   後円部
     
前方部より後円部  後円部の石槨   後円部の粘土郭
 後円部中央の地下に、未知の埋葬設備の可能性がある構造物らしきものが確認された。
 鉄剣の持ち主とは別に、古墳の真のあるじが埋葬されている可能性をを示す。2016−12−30
 鉄剣は1968年、後円部で見つかった。鉄剣の表面では78年、エックス線撮影で銘文が確認され
、辛亥年(471年)、杖刀人首(親衛隊長)として獲加多支鹵大王(わかたける)を補佐したヲワケ臣
が剣」を作らせた、と解読された。
   全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堀をはさんで二重に巡り、
墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。
古墳が造られた時期は、5世紀後半頃と考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。
 前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復原されました。
 1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。そのうち礫郭は良く残っており、
多くの副葬品が発見されました。
その一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、
他の副葬品とともに1983年に国宝に指定されています。  
 
 
 礫郭埋葬想定図
 昭和43年(1968)の発掘調査で、後円部の頂上から二つの埋葬施設を発見した。
素掘りの竪穴で、粘土を敷いた上に棺を置いた粘土郭、もう一つは、船形に掘った竪穴に
川原石を貼り付けて並べた上に棺を置いた礫郭であった。
 粘土郭は、堀荒らされて遺物は僅かしかであったが、礫郭からは金錯銘鉄剣をはじめと
とする豊富な副葬品が出土した。 
 
古い太刀⇒⇒⇒