明日香村小山の古代寺院跡「小山廃寺」は天武天皇時代の官寺(国立寺 院)である大官大寺(高市大寺)だきだった、との説を森郁夫・帝塚山大教授 (帝塚山考古学研究所長)が近刊の東京国博物館研究誌『MUSEUM 』594号
森所長は東京国立博物館が所蔵する小山廃寺出土の軒瓦20点を調べた。 このうち、直径18 . 7cmの軒丸瓦は鋸歯文(のこぎりの歯形の文様)と複弁 一方、小山廃寺からは雷文と呼ばれる文様を縁にめぐらせた7世紀後半 の軒瓦も出土。京都府南部の7世紀後半の複数の寺院跡からは、小山廃寺 系の雷文の軒瓦と、官寺である飛鳥の川原寺系の軒瓦が寺ごとに分かれて 出土しており、森所長は「小山廃寺は氏寺ではなく、大きな影響力を持った 大官大寺は平城京に移って大安寺となる。奈良時代の大安寺資財帳(縁 起と財産目録)によると、最初の官寺だった舒明天皇発願の百済大寺(桜井 一方、小山廃寺の南東約800mにある国史跡・大官大寺跡の発掘では、 森所長が小山廃寺を天武朝大官大寺とする理由は、出土する軒瓦の年代 が7世紀後半で、川原寺や薬師寺など当時の他の官寺の瓦の様式とは異な っているためだ。 だが、小山廃寺の伽藍は中門から講堂にとりつく回廊の中に金堂がある だけ。大官大寺は「おおきつかさのおおでら」と呼ばれ、文武朝大官大寺の 森所長は 藤原京の紀寺とすると、雷文の瓦の年代が20年も古く、時代が |
古代日本におけるこの鉄鋌の流通貨幣としての生命は、そう長くはなかったようである。 これらの鉄鋌や鉄片は、すでに五世紀以後、刀剣や甲冑につくり直され、さまざまな鉄製品に形を変えて 流通しはじめたからであった。 『日本書紀』垂仁天皇紀を見ると、河内国に土師村(茅渟の莵砥川上)という村があって、その河内の土師 その刀を,石上の神の神庫(ほくら), つまり石上神宮の蔵にすべて収納したと書いてある。 石上神宮は、もともと石に宿る神を神体とする神社であった。 しかし、この石上神社は、物部氏という武技に秀でた名門氏族の氏神になり、剣を主祭神にした。そして その剣を布都御霊剣とよんだ。 『日本書紀』神武天皇紀によると、こんな由来がある。神武天皇の大軍が紀州へ向かったとき、熊野浦で疫病 そこに、熊野高倉下という人物があらわれた。 彼は、神武天皇に次のように告げた。 夢の中で「かつて天照大神が建御雷神に命じて、出雲を合併するために大国主命のところに赴かせたこと かある。 その国譲りの談合のときに,建御雷神が携えて行った大切な剣をお前に授ける。この剣は布都御霊剣とい って好運を開く大切な剣である。 建御雷神は、この剣を土の上に突き刺して、大国主との国譲りの談判に成功したのである。 こういう由緒ある剣を、授けるから、それをもって邪気をはらえ」という託宣があった。 そこで庫を開くと、ひと振りの剣が、確かに底板に突き立っていたという。 熊野高倉下から、その剣を奉じられた神武天皇の軍は、その後は元気をとりもどし、敵に当たっても連戦 連勝、やがて大和に入ることができた。 これが『古事記』『日本書紀』にも記されている布都御霊剣の由来である。 後に、やがて物部氏は霊験あらたかなこの布都御霊剣を、自分たちの氏神様の御神体として、
石上神宮 『日本書紀』の崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇など各紀の記事を読むと、各地の神社の神宝(かんだから) なぜ神社の倉庫を調べるのか。それは古い神社はたいてい武器庫をもっていたからである。 ことに石上神宮は、日本の最大の武器庫であった。桓武天皇の平安遷都のとき、石上神社の神宝を油で それは、このような武器庫が大和にあっては、平安の王朝に,て危険だからである。ところが運びこんでみる またこのときに運搬した人足の数が、延べ数万人とも記されている事実から見ても、当時、石上神社に保 管されていた武器や鉄製品の数は、莫大なものであったことがよくわかる。 五世紀以後の日本では、鉄鋌は別として、鉄製品は物と物を交換する場合の仲介物、すなわち貨幣的な しかもこのように、神社が武器を貯え、武器の奉納を受ける性格をもつのは、世界的にみてもきわめて珍 らしい。外国では神は平和の象徴であり、神に武器を奉納するという慣例はすくない。しかし日本では、武 器はかならずしも好戦的な攻撃用具としてよりも、呪術的な意味をもっていて、魔をはらい、鎮魂起神の霊 力をもつものとされていた。 その呪物である武器を皇室が管理することは、祭祀権の統一、すなわち行政的な支配の成立を意味して 三世紀以降、古代日本の鉄製品の製造は、河内国を中心にして伝えられている。河内国に千本の刀をつく しかし、記録としてではなく、考古学上の資料としては、全国、とくに砂鉄や砂に近い状態の酸化鉄の産地付 日本の古代刀剣は、俵国一氏の分析によると、五十五·六パーセントは岩鉄でつくられているという。したがっ これまで多くの人が、日本の古代刀はすべて砂鉄でできていると述べていることは事実に反しているのである。 その岩鉄の主要な精錬地として記録に残ったのが,河内国であった。 仁徳天皇陵がある河内は、表面的には日本史の主要な舞台にならなかったようにみえる。しかし事実はその まず河内はなによりも、五世紀頃の国家統治の実際の行動力の象徴である武器、鉄製品の製造地であった。 つまり、鉄を背景にして歴史の大変動をひき起こした武器の生産地であった。応神、仁徳などの巨大な陵墓が 七世紀から八世紀にかけても、海運の中心は、長く瀬戸内海であった。朝鮮からやってくる船は瀬戸内海を通 そのため、その近くの河内には、船で鉄の原料である岩鉄製の原鉄が運ばれる立地条件が備わっていた。 しかも、鉄の精錬や製造がさかんになるにつれて、大陸から渡来してそこに住みつく技術者も多くなっていく。 現在河内の一番北に位置している旧中河内郡に東大阪市がある。 この東大阪市には,もと官幣大社であった この神社は中臣氏の氏神で、中臣氏が常陸の国から河内の国に移ったときに,その奉仕してきた常陸の香取、 中臣氏は近在の鉄製造技術者たちの技術を背景にして、大きな勢力を築きあげた。やがて七世紀になると、 |
八世紀初めには日本でも銭がつくられた。いわゆる和同銭である。 しかし、ここで注意しなければならないのは、銀銭、銅銭の鋳造が元明天皇の和銅年間以前に行なわれたらしい 従来の学者は、元明元年(七〇八)に武蔵国秩父郡から銅が発見され、それが日本の土地から初めて産出した しかし、これには問題がある。和同の言葉の意味は、等しく同じくなることである。和同開珎の文字は初めから 中国人には、和同になった社会が最も平和で理想の社会であるという社会観(それは政治理想であり、文化理想 このため中国大陸には、大同という名の地名もある。こうした土地は漢民族に占領され、中国文化に同したからこ 和同という訁葉は、日本では広く等しくなるという集権国家の成立を意味している。したがって、天智天皇が 和同という銭文の由来は、本来、金属の銅とは関係なく起こり得るものであり、国産銅の発見(七〇八年)で慶雲 しかし、『続日本紀』によると、まだ藤原京に都があった和銅元年一月、秩父から銅が発見され,同時に年号を和銅 すると、銀銭のほうが先で、銭文が和同なのは、たまたま銅の発見という慶事と、銅の字が同と音が通じるので, 天智天皇の時代には、無文銭の銀銭が使われていたのではないかと思われる。たとえば、当時の近江国に その塔の遺跡を発掘したところ、塔の心礎の下に埋めてあるものの中から,無文の銀銭が数十枚も出てきた。 さらに天皇崩御十六年目の、持統天皇元年(六八七)には崇福寺で天智
天皇供養の国忌斎が行なわれているから、 元明天皇の和銅元年(七〇八)の銀銭和同鋳造は、天武十二年(六八三)に銀銭使用は禁じられていたものの、 元明天皇の頃になると、文字の書いてある銀銭の和同銭がつくられるようになった。そして元明天皇は、同じ和同 日本の貨幣の歴史の上で、元明天皇の和同銭の鋳造は、画期的なことであった。 しかし歴史の現実は、和同銭に対しても、きわめてきびしかった。和同銭はつくられたが、政府の思惑どおりには その上、翌年には、たちまち私鋳銭が出現するのである。伊賀の国では和同銭を偽造した者が発見されている。 一般的にいって、貨幣は、少しでも含有する金質をおとして、多くつくれば非常に利益のあがるものである。 元明天皇の和同元年(七〇八)に貨幣が鋳造されると、翌年の和同二年一月二十五日には、早々と私鋳銭取締りの 当時は現物交換の色濃い時代の直後であるのと、中央政府の威令がかならずしも徹底していないので,正貨の流通が、 政府はこの貨幣流通の停滞を破るために、和銅四年(七一一)に蓄銭叙位令と称して、金銭を貯えたものに位階を授 しかし、租だけは相変わらず現物の米で納めなければならなかった。 このように税を貨幣で代納できるようにすることによって、和同銭の流通を極力はかったのであったが、実情は遅々 それでも長い努力の結果、ようやく和同銭の流通は相当広い範囲に主で及ぶようになった。その証しとして、奈良時代 |
和同元年(七〇八)、和同銭が鋳造されてから、日本では、五十二年後の淳仁天皇の天平宝 字四年(七六〇)に金銭の開基勝宝、銀銭の大平元宝、銅銭の万年通宝が鋳造されるまで新しい 銭はつくられなかった。この半世紀に余る空白はどうして起こったのだろうか。 それは、聖武天皇の有名な大仏鋳造の事業がその間にあったからだと考えなければならない。 天平十二年(七四〇)、藤原広嗣が乱をおこすと,聖武天皇はノイローゼになった。伊賀行幸や そのときに、国民の精神的な拠りどころとして、天皇の絶対権の象徴でもある五丈三尺五寸の やがて、日本全国から和同銭が大量に都に集められ、鋳直されて大仏の原料になったと思わ 聖武天皇の大仏鋳造はそれより約九百年前である。政府管理の通貨を非流通の物品に凝集 ただ、大仏鋳造の大事業がひたすら民衆を疲弊させる一種の暴挙に近いものであることは否定 果たしてその結果は奈良時代経済の混乱と国内不安を生んでいった。 奈良時代から平安時代にかけて、当時の政府は、この自己矛盾におちいりながらも、つぎつぎに 日本では、貨幣を政府自身がつくるのは、この時代とずっと後の明治時代のことである。これは、 豊臣秀吉以後は、いわゆる金座·銀座·銭座という商人の同業組合が、請負い事業として貨幣をつくり、 これに対し、奈良時代以降の皇朝十二銭は、すべて政府がつくり、発行したものである。これは中国 金質を下げれば下げるほど、利益が生まれる。しかし貨幣価値が下がるので、それにつれて物価 奈良朝政府のこのような安易な貨幣政策は、やがて政府自身にそのはねかえりがあらわれた。 単にインフレを起こすだけではなく、その経済的威信をはなはだしく傷つけ、自らの評価を下げる 樋口清之 金銭 より |
この経済混乱をなんとかしようというのが桓武天皇の試みであった。桓武天皇は平安京に遷都したが、 民衆の労苦を救うという美挙や,人心の動揺をおそれてやらなかったということではなく、平安京は、 平安京は未完成の都で、ただその理想のプランが残っただけなのである。 桓武天皇は、平安京に遷都の二年後(七九六年)に隆平永宝を鋳造し、その二年後(延暦十七年、 地方長官を四年に一回交替させ、賄賂をとらないようにさせたり、内外の文武の官僚について定員以外の 者を辞めさせたりもした。また造営・勅旨の二省、法花(ほけ)・鋳銭の両司を廃止してしまった。 桓武天皇は即位した翌年には、戸籍をつくらせ、浮浪人狩りを徹底させ、脱税を防ごうと努力した。 それは、先に述べた経済上の混乱により、天皇を頂点とした古代的な支配が、ゆさぶられてしょった 桓武天皇は、政治の基本についての改革策を積極的につぎつぎにうちだして、とどまることがなかった。 しかし、その政策に対する反発も、また激しかったのである。重い税からのがれるために、有力者に 当時の有力者とは金持ちではなく、物持ちだったので、有力者はますます力が強くなって、かえって中央 |
秀吉の金銭感覚がいかにすぐれていたかを証明するものに、太閤の分銅金がある。
これは通貨にならない一万両判である。分銅型に固められた備蓄用のもので、一つだけは今でも日本銀行 秀吉が死んだときは千六百個あったというが,その中の一つだけが残ったのである。この分銅金をつぶすと、 ほぼ一両を基準にして、その一万倍を金塊に固めたものである。これは重くて盗難に遭うこともすくなく、 貨幣の予備材をもっていたのである。 秀吉が、天正年間に奈良を視察したとき、松永久秀(弾正)に焼失させられた東大寺をみた。大仏は本体がなく、 彼は奈良の大仏以上のものを京都に建立しようと考えた。奈良の大仏は五丈三尺五寸であるが、秀吉は六丈三尺 聖武天皇は、奈良の大仏をつくるときに、ただ大きければ権威が生まれるものとして、大仏の寸法を決めたのでは 五丈三尺五寸という寸法が盧舎那仏の寸法なので、そのとおりにしたのである。 しかし秀吉は、この事実を知らなかった。ただ、奈良時代の大仏よりも大きいものをといった。子供のような単純な ところが、そのような大きいものは、金属だけではとても建立できない。そこで基体を木でつくるのである。そのとき秀吉 死後極楽浄土にゆきたい者は刀を差し出すように、その刀は大仏建立のための尊い釘になって、大仏の体内に入ると しかし,なにしろ刀の釘でとめた寄せ木づくりの仏像なので、基底の動揺にはとても弱かった。慶長元年(一五九六)の地震 秀吉は、地震でこわれた大仏を復興できず、二年後には彼自身も死んでしまうのである。 家康は秀頼に、大仏殿復興の計画をすすめた。そのとき、今度は壊れないように、奈良と同じ銅の大仏建立を熱心 秀頼は秀吉の集めた大量の金を相続しているので、その金を使って中国から銅を大量に買い入れることにした。 大仏建立のために厖大な量の銅が、中国から日本に運ばれてきた。その銅を運ぶために河川工事が必要になるほど 秀頼は加茂川のそばに角倉了以に命じて運河をつくらせた。これが高瀬川で、当時の大仏建築用材を運搬するための川で 加茂川とは別に専用運河をつくったくらいであるから、大仏建築にかかった費用のすべては、おそらくはたいへんなもの そこが、また家康のつけ目だった。豊臣家の経済力を大仏に固定して、必要なときまでプールさせ、必要が起これば一挙 しかも、できた鐘に、その銘の「国家安康、君臣豊楽」は、豊臣家が徳川家を呪う呪文で天下に災いをもたらすものであると、 やがて、この言いがかりは、豊臣家をつぶす口実に使われていくのである。 元和元年(一六一五)五月、大坂夏の陣で豊臣家は負け、滅亡する。すべては徳川の治世になった。 しかし徳川の時代になっても、徳川幕府の治世者たちは、すぐにはこの大仏の銅に手をつけない。
江戸時代に、金をたくさん貯えこそしなかったが、金を使わせることがうまかった人々に 家康に仕えた天海僧正や金地院崇伝(以心崇伝)などの僧侶がいる。 上野の寛永寺を創建した南光坊天海という江戸初期の天台宗の僧侶は,金を仇敵だと思っているようなふしがある。 土地を大名から取り上げることはできないから、金を何とかして取り上げようとするのである。 これなど も天海僧正の策謀でである。大名たちに金を多く使わせて、彼らの持ち金を少しでもすくなくさせようとした。 土地は所有しているが、手もとの現金はすくなくなってしよった。 表向きは江戸幕府の政策にみえるが、そのきっかけをつくったのは天海であった。そのためか世間の人々は、天海は理財
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・金の加工技術は、薄くして張るだけなら、きわめてたやすい。しかし、鍍金はむずかしい技術である。当時の日本人は,金 の消費がすくなくすみ、しかも広い 面積に使える鍍金技術を大陸から学んだ。鍍金技術はすでに漢の頃、中国では盛んに 精巧な鏡や武器ができている。この技術は相当困難なものだがこれを日本人 は修得していた。 鍍金(めっき)は、なによりもまず金箔をつくらなければならない。金は直接粉末にならないので,金を延ばして箔をつくる。 日本にこの焼付け鍍金技術がたいへん発達したのは、日本人が器用であっただけではなく、金が貴重品で日本にはすくな 貴重ですくない金を、いかに経済的に使うかというところから発達した技術が、鍍金の技術である。 『阿弥陀経』をみると、銀のことは書いてないが、仏の世界は黄金だという。仏自身が黄金の体であって、口まで金口(きんく) そこで阿弥陀如来像は、金箔を塗ったり、金鍍金をするのである。 さらには建物の中にまで、あるいは厨子の中にも金箔を張るが、これも阿弥陀信仰によるものである。 日本に出土する金属加工物の中には、中国や朝鮮で産出した金が数多く用いられている。たとえば、埼玉県行田市の 日本で使用された武器や実用品類は、弥生時代は別として、すべて鉄が主体であった。銅は貨幣の鋳造とか、一部の日常 火にかける食器は、銅が熱に弱いので、すべて鉄でつくられていた。銅鍋ゃ銅釜はほとんどなく、すべて鉄鍋や鉄釜である。 このような日本の生活様式から、当然、銅は産出しても生産過剰になる。その上、仏像や皇朝十二銭の鋳造が終わってからは、 日本でお金が重要になりはじめるのは、鎌倉時代以後のことである。この頃になってくると、貨幣がたいへん重い意味をもって 鎌倉時代の武士、青砥藤綱(あおとふじつな)の逸話に、銭十文を滑川に落して、それを拾い集めるのに五十文も人に使った
・室町幕府三代将軍の足利義満が集めた金の出所も、いうまでもなく貿易である。初代将の足利尊氏も、天竜寺船を建造して これはお寺の名義をつけて、寺の経営のためだという名目をつけると、出航が許され、しかも、税金が免除されるからである。 日本からの輸出品目は、相変わらず高価でない織物や漆器、刀剣、扇であった。中国からは、金と銅貨と薬品,その他いろいろ 中国は中華思想の国である。少し品物を買って信用されると、金をくれたのである。中国貿易ではヘりくだって、いつも臣下の礼 ・京都の公家の家の中は、ほとんど唐紙で仕切られていた。唐紙というのは、本来、中国から輸入した紙のことをいうのであるが、 日本の貴族は、金が好きであった。この金愛好癖を徹底的に装飾に生かしたのが、足利義満の金閣寺である。 足利義満は、藤原道長の法成寺(京都御所の東側に跡がある)の話を聞いているし、彼も得度して僧侶になっていたので、 阿弥陀の宝殿に自分が入るつもりで黄金の建物をつくったと考えられる。 しかし、この金閣寺は一階は禅建築で、金を張った二階,三階は浄土教建築である。 金を利用した建築で、現在その様式を伝えているのは今の再建された金閣寺だけであるが,当時はこれと同じものが各地に数多 千葉県にも、戦前主では黄金張りの御堂が残っていたように、地方にも散在していたらしい。 当時の浄土教寺院の仏殿はすべて金ずくめであることが原則だったらしい。 その影響が、今に残って、浄土真宗の仏壇は全部金箔が張られている。
・普通,お金という言葉には、金属貨幣と、紙幣(古くは土符、板符などもあった)が含まれている。 江戸時代には両替問屋(為替問屋) 、飛脚問屋が発行する切手や手形などの証文も、あった。 これは資金にも抵当にもなり、通貨に近い扱いを受けた。 手形には、証文の最後尾に自分の名前を署名するが,そのとき、名前のそばに自分の左の人差し指を紙の上において、筆で指の つまり、自分の肉体の一部である指の寸法を写し、指関節の距離を仕切る。 昔はこの指の長さと関節の距離は各人みな異ると思われていたので、今の指紋と同じく、当人の印となった。 これを書いた証文が切手証文で、これを手形ということになった。画指法と切手は同意語である。 このようにした古い証文類は、今でも数多く残っている。約束切手、小切手、郵便切手などの切手の語源も、みな画指のある証文 ・打出の小槌で金が出る話が、日本の昔話にある。ところが、この打出の小槌からは、金銀が出る前に、まず米が出る。米が出て、 これを見ても、江戸初期の日本人の意識ですら、まだ金や銀が宝物の第一位ではないことがわかる。 金銀の意識が今のように大切な財宝となるのは江戸の中期、それも元禄になってからのことではないだろらか。 それ以前の金銀の伝説や、それにまつわる説話は、『竹取物語』にもなかったように、『古今著聞集』や『今昔物語り集』を調べても、 もしも日本に金があったり、日本人が金に何ものにもかえがたくあこがれていたとすれば、当然、これらの説話集に姿をあらわすは ・こうした中国の話を、日本人自身は昔から信じてはいなかった。またこのように日本に金があるとも、決して思っていないのである。 神功皇后の託宣に「たくぶすま新羅の国は黄金白銀花咲く国」とある。古代日本人は、初めから金銀は朝鮮にあるという、強いあこ このように、日本には金銀がないということを、神功皇后ははっきりと歌っていたし、多くの古代日本人は日本の国を蓬莱島とも思って ・ところで、賽銭を上げるという日本人の発想も、おもしろい。現金を奉納する習慣は、仏教圏には広く行なわれているが、日本の賽銭 中国人は賽銭をあげても、楮銭(ちょせん)といって、紙でつくったお金型の模型をあげる。 お盆のときでも、中国では紙にお金を印刷したものを焼くし、墓にも死者のため楮銭を入れた。 日本では、現金を賽銭として神仏にあげる。 賽銭の賽という字は、奉納という意味で、神仏にお礼や祈りのために奉納することである。このことは見方によると、神や仏のめぐみを 儒教の立場から、お金を不浄物と考え、金銭な非常に卑しめる風潮があった。それは、土地経済による封建制のもとでは、支配階級の しかし,神仏という儒教とはったく関係ない場では、公然と自かの誠意を表現するバロメーターとして、ものにかわる金銭を盛んに奉納 建て前としては、社会構造の性格上、土地を第一経済物件としながらも、江戸時代以後、実質的には貨幣経済が成長して、貨幣のほう 賽銭の実現は、貨幣経済成長の証しだったのである。
樋口清之 金銭 より |
藩札の中では、赤穂藩の札が最も信用があった。これは藩札をほとんど回収したからである。赤穂藩がつぶされる直前に、 なる藩札を町人にすべて銀と引き換えにして回収した。そのためにも、大石たちは後に義士として好評だったのである。 豊かな赤穂藩に、現金がどうしてそんなにすくなかったかというと、それは藩札を現銀ですべて回収してしまったからである。 幕府はそのような事情を知らずに,現金を回収できると思って榊原を行かせたのだが、藩の金はそれ以前に出てしまって しかも赤穂藩は、時の将軍、綱吉が犬好きだというので、犬を大事にして、赤穂城内に犬の特別の小屋までつくって犬の 城受け取りの目当ての現金こそ幕府の手に入らなかったが、犬を大事にしていたことから好意を抱き、大石たちが討入りを それを柳沢吉保や荻生徂徠などが、大石たちは秩序を損う罪を犯しており、彼らの義を生かすためにも、当然切腹させる 樋口清之 金銭 より |
武士も領土をたくさんもらえるとわかっていれば、一生懸命に忠義を尽くすのであった。
もらえないとわかると、たちまちに背く。 もし、摂津·河内·和泉が後醍醐天皇領でなかったとしたら、楠木正成も南朝に忠義を尽くさなかったかもしれない。 武士は所領の主に対して忠義を尽くしたのである。大義名分などというものは、江戸時代後期に儒学者の 頼山陽などがつくったものである。この当時には大義名分の意識など一般にはなかった場合のほうが多い。 |
ひとたび飢饉でもあって、都市の食糧が乏しくなると、たちまち無数
の浮浪者がその被害者として、無惨なその死体を道端にさらすことにな ってしまう。 奈良時代の平城京にも、同じような飢饉があり、地方から税をもって きた奴婢たちが、帰りに食糧がなくて数多く飢え死にしている。その死 体がごろごろころがっているありさまを、柿本人麻呂が歌に詠んでいる。 ほどだから、都市の住民は悲惨な状態だった。 たとえば、平安京にしても、飢饉で死者が路傍に満ちたと記録に残っ ている。 平安京には浮浪者がたくさん集まり、飢饉が起こると、かならずみな 路傍に死者となってころがるのである。京都の千本通りというところ は、いつも死者がごろごろし、それを供養する板塔婆が千本も立ってい たから、千本通りとよばれたという中村直勝氏の説さえある。 |
日野大納言家に生まれたたいへんなインテリ女性であった。結婚した晩か ら、夫の義政が無学で教養が低いと知って、馬鹿にしていたという怖い女房であった。 そのため、義政は家がおもしろくないので、側室を二十数人もおいて乱行三昧で日をすごす。その果てに 妾腹にできた子供の出産費用がなく、将軍のくせに鎧を質屋にもち込んだりしている。 義政は、将軍職に嫌気がさしていたので、出家していた弟の義視を還俗させて将軍の跡目にすえ、自分は 隠居しようと考えた。 この義政、富子夫妻の共通の悩みは、跡継ぎがいないことであった。子供は、女の子一人だけしかいなか ところが、妻の富子に男の子が生まれた。義尚である。今度は富子のほうが義尚を将軍にすえようと力を 応仁の乱は延々と続いた。この長期の戦乱の中で、富子の生活力への執念がすさまじい力でくりひろげら 次には米を買い占めて、相場をつりあげて売り、巨額な金を儲けた。 またこの時期は、戦乱で家を焼かれた浮浪者や、没落した公家、武士などの間に、中国から伝わった樗蒲 富子はそれを見逃さず、そんな連中相手に高利で元手を貸しつけた。高利貸まがいのことまでして金を儲け 富子には、戦争を利用してもうける死の商人のおもかげさえあった。いわゆる売官という、位階を金で買える 富子のこのような行為は、時代がようやく貨幣経済の入口に立ったという証拠でもあった。 富子は、じつに奔放な女性であった。後土御門天皇との浮名の噂など、真偽は別として数えあげればきりが 富子にとってさいわいしたことは、足利将軍家がまだ残っていたことである。その後彼女は、義尚が九歳で運 富子はさらに六年も生きて五十七歳で死んだが(明応五年、一四九六年)、その晩年は戦乱の中で、一路衰微 の道をたどる斜陽の足利家を支えて寂しく死んでいったのである。 経済理論としては正しくとも,金銭が通用しない足利時代以前に貨幣をもっていても、権力の座にすわれないし、 後醍醐天皇が京都から大和へ行った理由も、大和の吉野の蔵王堂が熊野水軍は中国との貿易を行なって金 |
神社は全国に約8万社で、奈良県内には約1300社ある。天理·旧山辺郡内に約130社あって、うち46社を石上神宮が兼務している。 石上神宮については、記紀·万葉集·古語拾遺などに多く語られている。そのひとつ「物部氏」について、102氏族をもち巨大で武門 「布留」について、『日本書紀』には、斉明天皇は工事を好み水工に命じて渠を掘らせた。その渠は香久山西から石上山まであり、 石上神宮のご祭神について、主祭神は国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊(ふつのみたま)」の御霊威を称える「布都蓹魂大神」 天璽十種瑞宝(あめのしるしとくさのみづのたから)の御霊威を称える「布留蓹魂大神」、そして素戔嗚尊が八岐大蛇を退治されるの 11月22日夜に「鎮魂祭」が斎行される。これは饒速日尊(にぎはやひのみこと)の子、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が神武天皇· 『日本書紀』に忍壁皇子(あさかべのみこ)を遣わし御神宝を膏油で磨かせたとあり、古代王権を象徴する神宝類が天神庫(あまのほくら) 正殿(本殿)の鍵を保管するとの記載があることから、実は本殿はあったのではないかという謎が今に残る。 平成30年度 山の辺文化会議総会 記念講演(概要) 演題 「石上布留よもやま話」 講師 石上神宮宮司 森正光氏 より |
中世になると技術者が神社仏閣の拘束から飛び出してしまうようになる。そして、 神社仏閣に属しているときは、その単なる構成員であるが、独立した技術者たちの しかし、座は、かならず神社仏閣に対して営業税を払った。自分たちの身分を保証し、 およそ六十あまりの座をもった奈良の興福寺は、この座金で経営していた。後には、 奈良に油座があった跡を、いまでも油坂という。近鉄奈良駅を降りたところに油座が 座がこのように大きな政治力さえもつようになるのは、座が強力になると、その専売権 |
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五行な かいき しょうほう たいへいげんぼう まんねんつうほう ぅ 和同銭 字四年(七六0)に金銭の開基勝宝銀銭の大平元宝、銅銭の万年通宝が鋳造されるまで新 しい銭はつくられなかった。この半世紀に余る空白はどうして起こったのだろうか。 しょうむ それは、聖武天皇の有名な大仏鋳造の事業がその間にあったからだと考えなければならない。 天平十11年(七四0)、藤原広嗣が乱をおこすと,聖武天皇はノイローゼになった。伊賀行幸や恭仁磊が てんぴょう ise ters、ひろつぐ 詐画され、 奈良の都を離れようとさえした。 そのときに、 国民の精神的な拠りどころとして、天皇の絶対権の象徴でもある五丈三尺五寸の大盧舎那仏 るしゃなぶつ しがらき をつくろうと企てた。今の滋賀県、信楽(紫香楽)に、 大仏の骨組みの立柱式をあげた。天平十六年十一月十 三日のことである。聖武天皇は、その前年に、全国に 金属回収令を発布している。 鋳直されて大仏の原料になったと思われる やがて、 日本全国から和同銭が大量に都に集められ、 のために、ふたたび大きく後退させられるのである。 させた。 経済的破綻を招いた。このことからすると、この天皇の偉業の陰にも、 このため日本の経済は、貨幣経済へ一歩足を踏み入れたとたん、三十五年目にして、その貨幣は大仏鋳造 後に、徳川家康は豊臣秀頼に、豊臣家の経済力を凝集させる狙いで、京都の方広寺六丈三尺の銅像を再興 聖武天皇の大仏鋳造はそれより約九百年前である。政府管理の通貨を非流通の物品に凝集させて、政府の 一抹の謀略の疑いがないでもない が、 これは今日まだ実証することができない。 ただ、大仏鋳造の大事業がひたすら民衆を疲弊させる一種の暴挙に近いものであることは否定できなぃ。 果たしてその結果は奈良時代経済の混乱と国内不安を生んでいった。 政府の貨幣 奈良時代から平安時代にかけて、当時の政府は、この自己矛盾におちいりながらも、つぎ 発行は 奈良朝と 明治以降のみることができた。しかし、そのために起こる経済的な破綻は、目にみえて増えていった。 つぎに新しく悪い貨幣をつくり変えて、十二種類にも及ぶ通貨をつくっていくのである。 貨幣の発行者は政府である。したがって、権力を背景にすれば、いくらでも貨幣を鋳造す 日本では、貨幣を政府自身がつくるのは、この時代とずっと後の明治時代のことである。これは、日本の 豊臣秀吉以後は、いわゆる金座·銀座·銭座という商人の同業組合が、請負い事業として貨幣をつくり、 これに対し、奈良時代以降の皇朝十二銭は、すべて政府がつくり、発行したものである。これは中国にな 貨幣発行の歴史できわだった特色である。 政府はそれを管理するだけで、 みずからは貨幣をつくらなかった。 政府が通貨を鋳造するのだから、 政府自身が金質を下げようと思えば、 いくらでも粗 らったものであるが、 悪な貨幣をつくることができた。 金質を下げれば下げるほど、 利益が生まれる。 しかし貨幣価値が下がるので、 それにつれて物価は上って しまう。 奈良朝政府のこのような安易な貨幣政策は、やがて政府自身にそのはねかえりがあらわれた。 単にインフレを起こすだけではなく、その経済的威信をはなはだしく傷つけ、自らの評価を下げる結果と なっていった。 iPadから送信
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●トルコ(一九六六年六~十月)
カッパドキアの窟院壁画の模写 昭和四十一年 (一九六六) 六月、 東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団は、トルコのカッパドキア 洞窟内部はビザンチン時代の壁画の宝庫でもあり、それを調査し模写する目的で、東京芸大が調査団を派 調査団に参加した私は、四ヵ月間にわたって壁画模写の日々を送った。洞窟修道院は断崖の岩に掘られ、
残された絵の大半は、十字架のキリストや聖人物語など、キリスト教にまつわる宗教画である。多くは画僧
が描いたものと思われるが、これだけおびただしい数の窟院と絵を残したエネルギーを考えるとき、彼らの信 仰の力に圧倒される思いであった。 この地方は、十五世紀ごろからビザンチン帝国とオスマン軍のイスラム勢力が争奪を繰り広げた舞台でもあ た。キリスト教とイスラム教という異なる宗教の衝突である。その痕跡が至るところで見られた。破壊された修 |
昭和四十二年に、私は「卑弥 呼壙壁幻想(ひみここうへきげんそう)」という作品を制作した。邪馬台国の女王卑弥呼の墓が大和にあると その後、昭和四十七年に奈良県明日香村で高松塚古墳が発見された。墳墓壁画が存在しただけでなく、
昭和四十七年 (一九七二) 三月、奈良県明日香村で高松塚古墳の発掘調査が行われ、石室内部に描かれ この壁画についても、縁あって壁画を調査し、模写する機会を得た。昭和四十八年九月から約半年間、作 これらは相当の腕を持つ人物が描いたのだろう。古墳の被葬者が亡くなって限られた時間内で仕上げるに 平山郁夫 世界の文化遺跡と日本を考える より
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法隆寺金堂壁画再現模写
昭和四十二年(一九六七)
三月から約一年間、法隆寺金堂壁画の再現模写作業に携わった。この壁画は 奈良時代前期の制作といわれるが、昭和二十四年に火災で大半を焼失した。残っている資料を参考に、焼 失前の姿に再現するのが今回の事業の目的である。金堂壁画は四つの大画面と八枚の小画面からなり、 私は単独で第三号壁の「観音菩薩像」を担当することになった。 こうした作業で大切なのは、残された線や絵の具をもとに、失われた部分を想定し、描かれた当初の様子を とはいえ、三号壁「観音菩薩像」の針でつっいたような絵の具のはげ落ちを再現するには、たいへんな集中 この時期に夢中で模写し、体で覚えた線や色彩が、のちに敦埠·莫高窟の第二二○窟で法隆寺壁画と瓜二 奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺は、六0七年(推古十五)に聖徳太子により創建された。 聖徳太子が父.用明天皇の病気平癒を願って発願したといわれ、仏法興隆の願いをこめて法隆寺と名づけ られたという。金堂·五重塔は世界最古の木造建築物である。 インドで前五○○年ごろにおこった仏教は、約千年の時をかけて日本に伝えられ、法隆寺が創建されるに 至った。さらに、法隆寺の柱に見えるわずかなふくらみは、ギリシアのパルテノン神殿の堂々たるエンタシス はるか遠い西方から、長い年月をかけて、日本の奈良に文化が東漸したことをしのばせる例である。 法隆寺夢殿 法隆寺夢殿は、東院伽藍の中心建築である。ここは聖徳太子の斑鳩宮があったところで、僧行信らによっ 東院伽藍は夢殿を中心に、舎利殿,絵殿、 礼堂、鐘楼、 伝法堂などからなる。夢殿は、礼堂と舎利殿.絵殿 現在の夢殿は、鎌倉時代の一三三〇年(寛喜二)に大改造を受けている。 平山郁夫 世界の文化遺跡と日本を考える より |
金堂は法隆寺で最も中心的な建物
で、裳階を除き正面約14m、奥行き約11mの広さがある。中央に10本の柱で 区切られた内陣、須弥壇 (正面約8.6m、奥行き約5 .4m)があり、聖徳太子 法隆寺金堂は現存する木造建築で世界最古と言われながら、いつ建築され 日 たのかが今なおはっきりしない。法隆寺より古い木造建築は世界中に数多く あったが、現存では中国最古の南禅寺大殿(782年)より古い。日本書紀 に創建時の金堂が670年に炎上したという記述があり、 「再建·非再建論 争」や創建法隆寺(若章伽藍))跡の発掘調査を経て、再建論でほぼ落ち着いた。 そんな折、建築年代をめぐる議論に一石を投じる発表が年にあった。奈 良文化財研究所が金堂に使われていた天井板2点にわずかに樹皮が残ってい るのを見つけ、年輪年代法でスギの伐採時期を667~668年、ヒノキを 668~669年と絞り込んだ。現在、総合地球環境学研究所で客員教授 を務める光谷拓実さん(60)が奈文研時代にこの手法を確立させた。 この結果から金堂が660年代に建てられ、炎上したとされる670年に はすでに完成していた可能性を指摘する専門家の分析もあったが、一方で6 69年以降に完成したとは言えるが、いつ組み立てられた部材かを特定でき ないと着工や完成年代に結びつけられないという専門家の見方もあり、議論 は続きそうだ 調査に使われた金堂の天井板は1949 (昭和24)年1月26日早朝に起き た火災で焼けた後、収蔵軍に保管されていた。焼けた木材が捨てられず残さ れていたことに光谷さんは「文化財保存の原点を見た思いだった」と驚い た。「火災から半世紀がたち、年輪年代法の学問が確立した。焼損した木材 が保存されていたおかげで金堂建立の謎を解く情報を導き出せた」 火災当時、金堂は昭和大修理の解体中で仏像はほかの過所に移され無事だ った。建物の上部も外されており、主に仏教壁画や扉が焼けた。7世紀に描 かれ、剥落の進んだ壁画は現状を記録するため、1940 (昭和15)年から 模写が行われていた。火災は模写をする画家たちが使っていた電気座布団が 出火原因とされたが、永還の謎として封印されたままだ。その後、法隆寺と 文化財保護委員会(文化庁の前身)に朝日新聞社が協力し、1年がかりで68 年に再現壁画を完成させた。この壁画12面が展覧会で披露される。 「最後の宮大工棟梁」と言われた故・西岡常一さん(95年死去)の一番弟 子だった宮大工の小川三夫さん(60)は加工道具がなかった時代に不ぞろい の木をうまく組んでいる。腕がよく美的感覚の優れた職人が多くいたのだろ う」とみる。「技術で補ってもスギだと800年程度しか持たない。古代の 工人たちはヒノキの強さを知っていた」。金堂のほとんどの部材には雨水 や湿気にも強いヒノキが使われている。飛鳥建築の威容を誇る法隆寺金堂 が1300年もの間、斑鳩の里に立ち続けられた理由はここにあった もう一つ忘れてはならないのが仏教に心を寄せた聖徳太子の教えを伝えた いという人々のあつい「太子信仰」だろう。奈良国立博物館の湯山賢一館長 (62)はいう。「金堂をまもってきた先人たちの思いも展覧会の空間から感じ とってもらえればうれしい」
再建·非再建論争 たとする日本書 紀の記述を否定する非再建論 を1905(明治38)年、建築史 学者の関野貞と美術史家の平 子鐸嶺(ひらこ·たくれい) が発表し、歴史学者の喜田貞 吉が反論した。39(昭和14) 年、現金堂から南東約200mの 若草伽藍で金堂と塔の遺構が 発掘され、以降は若草伽藍が 創建法隆寺、現在の法隆寺が 再建法隆寺という考え方が定 着した。 年輪年代法 候条件下で育った木は同じよ うな年輪のパターンを刻む。 あらかじめ、伐採年代の明ら かな木材や古い建築部材など から多量の年輪データを収集 し、その年輪幅の変化を調 べ、数百年、数千年分の平均 的な変動パターンの折れ線グ ラフをつくる。そのデータと 対象となる部材を比較して木 材の生育年代を割り出す。測 定対象の木材に樹皮が付いて いれば詳細な伐採の年代も分 かる。 おり、主に壁画や柱が焼けた。修理は54年に完成したが、10年以上絵のない白壁のままだっ た。66年に朝日新聞が寄付を募って壁画を再現することを法隆寺に提案、文化財保護委員会 (現在の文化庁)の許可を得た。参加したのは当時の日本画壇のリーダー安田靫彦、前田青邨 両氏ら14人。1年で完成した。現在、日本画壇の重鎮として活躍する平山郁夫さんは最年少メ ンパーとして参加している。 壁画の焼損前の姿を記録した資料としては、35年撮影の実物大のモノクロ写真と色分解によ るカラー写真、そして40年から文部省の事業として日本画家らが作り、火災で未完成となった 旧模写があった。旧模写は8面分しかなく、ほとんどが未完成。模写を指揮した荒井寛方、入 江波光両氏が亡くなっているため、再現壁画はすべて新たに描かれた。 実物大写真は374枚の乾板に分割して撮影されており、それを「コロタイプ」という手法 で和紙に印刷。写真乾板から直接焼き付けて印刷版を作るため、細部まで精密に再現できる技 術だ。その和紙をつなぎ合わせ、カラー写真や旧模写を参照して、日本画の手法で彩色した。 焼損した壁画はほとんど色彩が失われたため、通常の模写のように、実物で確かめながら 描線や色合いを正確に再現することはできない。そごで模写という表現を避け、「再現壁 画」の呼称が使われることになった。和紙に描かれた再現壁画は完成後、東京、名古屋、京 都、福岡の4会場で一般公開されて約0万人を集めた後、法隆寺金堂の壁に固定された。
銅鐸や、九州などの装飾古墳に描かれたような抽象的な絵ではなく、写実的な絵画が日本 初期には百済からの絵師が多かったが、聖徳太子が摂政を務めていたころ、朝鮮半島北部 |
唐招提寺金堂
唐招提寺は、奈良市五条町にある律宗の総本山。七五九年(天平宝字三)に唐僧鑑真が建立した。
金堂は宝亀年間(七七○~七八○) の造営説が有力で鑑真の弟子如宝により建立された。桁行七間、梁間 金堂内部の柱頭部から天井にかけて、極彩色の仏画と文様が施されている。この彩色には、唐の影響が非 平山郁夫 世界の文化遺跡と日本を考える より |
藤原京は、奈良県の畝傍、耳成、天香具山の大和三山に囲まれた地に、持統天皇の六九四年に造営宮さ しかし、当時の姿を伝えるのは、わずかに残る石舞台のみである。画家には、描きたいものを自由に想像 して描ける自由があり、私はそれを「幻想画」と呼んでいるが、これもそうした作品の一つである。 俯瞰的に見て、大和三山や飛鳥川を描き込み、実際に都の跡を歩き回ってスケッチを重ねた。画面の中 まるで、色鮮やかな衣服に身を包み、朱雀大路を行く貴族たちの姿が浮かんでくるようである。 平山郁夫 世界の文化遺跡と日本を考える より
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力ラ風呂―光明后施浴の伝説―蒸し風呂の伝統
法華寺の境内に光明皇后施浴の伝説を負うた浴室がある。いわゆるカラ風呂である。わたくし はこれまでこの「カラ風呂」なるものの存在をさえ知らなかったが、先日奈良坂の途中で車夫か ら初めて教わったのである。谷を距てて大仏殿が大きく見えている坂の中腹に歩廊のような細長 い建物のあるのがそれだった。大仏鋳造や大仏殿建立の大工事の時に、病を得た工匠·人夫の類 がそこで湯治をしたと言われている。 その「カラ風呂」に今日突然法華寺で出逢ったのである。 浴室は本堂の東方に当たる庭園のなかにあって、三間四方(?)ぐらいの小さなるのであるが 内部の構造は全然わたくしの予期しないものであった。床は瓦を敷きつめ、中央にはさらに三尺 ほどの高さの板の床を作り、その上に屋根もあり板壁るある小さい家形が構えられている。言わ ば入れごにした箱のように、浴室のなかにさらに浴室があるわけである。その側面は西洋建築の 窓扉と同じゃり方のもので、全体の格好が測候所などの寒暖計を入れる箱に似ている。だから中 は暗い。それへはいるには、三四段の梯子をのぼり、身をかがめて、狭い入り口から這い込んで 行くのである。中には五六人ぐらいなら、さほど窮屈でるなくしゃがんでいられるらしい。これ がつまり浴槽であって、そのなかへ、床板の下から湧出する蒸気が、充満する仕掛けになってい る。純然たる蒸し風呂である。 この構造が天平時代のものをそのまま伝えているのかどうかはわからない。東側のたき口は西 洋寵風に煉瓦を積んで造ってあったし、北側の隅には現在の尼僧が常用する コンクリート造りの 長州風呂が設けてあった。この種の改良が千年にわたって少しずつ試みられたとすれば、これに よって原形を想像するのは危険な話である。しかしこの「蒸し風呂としての構造」だけは昔の面 影を伝えていはしまいか。少なくともこれに似寄った蒸し風呂が光明皇后の時代に存在したとい うことは確かではなかろうか。 この浴室の楣間に光明皇后施浴の図が額にして掲げてある。現在の銭湯と同じ構造の浴室に偏 体疥癩(へんたいかいらい)の病人がうずくまり、十二ひとえに身を装うた皇后がその側に佇立(ち 蒸し風呂が医療に役立つことは古くから知られていた。今でも一種の物理的療法として存在の 意義を持っている。天平時代に著しいヒステリイ風の病気や、その他全身の衰弱を起こすさまざ まの病気が、蒸し風呂によって幾分治療せられたろうことは想像するに難くない。とすると、蒸 し風呂を民衆に施すことは、慈善病院を経営するのと同じ意味の仕事になる。慈悲を理想とした 皇后がこのような蒸し風呂の「施浴」を行なわれたということは、きわめてありそうなことであ る。その際皇后が周囲の人々に諌止(かんし)せられる程度の熱意を示して、自らこの浴場に臨ん うやく慢心の生じかけていた光明后は、ある夜閤裏(こうり)空中に「施浴」をすすむる声を聞いて、 に踊にまでも及んだ。偏体の賎人の土足が女のなかの女である人の唇をうけた。さあ、これでみ な吸ってあげた。このことは誰にもおいいでないよ。― |病人の体は、突然、端厳な形に変わっ て、明るく輝き出した。あなたは阿閦仏の垢を流してくれたのだ。誰にもいわないでおいでなさい。 |
法華寺の本尊十一面観音は二尺何寸かのあまり大きくない木彫である。幽(かす)かな燈明に照ら た眼と朱の唇とがわれわれに飛びついて来る。豊艶な顔ではあるが、何となく物すごい。この最 初の印象のためか、この観音は何となく「秘密」めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた。 胸にるり上がった女らしい乳房。胴体の豊満な肉づけ。その柔らかさ、しなやかさ。さらにまた 奇妙に長い右腕の円さ。腕の先の腕環をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に移って 行く間の特殊なふくらみ。それらは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、しか しその美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような一種隠徴な蠱惑力(こわくりょく)を印象
北天竺乾陀羅国(がんだーら)の 見生王は生身の観世音を拝みたくて発願 入 定 三七日に及んだ。その時に、生身の観音を拝 くば「大日本国聖武王の正后光明女の形」を拝めという告げがあった。大王夢さめて思うに、万 里蒼波(ばんりそうは)を渡って遠国に行くということは到底実現しがたい。そこで再び一七日入定して 今度は、巧匠をやって彼女の形像を模写させて拝むがいいとあった。王は歓喜して、エ巧師を派 遣した。それが天竺国毗首羯磨(びlしゅかつま)二十五世末孫文答師であった。文答師は難波津に 王の賢使などに逢えよう。しかしわたくしの願いをかなえてくれるならば逢ってるいい。文答師 は答えて何でもいたしましょうといった。ちょうどそのころ皇后は亡き母 橘 夫人のために 脇士(わきじ)も彼によって造られた。皇后は彼の製作場へ行かれたことるある。文答師が見ると、 もう一つは施眼寺(せがんじ)に安置せられている。 この伝説が事実を伝えるるのでないことはいうまでもなかろうが、われわれにとって問題とな るのは、なぜ光明后をモデルとしたというごとき伝説が生じたか、またその作家がなぜ文答師と されたか、というごとき点である。 が、以上にのべたのは光明后をモデルにしたということに対する興味であって、法華寺の観音 に光明后の面影を認めるというのではない。われわれは光明后の顔に精練せられた感情のひらめ きを期待する。その目には怜悧(れいり)な光を、その口には敏感な心の徴(かす)かな慄動を、その |
ちょうど天平の初めは大唐文化に対する憧憬が 絶頂に達したころで、この文化を深く体現した者ほど時代の英雄であることができた。 阿倍仲麿 が玄宗の春顧を得、王維·李白等と親しかったのに見ても唐の文化を阻嚼する能力は、少なくと も優秀な少数者においては、さほど幼稚であったとは思えない。仲麿と同道した吉備真備や僧玄昉 が、十九年の留学の後、多量の芸術品や学問芸術宗教の書籍を携えて帰って来たときには、彼 らに対する宮廷の歓迎はすさまじかった。宮廷の人々の心的生活はたちまち彼らの影響に服した。 帝の生母宮子大夫人の幽鬱症さえも彼らの手によって癒された。未来に帝位をつぐべき阿閉皇女 の教育は真備の手に委ねられた。かくのごとき現象はただ外形的な唐風模倣欲のみから説明する ことはできない。恐らく宮廷の人々はこれらの新人物と接する ことによって心情の要求を満足さ せたのであろう。それほど人々の心は広い活き活きとした世界に対する憧憬に充たされていたの である。 古寺巡礼 和辻哲郎
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金堂から東院堂への途中には、白鳳時代大建築の唯一の遺品である東塔が鋒えている。
これがどんなに急ぐ足をもとどめずにはいないすぐれた建築なのである。三重の屋根の一々に短 い裳層をつけて、あたかる大小伸縮した六層の屋根が重なっているように、輪郭の線の変化を異 様に複雑にしている。何となく異国的な感じがあるのはそのためであろう。大胆に破調を加えた あの力強い統一は、確かに我が国の塔婆の一般形式に見られない珍奇な美しさを印象する。もし この裳層が、専門家のいうごとく、養老年間移建の際に付加せられたものであるならば、われわ れを驚嘆せしめるこの建築家は、奈良京造営の際の工匠のうちに混在していたわけである。 この 寺の縁起によると裳層のついていたのは塔のみではなく、金堂の二重の屋根もまたそうであった
らしい。大小伸縮した四層の大金堂は、東塔の印象から推しても、かなり特殊な美しさのもので
あったろう。後に上重閣のみが大風に吹き落とされたと伝えられているのから考えると、その構 造も大胆な思い切ったものであったに相違ない。このような建築が薬師寺にのみあったのかどう かは知らないが、とにかく奈良遷都時代の薬師寺に一種風変わりな建築家のいたことは確かであ る。しかもそのころにこの寺は熱狂的伝道者行基を出している。もしそこに必然の関係があるな らば、この寺の持つ特殊な意義は非常に大きい。 わたくしたちは金堂と東院堂との間の草原に立って、双眼鏡でこの塔の相輪を見上げた。塔の 高さと実によく釣り合ったこの相輪の頂上には、美しい水煙が、塔全体の調和をここに集めたか のように、かろゃかに、しかる千鈞の重味をもって掛かっている。その水煙に透かし彫られてい る天人がまた言語に絶して美しい。真逆様に身を翻した半裸の女体の、微妙なふくよかな肉づけ 美しい柔らかなうねり方。その円々とした、しかも細やかな腰や大腿にまとう薄い衣の、柔艶(じゅ |
大伴家持は、過ぎ去った古墳時代をなつかしむ武将であった。古墳時代こそ、大伴家持が属す
る大伴家が、まさに日本の覇者だった時代であった。古墳時代において、日本第一の名家であっ た大伴家も、家持の時代において、あきらかに衰退の道をたどっていた。新しい律令国家建設の 時代、そういう時代を背景にしてすでに藤原氏の専制が はじまろうとしていた。家持は、慌れの 眼を古墳時代に向けたが、もはや、彼の中には真正面から、強大な権力をもつ藤原氏に挑戦する 勇気はなかった。そこで、彼は文学の上で、古墳時代のルネッサンスを試みたのである。 ひとは万葉集の歌をバラバラにして作者別にならべ、一首一首を鑑賞する。それは近代的詩歌 艦賞法であるが、それによって、家持が万葉集をつくった精神が、完全に無視されることに、人 は気がついていない。万葉集は源氏物語のように、一つのドラマなのである。もとより家持の撰 は、完成してはいないが、彼は、一定の世界像にもとづいて、歌を排列したのである。 |
栗田女娘子(あはためのをとめ)、大伴宿祢家持に贈る歌二首 思ひ遣(や)る すべの知らねば 方垸之 (かたもひの) 底にそ我は 恋ひなりにける 巻4・七〇七 思いをは;らす方法が分からないので、片垸の底に沈んだ状態で私は恋するようになりました。 またも逢はむ よしもあらぬか 白たへの 我が衣手に 斎(いは)ひ留めむ 巻4・七〇八 またお逢いできる機会がないものでしょうか。白たへの私の衣の袖に、たいせつにとどめておきましょう 。 |
現在「歌塚」という石の硬碑が建っておりますが)、これがなかなか立派な文字です。この間私も お参りしてきましたが、こんな立派な歌塚の碑が建っているのに、あのあたりはちょっと荒れたよう な感じで、もう少しきれいにできないものかと思っているのですが。 あの歌塚の文字は、第百代天皇の後西院天皇の皇女賓鏡尼という方のものです。裏の銘文は、 なか立派な文字で、そしてこういう記念碑を建てるというんですから、森本宗範も実に立派な人であ 一昔前、女高師(奈良女子大学の前身)で先生をしていらっしゃった水木要太郎先生の書かれた 一昔前、女高師(奈良女子大学の前身)で先生をしていらっしゃった水木要太郎先生の書かれた こういう偉い人ですから、ああいう立派な記念碑ができたのだと思います。今日では少し欠けてあ るところもありまして非常に残念な感じもします。あれは立派に保存しておきたいものです。 |
歌の伝統 (影媛の悲恋物語 より)
これには次から次と地名が出てまいります。こうした歌の伝統というのは、いわゆるこの事件があ った後に、その伝承に基づいて、つくられた歌です。『武烈紀』には影媛が泣きながら詠んだように 書かれていますが、実は後の人、柿本人麻呂のような歌の巧い人が、地名を詠み込んだ歌をつく この地名を詠み込む歌の伝統は、平家物語や近松の曾根崎心中等にもあります。道行と言われ その伝統は、現在の盆踊り歌にもあります。これは天理市内でごく最近まで歌われた唄で、ちょっ と紹介しますと、「ほっそり出たのが柳本 腰は細そり柳腰 市場で恋しや蓮の池 蓮やれんげの花 盛り 岸田の岸にと腰かけて 中山寺を右に見て 寺でなうても成願寺 通うて通はぬ萱生の村 萱 生は良いとこ蜜柑どこ……」という、こうやって地名を盛り込んだ盆踊り歌です。そういうものにな ってきたのではないかと思います。 山の辺の歴史と文化を探る パネリスト 中田太造 |
早い「ちゃんちゃん祭り」 お祭りにあたって、鰐口という鐘を叩きます。現在のお渡りは、まず大和神社から出てずっと上街 もう一つ、大和の祭りで早いのはちゃんちゃん祭りだということです。遅いのは奈良のおん祭りで 普通、神社のお祭りは秋の収穫祭がお祭りになっています。石上神宮のお祭りも十月十五日、 それから奈良のおん祭りは十二月十七日ですから、大和の最終の祭りですね。かつて春日大社 時期的に考えますと、ちゃんちゃん祭りは四月一日におこなわれます。旧暦でも、同じく四月一日 におこなわれていました。したがってこの祭りは、春の祭りではなくて、夏、初夏の祭りです。 この時期大和では、大和というか古代ですけれども、麦の収穫期、これからやがて苗代を作って 活が始まろうという祭りです。祭りの性格も、これから田植えをし、豊作を願うという内容を持ってお 祭りの原 型 次に、このお祭りの内容を少し分析して考えてみたいと思います。 お祭りは四月一日ですが、そこに十二時過ぎに、これらの郷の人たち、お祭りに参加する人たち そして人数が整いますと、中山のお旅所へ向かいますが、途中で岸田の尻掛というところで中休 の口という、木製の龍で口をパクパクさせて、「龍の口舞」をおこないます。これは水神の象徴です。 それが終わりましてから、中山へと進みます。この場所は非常に神秘的です。中山大塚の前方部 日本の非常に古い古墳と密接につながっているということです。ちゃんちゃん祭りについての記述 それから平安初期の延喜式の神名帳にも記述があり、そこまで遡ることができます。そして そして向こうに着きますと、中山のほうからチマキをお供えになります。そしてそれを各大字に下 そうしてそれから、お祭りに参加した人たちが全員で、その御旅所で遅い昼食を取ります。これは 元々これらは宮座と言いまして、祭りに参加する人、家は決まっていましたが、しかし大正、戦後 と町全体に開放して、現在は町全体で維持をしております。非常に宮座の古いお祭りの姿を伝えて そうやって中山でチマキをお供えをするのですが、非常に面白いことには、中山の人たちが神人 サカナは昔から決まっておりまして、素麺を二把といて、素麺をサカナに酒を酌み交わします。素 麺は長いものですから、命を延ばすとか、健康増進させるとか、不老長生の呪物、薬になったわけ それから中山町の人たちは、ちゃんちゃん祭りというのは中山に祀る若宮社に、大和神社の神さ ゃんちゃん祭りも早く進む。だけれども帰りはのろのろと進むのは、そういうわけだ、と。 また岸田町の若宮さんは、大和神社のお父さんや、と。岸田町のお休み場には、実はお母さんの また、淳名城入姫命は、大和さんの乳母さんやったという伝えもございます。 しかもちゃんちゃん祭りでお渡りをするその先は、今申しましたように中山大塚です。実は私は、 女性を葬っておると。また、「箸墓」に比べて少し小さいこと。そんなことを想像を逞しくすれば、考 えることができるということでございます。 今もお話がござざいましたように、三世紀の中頃まで遡る可能性がある。そういう古い古墳のとこ を色々考えますと、非常に興味深いものであると思います。 |
大神神社の境内では、絵馬のウサギ、参集殿総合案内所の玄関の「なでうさぎ」などが目に入る。
『日本書紀』崇神天皇の条に、「疫病が大流行し、国の情勢が不安定になったので、崇神天皇は この大祭では、黒木の案上に、特別に調進された卯杖(うずえ)が置かれ、神前に奉献される。
卯 十二支の第四。方角では東にあたる。大神神社と「卯」の関わりは、拝殿から見て「卯の方」、 卵杖 邪鬼をはらう呪具で、ふつうは桃や梅の枝を切って五尺三寸(約一六〇センチメートル)の |
神亀六年(七二九) 二月一〇日、平城京左京に住する漆部君足と中臣宮處東人の二人が、 長屋王はひそかに左道を学び、国家をかたむけようとしている、と密告した。 その夜のうちに三関がかためられ、また六衛府(にのときまでに令制の五衛府のほかに天皇親衛軍 一三日、長屋王と吉備内親王の遺骸は生駒山に葬られた。吉備内親王には罪なしとの勅がださ 長屋王を失脚させた陰謀と、光明子の立后とには、相互に密接な連関がある。 光明子の産んだ皇太子が幼くして亡くなった年に、聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自 しかし、その計画に対して予測される最大の障害は長屋王であった。宮子夫人を大夫人と称する 長屋王の悲劇は、このようにして、しくまれたのであった。 |
不比等には四人の男子と、何人かの娘がのこされていた。男子は、長男が武智麻呂(むちまろ・ 南家祖)、二男が房前ふささき・北家祖)、三男宇合 (うまかい・馬養・式家祖))、四男麻呂(まろ・ 京家祖)である。娘には文武天皇夫人宮子、首皇子妃光明子がいる。天皇家とは娘二人を通じて、 二代にわたり密接な関係をむすんでいる。加えて不比等の未亡人、そして光明子の母 県犬養橘三千代は後宮で隠然たる力を保っている。それらの関係がフルに利用されたのであろう、 長屋王が右大臣 と なったその日に、武智麻呂が中納言となった。もっともそれはかれが不比等の 跡目をおそったものと考えてよいであろうが、その直前に、武智麻呂は正四位下から従三位に、 房前は従四位上から従三位に、馬養は正五位上から正四位上に、麻呂は従五位下から従四位上 に、それぞれ二階から五階の特進をしている。政界はにわかに緊張した空気につつまれはじめてい た。 その空気を敏感に察知したのは、病床にあった元明太上天皇であった。養老五年10月の半ば、 その直後に、元正天皇はとくに詔をだして房前を内臣に任命した。内臣とは、祖父鎌足の内臣の 長屋王や皇親たちが、この異例の人事をどのようにうけとめたかはわからない。しかし、藤原氏の |
武智麻呂ら四人による藤原氏の政権は、安定した力をほこっていた。武智麻呂は、天平六年に 右大臣に昇っていた。世の人々はこれら四人を、それぞれ家の名でよんでいた。武智麻呂は南家、 房前は北家、ながらく式部卿に任じた宇合が式家、京職大夫を兼任していた麻呂が京家というよう に。 しかし運命は突如逆転した。豌豆瘡(えんどうそう)、またの名裳瘡(もがさ・天然痘) の大流行であ る。 天然痘は九州からはいり、天平七年(七三五)には多数の死者がでていた。それが一年おいて、 四月一七日、公卿のなかでもっとも早く北家の参議藤原房前が死亡した。七月にはいって、その 都での天然痘の猛威が峠をこしかけた八月のなかばには、公卿としてのこされた者は、鈴鹿王と 八月のなかばすぎ、まず多治比広成が参議に補充されて、廟堂再建の手がうたれた。広成はや 翌年正月に諸兄は右大臣にすすんだ。こうして政権は、労せずして諸兄の手にころがりこんできた 天平一○年はほとんど人事の補充についやされた。それほどに天然痘は人材を失わせていた。 翌一一年、中納言多治比広成が死去すると、あらたに大野東人以下の参議四人が補充された。 |
承和元年(八三四)正月、事実上最後の派遣となる遺唐使が任命された。 大使は、「少(おさな)く じつはこれは、九世紀にはいってからの、二度目の遣唐使である。一度目のは、桓武天皇のとき、 常嗣は、親子二代つづいての大使任命である。だが出発にあたり、副使小野纂とのあいだに悶着 遣唐使船は四隻で編成されるが、大使や副使がどの船に乗るかは、はじめから、とくにきまって 遣唐使として乗船を拒否することだけでも勅命違反で「絞刑に処すべき」重罪だが、硬骨漢の篁は、 よせばいいのに、遺唐使は労役だという風刺の詩「西道謡」というのをつくった。日ごろ篁の才能を していた嵯峨上皇もこれをみて怒り、ついに隠岐国への流罪に処することになる。 おきのくににながされける時に、ふねにのりていでたつとて、京なる人のもとに つかはしける 小野たかむら朝臣 わたの原 やそしまかけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟 こんなハプニングはあったが、大使藤原常嗣らは無事使命をはたして、翌承和六年八月に帰朝 |
宮崎市の市街地北側の沿岸部にある阿波岐原森林公園の中にある。湧水をたた えた池で、夏場は黄色い水仙の花が咲く。江田神社が神域として守っている。 古跡を紹介した 『日向見聞録』(江戸時代中期)は「檍原三瀬」の項で、日向灘に面 |
国生みを終えたイザナギノミコトとイザナミノミコトは神生みもした後、黄泉国で別れ、イザナギ
が最後の神生みをする。 その様子を『日本書紀』はこう記す。 <左の眼を洗ひたまふ因(よ)りて神を生みたまひ、号(なづ)けて天照大神と日(まを)す。 まふ。因りて神を生みたまひ、号けて素戔嗚尊と日す> いわゆる三貴子の誕生だが、その舞台を記紀は次の様に記す。 <筑紫の日向の小戸の橘の檍原〉(日本書紀) <竺紫の日向の橘の小門(をど)の阿波岐原〉 (古事記) 日向(現宮崎県)の「アハキハラ」という地名は共通している。イザナギはここで禊をしているので、 ここの現在の地名は宮崎市阿波岐原町。
黄泉の国から帰ったイザナギノミコトが身を清め、 宮崎市神話,観光ガイドボランティア協議会の矢野義典会長は、同市北部にある小さな池
みそぎ池は、江戸時代に築かれた防潮林に囲まれているが、古代は日向灘に面した一ツ葉海岸
の砂丘の入り江だった場所にある。 「イザナギノミコトが禊をしたのは池というよりーツ葉海岸だったと考えています」 みそぎ池を神域として守る江田神社の金丸孝史禰宜はそう話す。同神社にはの神生み、 「浜くだり」という神事がかつてあった。
氏子らが、わらを舟底形に編んだ「しおつと」を2つ持ち、 金丸禰宜は、この風習をイザナギの禊を継承するものと考え、
「塩でお清めをする習慣の原形 浜くだりの様子は、昭和39年に宮崎市がまとめた民俗調查報告
(平成2年『檍郷土史』所収)に <日の出の刻、しおつとをかいばさんで波打際に進み、波端に素足を浅く踏み入れ潮水を妙いと 報告は、祈りは日本の安全と繁栄、世界の安全へと広がると解説し、神事を終えた人々の姿を 〈人生へのあせりもわだかまりもなく、無欲、幸せの中に今日の日のいとなみを迎へるかの如く> 黄泉国で穢れた身体から最高神の天照大神を生んだ イザナギの禊は、日本神話が説く「再生」の価値観を伝えるものだ。 みそぎ池にまつわる伝承、神事は、その場所を抱える誇りを醸し出している。宮崎県記紀編さん 「みそ池るら始まる日向神話は、200に上る神楽として現代に生きています。自然と共に生きる |
長屋王亡きあとの藤原氏は、まさに順風満帆であった。四人の兄弟のうちののこる宇合・麻呂も、 |
諸兄を首班とする政権に重用された人物が二人いた。二人とも養老元年(七一七)に発遣した 玄昉は阿刀氏(あど)の出身。唐で智周大師に法相の教学を学び、ときの玄宗皇帝から三品に準 同じ船で帰朝した真備は、玄昉と提携していたらしい。吉備地方の豪族の出身で、帰朝したときに 天平一二年(七四○) 八月二九日、九州大宰府から一通の上表文(じょうひょうぶん)が朝廷にとど 広嗣は式家宇合の長子である。左遷の理由は、京中にあるとき親族を「讒(ざん)し乱した」、つま 朝廷ではただちに大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とし、東海・東山・.山陰,・山陽・南海の の第二席であったが、長官の帥(そつ)は欠員、次官第一席の大弐高橋安麻呂は右中弁を兼任し、 官軍はまず間諜を放ち、広嗣軍の動静をさぐるとともに、多数の勅符をばらまいて宣伝工作をおこ 一〇月九日、官軍六千余騎と広嗣軍一万余騎は板櫃川をはさんで対峰した。 博多湾から船でのがれた広嗣が、五島列島の一つ、肥前国松浦郡値嘉島で捕えられたのは、
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聖武天皇のただ一人の皇子、安積親王の急死である。それは天平一六年閏正月、天皇が難波に 行幸したときのことであった。天皇につきしたがっていた安積親王は、突然脚病をやみ、恭仁京へ帰 った。その二日後、親王は一七歳で命を絶ったのである。ときに恭仁京の留守官は、南家武智麻呂 の第二子藤原仲麻呂であった。安積親王の母は、夫人県犬養広刀自で、この皇子の誕生が 光明立后を実現させる直接のひきがねとなったのであった。横田健一氏は、この親王の急死を、 藤原仲麻呂による暗殺だとみておられる。というのは、これよりさき天平一○年に、光明皇后の一人 娘阿倍内親王(のちの孝謙·称徳天皇)が皇太子に立てられたが、内親王の立太子など前後にその 例がない。だから周囲の豪族たちもその処置を歓迎していない。橘奈良麻呂のことばにあるように 皇嗣はまだ決定していない、とひそかに言いふらす者さえあった。つまり阿倍内親王の皇位継承者と |
藤原緒嗣と菅野真道との徳政論争によって、軍事と造作が停止されてから三か月をへた延暦 死に直面した天皇は、在位中の疑獄事件でみずからが処断した氷上川継·大伴家持らの名誉を 新しく天皇になったのは、聡明ながら、やや情緒の安定を欠く、皇太子安殿親王(あて)であった。 ちなみに内麻呂は、「徳量温雅、士庶悦び服す」とたたえられた徳望の士であったが、同時にまた、 |
平城天皇の異母弟に、南家藤原是公の娘吉子を母とする伊予親王があった。大納言雄友と吉子 数年後にだされた政府の公式見解では、のちの薬子の変の主役、式家の藤原仲成と薬子がたく |
弥生時代から古墳時代にかけての石製品のうち、これまで砥石などとされてきた150例以上は筆 奈良県桜井市の纏向学研究センターの研究紀要で公表した。 「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされる三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)で2016年、弥生 時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが見つかったことに注目。邪馬台国の有力候補地とされる その結果、これまでは大半が砥石とされてきた石製品をすずりと判断した。石製品がすり減って 日本が倭国と呼ばれた弥生時代中期中ごろ(紀元前100年ごろ)から古墳時代中期ごろ(5世紀ご 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「楽浪郡との接触が始まり、当時の日本に流入した 支持したい」と話す。 |
文字の始まり
日本での文字の始まり 日本ではいつごろから文字を使用はじめたのでしょうか。最も古い段階の例として「漢奴国王」の 金印があります。後世の偽作とする意見もありますが、『後漢書』東夷伝の記述に登場する印と考 えられます。さらに遡る資料として、紀元前一世紀頃の佐賀県二塚山遺跡出土の連弧文鏡背面の、 銘文があります。この他、奈良県天理市東大寺山古墳からは、「中平年」 (一八四年から一九〇年 ) 銘を持つ刀が出土しています。しかし、これらの資料は中国で製作されたもので、当時倭人がどれ だけ文字を理解していたのかは分かりません。 一方で、二世紀から三世紀に日本で製作された土器に墨書や刻書で書かれた文字とされる資料 があります。三重県大城遺跡、三重県貝蔵遺跡、福岡県三雲遺跡、千葉県市野谷宮尻遺跡など全 国各地から出土しています。しかし、いずれの資料も記号とする意見があり文字と断定された例は ありません。 五世紀になると、熊本県江田船山古墳、埼玉県稲荷山古墳、千葉県稲荷台一号墳から銘文の 象眼された刀剣類が出土します。銘文の内容から、日本国内で製作されたものと考えられます。 この頃には、各地に文字を理解し、書くことができる人物がいたことを示しています。 弥生時代の硯問題 近年、日本各地で弥生時代の「板石硯」の発見が相次いでおり、日本列島への文字文化の波及に ついて積極的に遡らせる根拠となってきています。しかし、日本国内出土の「板石硯」は、中国国内 や朝鮮半島 (楽浪郡 )から出土している長方形板石硯とは形態が異なるものが多く、硯とする根拠が 乏しいとの指摘もあります。 硯の認定について、梅里末治は楽浪彩篋塚出土品を硯台、磨石との共伴、墨の付着から硯と認定 しました。国内出土品に関しては、石材、一面のみ平滑加工、側面加工方法、加工痕、使用痕など から硯と認定しています。しかし、単純な形ゆえに、形や使用痕だけで硯と認定すること難しいと言 えます。硯台や墨 (墨丸 )が共伴するのであれば、硯と認定しても問題ありませんが、日本国内で 共伴する事例は確認できません。今後重要となってくるのは、硯とされる石材に墨が付着している かどうかです。墨の付着が確認できれば硯の可能性は非常に高まります。 これからの研究 今おこなっている研究は、墨書土器や硯に付着した墨を科学的に分析をしています。これにより、 硯などの付着物が墨であるかの判定はもちろんのこと、製墨方法の復元、墨の品質差を明らかに することができます。実際に、日本各地から出土した墨書土器などを分析すると、地域や時代によ って墨の品質が変化することが分かつてきました。また、弥生時代の硯問題についてもこの研究が 決め手になる可能性があります。漢代の硯を分析したところ、いずれも墨の付着が確認できた 一方 で、弥生時代の「板石硯」については、墨の付着が確認されたものはありません 。このことから、 弥生時代の「硯」について改めて考え直す必要があります。今後、中国、韓国、ベトナムの研究者とこ の研究を進めていく予定をしており、東アジア全体の地域の資料を対象に分析することにより、技術 の伝播や当時の国際情勢を明らかにすることができると考えています。 友史会報 第664号 奈良県立橿原研究所 調査課 主任研究員 岡見知紀 |
大阪府堺市西区鳳 北町にある大鳥神社は、全国の大鳥神社の本社である。
現在の正式社名は大鳥神社であるが、大鳥大社、大鳥大明神、大鳥大神宮などとも 呼ばれる。一般には大鳥大社の社名のほうが広く使用されている。 祭神は、日本武尊·大鳥連祖神(むらじのおやかみ)と表記されている。 もともとの祭神は大鳥連祖神であったらしいが、その後、ヤマトタケルが祭神と考 えられるようになり、定着したという。これは、大鳥神社の「大鳥」という名称とヤ マトタケルの御魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられて起こっ たことらしい。 以来、当社では長いあいだヤマトタケルを祭神としてきたが、一八九六(明治二十 九)年、明治政府の祭神考証の結果を受け、その指示により祭神を大鳥連祖神に変更 した。その後、一九六一(昭和三十六)年に、大鳥連祖神に加えて、ヤマトタケルを 祭ったという。 |
俗にいう欠史八代という天皇(大王)が います。実際には歴史上に存在しなかったとされている 天皇のことで、『日本書紀』や『古事記』に書かれている、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、 孝元、開化までの八人です。 欠史八代というのは、明らかに八世紀に入って『日本書紀』や『古事記』が編纂されている最終 二代目の綏靖天皇が、葛城の高丘宮。三代の安寧は、片塩の浮孔宮。片塩は大和高田市だけ はっきり葛城氏の領内に宮があったと言えるのは、綏靖、孝昭、孝安の三人。あとの橿原市、 『古事記」や、また後に『日本書紀』となる『日本紀』を天武が創らせた目的は、天皇の現人神化と、
しかし、三世紀前半から四世紀前半にかけては葛城地方に巨大古墳がないのです。古墳上の では、なぜ欠史八代の天皇が創作されたかというと、蘇我氏の隆盛期に「天皇記」「国記」が編纂 「天皇記」は高句麗の鋭利な頭脳を得て、蘇我氏が初めて国家には「天皇記」が必要であるという その時代の最高権力者は、いうまでもなく蘇我氏です。ときの大王は推古で、蘇我氏の血が入っ 神武が橿原に居を定めたとされるのも、橿原が蘇我氏の勢力範囲である高市郡に属しており、 しかし、完成から焼亡するまでの約二十年間、蘇我氏は各氏族の了承のもとに、倭国の大王の |
琵琶湖に浮かぶ竹生島(滋賀県長浜市)の宝厳寺の唐門 (国宝)など4棟と隣接する都久夫須麻神社 (竹生島神社)の本殿 (国宝)の計5棟が、豊臣秀吉が建てた大坂城の極楽橋を移築した可能性が高い ことがわかった。滋賀県によると、1615年の大坂夏の陣で焼失した大坂城の建物はほかに現存せず、 派手好みの秀吉らしさが伝わる貴重な遺構という。 寺の唐門などは1603年秀吉の子秀頼の命で整備された。竹生島は秀吉が初めて城主となった 唐門、観音堂(重要文化財)、2棟の渡廊(渡り廊下、重文)、神社本殿の5棟は連なって建つ。滋賀県が 唐門と観音堂の組物の部材はすべて同じ寸法で、曲面の仕上げ具合も一致。本殿と渡廊の組物も 県は「5棟は元は一体の建物だった可能性が極めて高い」と判断。「絢爛豪華な桃山時代の様式の 寺の4棟は彩色などが復旧され、移築当時の鮮やかな姿を取り戻した。竹生島へは、県内の長浜港 技術を総動員 天下人のシンボル 千田嘉博・奈良大教授(城郭考古学)の話 築城名人だった豊臣秀吉の城の建物遺構はほかに残っ ておらず、非常に貴重だ。秀吉は税金を惜しみなく使って、当時の最高の技術を総動員し、素晴らし いものをつくった。京都に通じる極楽橋は天下人・秀吉のシンボルでもあり、この橋がどのような姿 だったかを想像する上でも大きな成果といえる。 大坂城の極楽橋 1596年、城の北部(京都側)の内堀に架けられた。長さ約40mで、イエズス会宣教師ルイス・フロイス 巨大な扉を真っ赤な牡丹の花が埋 め、極彩色の鳥や動物が唐破風を飾る。黒漆に映える飾り る人は一様に驚く。それもそのはず、 徹底的に破壊されたはずの豊臣大坂城の面影を残す唯一の 唐門は、かつて内堀にかかっていた 「極楽橋」の一部だ。橋と言っても屋 根をかけて望楼を設け 滋賀県は2013年から、唐門や観 音堂など4棟で屋根のふき替えと、漆や彩色の塗り直しに着手。 それにしてもなぜ、大坂城の遺構が 琵琶湖の小島に残ったのか。豊臣の記 憶を抹殺したかったは ちまたには、徳川方が秀頼に全国の寺社復興をけしかけ、竹生島でも大規 模移築で豊臣の財力 もはや真実は闇の中だけれど、よみ がえった唐門などに、時代に翻弄され た数奇な運命を感じる 極楽橋をはじめ、幻の京都新城や、 秀吉の可能性がある木像と、秀吉関連 の発見が続く。「信長 新知見とともに歴史の闇も深まるば かり。天下人の「遺産」は現代に何を 訴えているのだろうか。 |
ホケノ山古墳は全長約80mの前方後円墳。近くの箸墓古墳や纏向石塚古墳とともに3世紀後半に造ら
2000年3月、大和古噴群調査委員会がホケノ山古墳を発掘調査し、築造時期を3世紀中ごろと断定し、
分かっている範囲で最古の古墳と発表した。女王卑弥呼がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる 纏向遺跡内であることから、 多くの専門家が邪馬台国とのつながりを指摘。現地説明会には約7千人が 訪れた。 当時、調査担当だった橿原考古学研究所の岡林孝作調査部長は「古墳がいつから造られるようになっ 埋葬施設は竪穴式石室より古い「石囲い木槨」という特殊な構造をしていた。
墳丘に掘った穴の内壁に石を積み上げ、天井には木が組み上げられていた。破砕された中国鏡も一緒に
見つかった。どちらも弥生時代の墳墓にみられる特徴だ。 墳丘も後円部に比べて前方部が小さく、初期の古墳である前方後円墳の中でも古い形をしていた。 ホケノ山古墳の調査成果が、墳丘と埋葬施設、副葬品から古墳の築造時期を検討する基礎資料になっ 現在のホケノ山古墳は石囲い木槨や葺石が復元されている。境丘の上から纏向遺跡を一望できるとあ |
その線は浅く肉眼で確認しにくいため、中園さんらは昨年までに石偶の過半数を高解像度で撮影し、 する指摘はあったが、より多くの模様を精巧な画像で初めてとらえた。 中園さんは「彫り込みの痕跡やタッチから人工的な線と考えざるを得ない。まじない的な模様の可能 研究成果は『季刊考古学・別冊32』(雄山閣) 報告されている。
愛媛県の山あいに位置する縄文時代草創期から続く 遺跡で、1960年代から70年代にかけて発掘調査さ れ |
天平文化と呼ばれる貴族・仏教文化が花開いた奈良時代。天平9
(737)年に大流行した天然痘では、 奈良時代の基本史料『続日本紀』によると、天平7(735年に九州で発生した疫病は、その後全国で流 行。一度は下火になったが、737年の春になると再び九州から流行が始まり、夏から秋にかけて都の 「古代に疫病は何度も流行していますが、この時は中世ヨーロッパ社会を変えたペストの大流行のよ 全国で死者100万人超 奈良時代前半の全国の総人口は約450万人。正倉院文書に残る諸国の正税帳(財政報告書)から死 国は全国の国司に向け、症状を説明し、生魚や生野菜を食べることを避けたり体を温めたりなど、 だが、被害は都の貴族たちにもおよび、政権中枢にいた藤原氏の四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、 流行の原因は、朝鮮半島の新羅から訪れた使節が運んだとも、遣唐使が持ち帰ったともいわれる。 平城京では、道路の側溝や運河の跡などから、疫病神や鬼神の顔を土器に描いた「人面墨書土器」 一方で、疫病の原因の一つは、神亀6 (729)年に無実の罪で藤原四兄弟に陥れられ、自殺に追い込 平城京で出土した木簡に、藤原麻呂の邸宅から捨てられたとみられる天平8(736)年ごろの油の利用 願いはかなわず、麻呂は737年に亡くなる。「藤原四兄弟は兄弟なので行き来が多く、見舞い合ってい 政治の中心が皇族へ 疫病がおさまった後、聖武天皇は、藤原四兄弟を中心とした政治から、皇族中心の政治へと転換。 吉川さんは言う。「疫病を経験した後には、社会の仕組みは大きく変わってきた。疫病はただの歴史 |
東京奠都(てんと)の延暦十三年(七九四)より千百年にあたる明治二十八年(一八九五)、 桓武天皇を祭神として創建された。紀元二千六百年にあたる昭和十五年(一九四〇) には、平安京有終の天皇である孝明天皇も合紀された。 社殿は、平安宮の中心施設である朝堂院をおよそ八分の五に縮小して復元されて いる。二層の神門は鷹天門、中央正面一層入母屋造の拝殿は大極殿、そこから連なる 左右の回廊から東に蒼龍楼、西には白虎楼がある。 いずれも平安京のものを厳密に 考証して復元された国指定重要文化財である。なお、昭和四年に建立された大鳥居 及び昭和十五年に増築された社殿群は国の登録有形文化財である。 本殿の背後一帯には、約三万平方メートルからなる神苑が広がる。四つの池を中心 に、各時代の庭園形式を取りいれた池泉回遊式の近代を代表する広大な日本庭園で 国の名勝に指定されている 例祭は四月十五日。東京奠都の日にあたる十月二十二日には、本神宮の祭札として、 京都三大祭の一つである時代祭 (京都市無形民俗文化財)が行われ、千年にも及ぶ 各時代の歴史風俗絵巻が錦秋の都大路にくりひろげられる。 京都市 |
四天王寺は、聖徳太子が推古天皇元年(五九三) 摂政皇太子として最初に建立 された寺であります。 父帝用明天皇が崩御された後、 皇位の継承をめぐって、 崇仏派の蘇我馬子等と排仏派の物部守屋等が相争った時、当時十四歳の少年 でありましたが、後の聖徳太子、厩戸豊聴耳皇子は、 馬子等の崇仏派のため に、仏法守護神である四天王に戦勝を祈願されたのです。 幸い戦いは崇仏派の 勝利に終わりました。 聖徳太子は二十歳の時、摂政皇太子となられるに及んで、 荒陵(あらばか)の地に日本最初の官寺を建立して、ここに四天王を祀り、また 四天王寺が、特に思想的に重要な意味を持つのは、ここに四箇院が建設された ことによってであり、四箇院とは、敬田、悲田、施薬、 療病の四つの施設のこ とであります。敬田院とは仏の智慧を悟るところ、つまりは仏教精神を基本に 健全な教育を育み、悲田院は老人や孤児を救済する施設であり、施薬、 療病の 二院は今日の病院にあたります。仏教には古くから福田思想があり、 太子もこ の精神に則ってこれらの福祉施設をつくられたのでありましょう。この福祉施設 は日本最初のものであり、 後世に深い影響を与えたものであります。 四天王寺伽藍は、 日本でもっとも古い様式に配置され、 一般に四天王寺式と呼 ばれています。伽藍の中枢部は、中門(仁王門)を入ると五重塔があり、 金堂、 講堂の順に南面して一直線上に建てられています。 中門と講堂とを結んで左右 に回廊があり、塔はもと仏の舎利をおさめたものであって仏をあらわし、 金堂は 法を、講堂は僧をあらわして、そこに仏法僧の三宝が象徴されているのです。 な お今次の再建にあたっては、基壇にあたる地域から飛鳥を始め各時代の古瓦が 発掘され、この寺の歴史を物語るものがありました。 今日においても聖徳太子ゆかりの霊場として、広く一般市民の信仰を集め、 毎年春秋二季のお彼岸には百数十方の参拝者が参詣致します。毎月二十一日の 大師会にも常に数万の参拝者があり、境内には露天が軒を並べて賑わっていま す。今もなお「大阪市民のお仏壇」 の名で、 各宗各派を超えて信者を集めてい るのであります。 |
平安時代の都、平安京(京都市)は、その名の通りの平安な場所ではなかった。頻発する 正史『日本三代実録』は9世紀後半、都でたびたび疫病が流行したことを記す。貞観3 疫病の原因は、かつて暗殺事件の嫌疑をかけられた早良親王 (750~85) ら、非業の 西本昌弘・ 関西大教授(日本古代史)は「無実の罪で謀反などのに問われた人々の霊を 御霊会は、その後しばらく記録に登場しないが、10世紀末になると民衆主導で開かれる 都から人が消えた 歴史書『本朝世紀』などによると、正暦5(994)年に天然痘が大流行し、都の道沿いは病人 八木透・佛教大教授 (民俗学)は「まさに現代のステイホームの原型。知識がなかった この時、京都の船岡山で御霊会が開かれたが、まつる対象は特定の人物ではなく疫神。 朝廷の財政が困窮したこともあり、民衆主導の御霊会はその後も継続して開かれる。 869年の御霊会が起源との伝承がある祇園祭のほか、春の花が散る頃、花びらに乗って 今年も形変え実施 新型コロナウイルスの流行が拡大していた4月12日、今宮神社では京都三大奇祭の一 つ「やすらい祭」が開かれた。鎮花祭の流れをくむまつりで、疫神を花傘で集める行列で 佐々木従久宮司は話す。「まつりの形は変わっても、疫病を鎮めたいという願いは変わ |
トルコの最大都市イスタンブールの世界遺産アヤソフィアをめぐり、トルコの行政裁判所は 覆したことでイスラム勢力は勢いを増すとみられる。 エルドアン氏は10日夜の演説で「アヤソフィアは国内問題であり、司法判断へのいかなる 政府決定を受け、アヤソフィア前には数百人が集まり、「アラー・アクバル(神は偉大なり)」 国民の大部分がイスラム教徒のトルコだが、アタチュルクは西洋的近代国家をつくる上で、 一方、イスラム勢力は世俗主義を盾にした軍などに抑圧されてきた。エルドアン氏はイスラ ドアン氏は支持基盤のイスラム保守層に強くアピールすることになった。 |
トルコ トルコの世界遺産、アヤソフィアの「モスク化」決定について、エルドアン政権寄りのトルコ だと位置付け、「トルコは主権ある国民国家として、ついに国際的圧力を無視し得る十分な アヤソフィアは6世紀にビザンツ帝国がギリシャ正教の聖堂として建設したが、1453年に モスク化の根拠となった10日の判決で、トルコ最高行政裁判所はアヤソフィアは「メフメト エルドアン政権は2016年に起きたクーデター未遂事件の後、司法や報道機関、警察や軍 イスラムの価値観を重視するエルドアン大統領は、過去の世俗主義政権の下で冷遇さ れたイスラム保守層に光を当て、支持を得てきた。 中東や東欧、北アフリカまで支配した モスク化は「建国の父」であるアタチュルクを超えようとする試みとも解釈できる。 ただ、敵を見定めて激しく攻撃するエルドアン氏の政治 手法で国内の分断は深刻化 し、支持にも陰りが出てき た。 アタチュルクの精神を受 け継ぐ最大野党、共和人民党 (CHP) は昨年の地方選で エルドアン氏の与党、公正発 展党(AKP) からイスタン ブールと首都アンカラの市長 の座を奪った。エルドアン氏 支えできと著名な關僚経驗 者が相次いでAKPから去っ たほか、新型コロナウイルス 感染拡大による経済低迷の長 期化も確実だ。 こうした情勢をふまえ、ト ルコ英字紙ヒュリエト・デー リー・ニューズ (電子版)は 13日付の論評記事で、「アヤ ソフィアのモスク化だけでエ ルドアン氏が次期選挙での当 選を確実にできるとは考えづ らい」との見方を示した。 ま た、モスク化はバルカン半島 などにあるオスマン帝国時代 の遺跡の扱いをめぐる議論に 悪影響を与えかねないとし、 キリスト教世界からの '反 撃,に懸念を示した。 (カイロ佐藤貴生) |
フランス 仏紙フィガロは11日付の紙 面で「アヤソフィアは遺恨の はけ口になった」と論評した。 トルコの欧州連合 (EU) 加 盟という悲願がかなわず、エ ルドアン大統領が挑発的行為 に出たという見方を示した。 同紙は「EU加盟の見込み があったとき、エルドアン氏 は決して危険を冒そうとしな かった。 だが、トルコはシリ アやリビアでの行動で欧米の 批判を浴び、EU加盟の夢は 沈没した。今回の決定は、ト ルコが誰にも尻込みせず、独 立した存在だと認めさせるた めの宣伝だ」と批判した。 2003年の首相就任以 来、17年間国権を握るエルド アン氏が突然、アヤソフィア をモスク化したのは、「23年 予定の総選挙で勝利を確実に するためだ」とも論じた。 昨年の地方選で与党、公正 発展党(AKP)は大都市で 低迷した。エルドアン氏が今 回、支持基盤であるイスラム 保守層のてこ入れをしようと したのは明らかだ。 今回の決定は「米欧キリス ト教圏に対抗するイスラム圏 の大国」という演出が注目さ れたが、歴史はもっと複雑だ。 16日発行の仏週刊誌ルポワ ンは、フランスとトルコの愛 憎の関係を振り返った。 16世紀、仏王フランソワ1 世はキリスト教徒でありなが ら、宿敵だったハプスプルク 帝国に対抗するため、オスマ ン帝国と同盟を結んだ。17世 紀、ルイ14世は、オスマン帝 国によるウィーン包囲を大い に祝福したという。 18世紀末、蜜月関係は一変 した。ナポレオンはオスマン 帝国下のエジプトに遠征。第 一次世界大戦後、フランスは オスマン帝国領だったシリア を委任統治し、領内から亡命 したアルメニア人を大勢受け 購入れた。 現在のフランスは、政教分 離が国是。宗教を使って権力 固めをしようとするエルドア ン氏への視線は厳しい。 週刊誌ルポワンは、キリス ト教圏でも「宗教による力の 誇示」が行われていた例とし て、スペインの世界遺産、コ ルドパのメスキータ(モス ク)に言及した。 メスキータは13世紀、キリ スト教徒がイスラム教徒を放 逐した後、大聖堂に改造され た。同誌は、エルドアン氏が 宗教組織を利用して、フラン スやドイツのイスラム移民社 会に影響力を行使し、西欧へ の同化を阻んでいると批判し た。 17日付仏紙ルモンドは、ド イツに亡命したトルコ人作家 の寄稿を掲載。「アヤソフィ アのモスク化は、政教分離を 信奉するトルコ人に平手打ち を食わせた。エルドアン氏 は、法と民主主義を重んじる 西欧の価値にとらわれなくな った」という嘆きを伝えた。 (パリ 三井美奈) |
興福寺
興福寺は平城京遷都にともなって造営された。その際、工事の無事と 建物の安泰を願って、金、銀、真珠、水晶などで作られた無数の工芸 品が地中に埋められた。展覧会のプロローグでは、焼失した中金堂跡か ら発掘されたこれらの鎮壇具を紹介し、見る人を1300年前へのタイ ムトラベルにいざなう。 銅製の阿弥陀三尊像は、阿修羅像を発願した光明皇后の母、橘三千代 が日ごろ拝んでいたと伝えられる。 光明皇后は734 (天平6) 年、母の供養のため興福寺に西金堂を建て た。お堂の本尊(焼失し鎌倉時代に復興)を取り囲んだのが、阿修羅な ど八部衆像と十大弟子像だ。本展では、興福寺に伝存する1体すべてが 一堂にそろう (4月19日まで。2日以降は1体を展示) 八部衆像は仏に仕える神だが、人間の姿でリアルに表現されている。 内面の微妙な心の動きまでを描写する阿修羅像は、単独で展示室に安置 し、360度全方向から拝観できるようにステージをしつらえた。 再建工事が進む中金堂をテーマにした展示では、薬王・薬上菩薩の2体 の巨像が目にとまる。四天王像などとともに、新しい中金堂に安置され る鎌倉時代の作品。釈迦如来像の頭部は、最近見つかった史料から、大仏 運慶の作であることがわかった
2009-3-30 朝日新聞 |
甘樫丘の頂上で昭和天皇に説明する犬養孝(左) 1979年12月4日 2021-6-8 朝日新聞 |
采女の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く (宮中の采女たちの柚をはためかしていた明日香の風。 明日香村)の遊歩道脇に、犬養が初めて揮毫した志貴皇子の万葉歌碑 がある。建立は67年。「具体的なものがないと甘樫丘の景観の大切さ が人々に伝わらない、とみんなで先生を説得した」。学生時代から犬 養に師事した兵庫歴史教育者協議会長の山内英正(72)は振り返る。 明日香村では、60年代半ばから古都ブームで観光客が増える一 方、住宅建設の波が押し寄せ、遺跡や景観の保全が課題となった。 犬養は地元の人や者古学者らと国に保存を働きかけ、歴史的風土の 保存と住民生活の両立をめざす「明日香法」が80年に成立した。 「面としての景観は、破壊したら元には戻らない。 そこに住む人 々が誇りを持って、自分たちの土地を守りたい、という気持ちにな れるように、という点を先生は強 廃液で海が汚染された島根·江律、石灰石の採掘で削られた和歌山 白崎、ゴルフ場が計画された奈良,吉野など、万葉故地が危機に陥る たびに犬養は企業や地元に足を運び、脆年まで保存を訴え続けた。 |
大神神社から山辺の道を二〇○メートルほど北へたどると、摂社の狭井神社がある。本殿の 東北隅に「狭井」(「神聖な泉」の意) と称する泉 (井戸)があって、古来、信仰を集めてきた。 眼病に霊験あらたかな御神水としても知られ、近年、とりわけ人気がある。狭井神社を訪ねら れたら、ぜひとも味わってほしい。 『延喜式』」の神名帳には、城上郡に狭井坐大神荒魂 神社五座とみえる。その社名は、「狭井川の辺りの狭井の地におられる大神の神の荒御魂を祀る神社」の意で、大神荒魂神をはじめ 「荒魂(あらみたま)」という概念はわかりにくい。少し説明を加えよう。日本の基層信仰 (神祇 そしてタマが肉体から完全に離れてしまうと、人は死ぬと考えられていた。 神々にも夕マがあるとされ、神霊の親和·平安·調和などをもたらす顕著な力を和 魂(にぎたま)、 る大物主神に関わる伝承では、心やさしい神としての側面と、荒々しい崇り神としての側面を 併せ持つ神であった。 元来、狭井神社では滾々と湧き出る神聖な泉を、「狭井の神」として祀っていたのだろう。 湧水は「井」とも称された。後に大神神社に近接するところから、その摂社とされ、さらには 狭井坐大神荒魂神社と称されるに至ったと考えられる。 |
狭井川の辺りから玄賓庵をへて、桧原神社に至る道筋を歩いていると、神の山である三輪山 の神韻神韻縹緲(しんいんひょうびょう)たる趣きが感じられ、私の好む所でしある。 桧原神社は大神神社の摂社ではあるが、延喜式神名帳にはみえない。祭神は天照 若御魂神 地である。「元伊勢」とも称されるのは、天照大神を伊勢神宮に移し祀る以前の鎮座地だった ことに基づく。室町時代の「三輪山古図」には、拝殿、その奥に三ッ鳥居と瑞垣が描かれており、 大神神社と同様に本殿がなく、三輪山を拝する形をとっていた。同図にはまた、拝殿前の左右 に天照大神と春日明神の小詞を描き、当時すでに「元伊勢」の伝承のあったことを示している。 拝殿は享保十九年 (一七三四)に倒壊し、その後再建されていない。近年、三ツ鳥居が復原さ れた。境内の整備も進み、二上山をほぼ真西に望む景勝の地でもあることから、山辺の道を歩 く人たちの、しばしの憩いの場となっている。 なお桧原神社から西へ下り、井寺池の辺りをへて箸墓古墳に至る道も私の好む散策の 道。別の機会に歩かれることを勧めたい。 桧原神社から車谷へ向かう道すがら、西北に大和国原が望まれる。晩秋から初冬になると、 古社を旅する 和田萃 |
相撲神社 と穴師神社
車谷で巻 (纏) 向川を渡ると、穴師集落に入る。巻向川に沿って西北へ延びる道に家並みが続く。 巻向川から分水した溝川の響きを耳にしつつ、家々の見事な庭木や庭先に咲く季節の花を見な がら歩くのは心楽しい。振り返ると、三輪山の頂上を間近に仰ぎ見ることが出来る。 果樹園の間を縫いながら山辺の道を進むと三叉路に突き当たる。三叉路の近くに、第十二 山辺の道は三叉路を西に少し下って、さらに北に転じ渋谷向 山古墳 (現在、景行天皇陵に治定)へ 向かう。 ここでは三叉路を右に折れ、穴師神社 (穴師坐 兵主神社) に向かうことにする。途中の参道 脇に、相撲の起源伝承にちなむ旧跡「カタヤケシ」があって、野見宿禰を記る小詞がある。 「カタヤケシ」を過ぎてしばらく行くと、延喜式内社の穴師坐兵主神社に至る。一般的には穴師神社 兵主神については、かつて内藤湖南が『日本文化史研究』において、中国·山東省で祀られていた 記憶は朧になっているが、私は小学生の頃に穴師神社に連れていってもらったことがある。 古社を旅する 和田萃 |
上ツ道に面した一の鳥居から、本殿までの参道は三〇〇メートルほどもある。祭神は 国つ神 (地祇) として大倭神社をあげている。 『令集解』に引く「釈説」では、大倭忌寸が祀るとする。『令集解』は、九世紀半ばに惟宗直 本が『令義解』を始めとする諸注釈を集大成して編纂したもの。 大和神社の鎮座地については問題が多い。史料を検討すると、現在の鎮座地は三度目のよう である。『延喜式』の神名帳には、山辺郡に大和坐大国魂神社三座がみえ、平安時代には現社 地に鎮座していたとみてよい。 崇神朝に、それまで王宮内で祀っていた天照大神と大国魂神の神威を畏れはばかり、天照大 神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に、大国魂神を淳名城入姫命に託して祀らせた、しかし 淳名城入姫命は髪が抜け落ち病み衰えて、祭祀に与かることが不可能となったので、市磯長尾 市に和らせたと伝える (崇神紀六年、七年八月:十一月条)。また別の伝承では、大倭大神の神地 う (垂仁紀二十五年三月条に引く「一云」の説)。 神威のために淳名城入姫命が病み衰え、大国魂神 (大倭大神) を祀ることが出来なくなったの で、市磯長尾市 (長尾市宿禰)に祀らせたという点は共通している。しかしその場所については 「一云」だけにみえ、神地を穴磯邑に定め、大市の長岡に祀らせたという。 神地をどのように理解すべきか、成案をもたない。ただ、穴磯邑は桜井市穴師の地とみて間 違いない。大市の長岡岬については、ヤマトトトヒモモソヒメを大市の墓 (箸墓古墳)に葬った とみえるので (崇神紀十年九月条)、箸墓古墳付近に想定することも可能だろう。その場合、長岡 に相当するのは、桧原神社から西方に下る丘陵である蓋然性が大きい。しかし豊鍬入姫命が天 照大神を記った倭の笠縫邑は、桧原神社の地とする説が有力だから、両者があまりにも近接す ることになり、問題が多い。 注目されるのは、長岳寺から西方へ延びる尾根筋に、天理市上長岡の集落が広がり、「長岡」 の地名が残っていることだろう。また同地には、室町時代に興福寺大乗院の大市庄があった。大 市の長岡の岬とは、この地だろうと思う。すぐ北方が天理市中山町。中山大塚古墳の南端部に 大和稚宮神社があって、大和神社のお旅所となっている。 大和神社の最初の鎮座地は、山辺郡の上長岡の地であり、天平二年 (七三0) の「大倭国正税 帳」に、「大倭神戸」が山辺郡にみえるのは、それを裏づけている。『続日本紀』の天平宝字二 年 (七五八)二月二十七日条に、城下郡の「大和神山」がみえ、それをどのように解釈するのか、 問題を残す。旧城下郡は、磯城郡田原本町の北部から天理市海知町にかけての一帯。盆地部で あり、山はない。あるいはかつての城下郡大和郷は、右にみた上長岡や現在の大和神社の地を も含む広大な範囲であったとすれば、解釈できなくはない。ここでは、大和神社の社地は、上 長岡⇒中山大塚古墳付近⇒現社地へと変遷したと想定しておきたい。 古社を旅する 和田萃 |
夜都伎神社 和田萃
天理市竹之内の集落がある。標高一00メートルほどの所。奈良盆地には、中世後期に防禦のた めに作られた環濠を巡らす集落が多い。なかでも最も高い所に営まれた環濠集落が竹之内。展望 が開け、盆地部を 一望できる。ただし現在では、集落の西北部に、 環濠と土塁が一部残るのみ。 竹之内から北へたどると、ほどなく天理市乙木の集落。集落から北へ少し離れた所に、式内社 「夜都伎」は「於都岐 (乙木)」の誤写とされるが、そうだろうか。『延喜式』の諸写本のいずれも、 「夜都伎」とするからである。また「夜」の崩し字は、「乙」とは明らかに相違する。夜都伎神社と類似 社名はともかく、注目すべきは、乙木集落を中心とした一帯は、中世後期には興福寺大乗院 および春日社領の乙木庄だったことである。それで春日神社と所縁が深かった。当社がもとも と春日神社と称されていたのは、そうした謂れがある。また「乙木荘図」(猪熊伸男旧蔵文書)に、 上ッ道に面して一の鳥居、その東方に二の鳥居を描く。今も夜都伎神社の西方、道路に跨がって |
行燈山古墳の西側、国道を渡って直ぐの所に、式内社の伊射奈岐神社が鎮座している。正確に は行燈山古墳の陪家、天神山古墳の西側に接して神社があると言ったほうが正しい。 伊射奈岐神社は、延喜式神名帳の城上郡三五座のうちにみえる。天理市柳本町小字天神山に 鎮座し、祭神は伊射奈岐神 (以下、イザナキ神とする) と菅原道真である。当社は、近世には柳 本天神·楊本天満宮と称されていた。境内にある常夜燈や、上ツ道に面する鳥居にも「天満宮」 と刻んでいる。明治になって、城上郡所在の式内社である伊射奈岐神社とされた。その結果、 祭神は伊射奈岐神と菅原道真とされるようになったのである。 『延喜式』巻九・十の神名帳には、イザナキ神を祀る神社として、以下の事例がある。 大和国添下郡 伊射奈岐神社 (大。月次・新嘗) 大和国葛下郡 伊射奈岐神社 大和国城上郡 伊射奈岐神社 摂津国嶋下郡 伊射奈岐神社二座 (並大。月次・新嘗) 伊勢国度會郡 伊佐奈岐宮二座(伊佐奈弥命一座。並大。月次・新嘗) 若狭国大飯郡 伊射奈伎神社 淡路国津名郡 淡路伊佐奈伎神社 (名神大) このうち、伊勢国度曾郡の伊佐奈岐宮二座(内宮の別宮でもある) について、分註に「伊佐奈 弥命一座。並大」とみえるから、イザナキ·イザナミの両神を祀り、ともに大社とされていた ことがわかる。伊勢神宮成立後に、アマテラス大神の父神であるイザナキ神をるようになり、 さらには後にイザナミ神が配されたのだろう。 摂津国嶋下郡の伊射奈岐神社二座は、右の事例を踏まえると、他の一座はイザナミ神とみてよ い。なお阿波国美馬郡に伊射奈美神社がみえ、注目される。これらのイザナキイザナミ神を 祭神とする神社の分布をみると、伊勢·若狭国の事例を除けば、いずれも瀬戸内海東部から大 和にかけた地域に集中している。 とりわけ淡路島を中心として分布しているとの感が強い。大社とされるなかでも、淡路国津 名郡の淡路伊佐奈伎神社は名神大社であり、イザナキ神信仰の中心とみてよいだろう。黄泉国 から逃げ帰った後、イザナキ神は日向の橘の小門の阿波岐原でミソギし、神々を生む。その後 にイザナキ神が鎮まった場所について、真福寺本『古事記』では「淡海之多賀」とするのに対し 伊勢本系統の『古事記』では「淡海」を「淡路」とする。また『日本書紀』の本文では「幽 宮 『万葉集』には、「御原の海人」や「野島の海人」など、淡路島の海人を詠んだ歌が多くある。 塙書房、一九七○年) によれば、淡路島の海人集団が語り伝えた「島造り」の伝承が、後に政治 的な意図のもとに「国生み」伝承とされ、日本神話の冒頭に置かれるに至ったものと推定され ている。 大和国に伊射奈岐神社が三座もみえることは注目される。その理由については判然としない が、倭 国 造であった大倭直との関連が考えられるように思う。 神武東征伝承に、神武の一行を案内した槁根津日子(さおねつひこ)がみえ、後国造等の祖とさ れる(『古事記』)。大倭直は大和神社の祭祀に与かっているが、もともと瀬戸内海治岸、とりわ け摂津国菟原郡から明石海峡付近、さらには淡路島にかけての一帯を本拠とし、海人を支配し ていたらしい。 『延喜式』の神名帳によれば、播磨国明石郡に海神社三座 (名神大社)、同宍粟郡に の人である正八位下倉人水守ら十八人に大和連、播磨国明石郡の人、外従八位下海直溝長 以上のことから、倭直が瀬戸内海の東端部すなわち摂津国菟原郡から明石海峡、淡路島沿 岸、さらには阿波の吉野川流域に至る広範囲の海人集団を支配していた状況が浮かび上がって くる。大和国に伊射奈岐神社が三社も鎮座する背景として、倭直との関わりを想定しておきた い。もっとも天理市柳本町の伊射奈岐神社が、延喜式神名帳にみえる城上郡の伊射奈岐神社で あるか否かは、今後の検討課題となるだろう。 古社を旅する 和田萃 |
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