第28代 宣化天皇(せんか)地図
宣化天皇 宣化天皇皇后橘仲姫皇女 身狹桃花鳥坂上陵(むさのつき) |
父…継体天皇(第三皇子)
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陵の桃花鳥をツキと呼ぶ。これはトキから転化したものと思われる。 トキは桃の花の色をしている。 トキが大量にいたと思われる。 この地区は鳥屋町である。 |
宣化天皇陵から北側に位置する畝傍山 | 宣化天皇陵の周濠と続きにある鳥屋池 |
6世紀前半のことです。古墳がある尾根先端の北側の橿原市鳥屋
町の見三才に鳥屋ミサンザイ古墳が造られます。 墳長138mの前方後円墳です。墳丘は2段で築かれます。 造り出しがあります。盾形の周濠がめぐりますが、東側は そのほほ灌漑用ため池の鳥屋池につながります。
周濠がめぐりますが、東側はそのほほ灌漑用ため池の鳥屋池に 「日本書紀」によれば、宣化天皇は継体天皇の皇子で、 母は目子媛(めのこひめ)、安閑天皇の同母弟とあります。 橘仲皇女(たちばなのなかつ)とその孺子(わくご・幼児) が合葬されたことを記します。そこで1876 (明治9)年には 航空写真はほぼ真上から撮られていほす。以前に歩いた 奈良市の佐紀古墳群に分布する天皇陵古墳と比べてみます と、くびれ部が不明瞭で、どちらが前方部かも判然としぼ せん。実際、後円部の直径と前方部の前端幅は、約75mで ほぼ同じ長さです。 墳丘裾などでの宮内庁の発掘調査では、古墳時代後期前 葉(6世紀前半)の円筒埴輪や須恵器類が出土しました。 形象埴輪はないようです。墳丘の特徴もあわせて考える と、この古墳が築かれた時期を示すものでしょう。 前回、益田池について触れました。天長2(825)年に 池が完成すると「益田池碑」が建てられました。碑の実物 は失われましたが、弘法大師空海による碑文が、830年 代に成立した「性霊集」に収められています。 碑文の序に池の周囲の情景があげられています。 聳え、畝傍が北に峙(そばだ)つ。来眼(くめ) 精舎が北東に鎮まり、武遮荒壟(むさのあらはか)が 「鳥睦」は鳥屋ミサンザイ古墳を示すという説が有力です. 鳥屋は、中世の有力な土豪であった興福寺一乗院方の国 民、鳥屋氏の本拠地でした。 そこで、鳥屋の名のおこりも陵名にある「桃花鳥坂」の一 字によるのではないかと推測します。平安時代に「鳥睦 と呼ばれ、また「睦の読みから転じたとみられるミサン ザイの名を残すことからすれば、古代以来、陵墓としての 認識が在地社会に伝えられていたのでしょう。 西側の丘陵上の南北2km東西2km範囲に、新沢千塚 古墳群が広がりほす。墳丘裾を接するように群集した状態 で総数約600基、大半が直径15mほどの円墳です。群集 墳といいます。築造は5世紀半ばに始まり、6世紀後半に 終わります。 最盛期は鳥屋ミサンザイ古墳の築造時期に重なる6世紀 前半です。丘陵上に次々と小さな古墳が造られる一方、狭 い谷をへだてた東側では鳥屋ミサンザイ古墳の墳丘ができ あがっていったということになります。 後期古墳の鳥屋ミサンザイ古墳では、周囲に陪塚を配置 するようなことはしぼせん。 鳥屋ミサンザイ古墳と新沢千塚古墳群の被葬者のあいだに 直接の主従関係があったのか、なかったのか。いずれに しても、陪塚が並ぶ5世紀代の中期古墳とは異なる光景です。 |
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