上賀茂神社地図
立砂(たてずな) 高さ1m、御神体(神山)をかたどる 砂に水を染み込ませヘラでたたいて形を整える |
盛砂(もりずな)とも云い、「たつ」とは神様のご出現に由来した言葉であり、 神代の昔御祭神が最初に降臨された、本殿の後2kmにある円錐形の美し い形の神山(こうやま・地図)に因んだもので、一種の神籬(ひもろぎ・神様が降りら れる憑代「よりしろ」)である。 鬼門・裏鬼門のお砂を撒き清めるのはこの立砂の信仰が起源で、「清めのお砂」 の始まりである。 |
山城国一ノ宮 賀茂別雷神社(上賀茂神社) 御祭神 賀茂別雷大神(かもわけいかづち) 別雷命は雷神であり、天空を自在にかけめぐり、 稲妻となって田に降り、豊穣をもたらすものとしん じられている。 上賀茂神社は源氏物語や枕草子にも登場する、 京都の最も古い神社の一つで、都の鬼門を守る。 |
御神徳 厄除 雷の御神威により厄を祓い災いを除き給う 厄除明神として広く信仰されている。 方除 京都の鬼門の守り神として、方除の信仰 が篤い。 |
主な祭典 斎王代禊の儀(さいおうだいみそぎ)5月4日 競馬会神事 5月5日 当神社は競馬発祥の地と言われ、堀河天皇の御代(11世紀)より殊に盛んとなり今日まで連綿とし て続いている。 競馬(くらべうま)は古来荒々しい野生の馬を乗りこなす「悪馬流(あくばりゅう)」と言われ、五穀豊穣を 祈る神事。 賀茂祭(葵祭)5月15日 例祭 古く欽明天皇(6世紀)の御代より始まる。現在も皇室より勅使を御差遣になり、祭りが行われる。 その行列は王朝絵巻を見る如く優雅で、総勢500名、列の長さ800mに及ぶ。京都三大祭の一つ。 夏越祓 6月30日 茅ノ輪をくぐり、人形を流して罪穢を祓い清め、無事で健康な生活を祈願する行事。 風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける 藤原家隆 と百人一首にも詠われているように、当神社の夏越祓(なごしはらえしき)は鎌倉時代すでに有名で あった。 百人一首⇒⇒⇒ からす相撲 9月9日 神事役がからす鳴き、からすの横飛びなどして、童子が相撲をし、紳覧に供する珍しい行事。 |
|
一の鳥居 | |
朱の一の鳥居の前に立つ。奥の二の鳥居まで一直線に通った白い参道と、 その両側にひろがる緑の芝生、色彩の鮮やかさと直線の簡素さが美しい。 この芝生で5月5日に競馬(くらべうま)の式が行われ、 15日には白砂の道を葵祭の行列が進むのだと思うと、それだけで胸が興奮で湧き立ってくる。 芝生の中に二本の枝垂れ桜も、花の季節にはさぞ濃艶な姿を見せるにちがいない。 神がみの座 岡野弘彦 より |
|
紫式部歌碑 ほととぎす 声まつほどは 片岡の ほととぎす 声まつほどは片岡の 社のしずくに たちやぬれまし |
風そよぐならの小川の夕げれは みそぎそ夏のしるしなりける 藤原家隆郷 「ならの小川」は境内を流れる楢(なら・奈良)の小川。 |
|
小倉百人一首の古歌で有名。夏越祓式を重ねて詠んだ歌で、篝火(かがりび)の炎が揺らぐ 川面に氏子らが人形(ひとがた)を流し、 半年間の罪を清める。 |
北神饌所(庁屋)重文 往古の神饌調達所、中古政庁として兼用した。 競場会神事に又、能舞台としても使用する。寛永5年(1628)造替。 |
渉渓園(しょうけいえん) 500坪の面積。賀茂曲水宴開催の地。毎年4月賀茂曲水宴が斉行される。 葵祭り(5月15日)が開かれる日、渉渓園を散策できる。また、庭園の舞台では平安時代の女性芸能者・白拍子の舞が披露される。 |
土屋(重文) 往古より神主以下社司の著利殿。 現今は祓所として用う。 寛永5年(1628)造営 |
楠橋(長寿橋) |
第一摂社 片岡社 | |
紫式部が度々参拝したとされる。 縁結び、子授けの神様。 「ほととぎす 声まつほどは片岡の 社のしずくに たちやぬれまし」 紫式部が参詣したときに詠んだ和歌。 |
鞭打の桜 5月1日・5日の賀茂競馬(かもくらべうま)の時、 この桜を目印に鞭を打つ。 |
馬出の桜 5月1日・5日の賀茂競馬(かもくらべうま)の時、 二頭の馬がこの桜を目印に発送する。 |
走馬の儀 「そうめ」、「はしりうま」とも呼ばれる。 5月15日の葵祭の日に、一の鳥居から二の鳥居までの100m程を またがって疾走する。 最高速度は70km程。 神に、馬が走る姿を見せるのが祭りの始まりといわれ、平安以前に始まったとされる。 6世紀に凶作が続き、朝廷で占うと賀茂の神のたたりとわかった。 そこで、若者に猪の仮面をかぶらせ、鈴をつけた馬に乗せて走らせたところ、五穀豊穣に恵まれた。 これが今日まで伝わる葵祭の始まりとされる。 平安初期に斎王の制度が始まると、宮廷文化と結びついた華やかな行列の方が注目されるようになった。 しかし、元々は荒々しい面のある神事である。 鎌倉期に斎王が廃れ、応仁の乱の後に行列が中断されても、徳川の世には復興された。 |
楽屋(がくのや・重文) 神仏習合時代供僧万の用いたもの一切 経楽屋ともいう。 寛永5年(1628)造替。 |
舞殿(橋殿・重文) 往古より神主以下社司の著到殿(ちゃくとうでん) 現今は祓所として用いる。 寛永5年(1628)造替。 |
「上賀茂神社の祭神は、玉依姫が今、上賀茂神社の境内を流れている御手洗川(瀬見の小川禊の泉)で 川遊びをしていると、川上から白羽の矢一本流れてきた。 これを持ち帰って床に挿して置いたところ、遂に感じて男子を生む。 のち男児天にむかって祭りをなし屋根を穿って天に昇る。別雷神とたたえ、祀る神社を賀茂別雷神社という。 京都でも最も古い神社の一つで、五穀豊穣の神の雷神を祭ることから農民の信仰を集めた。 謡曲「賀茂」はこの縁起を叙べて、五穀豊穣国土守護の紳徳を讃へた曲である。 弘仁元年(810)には斉院の制が施され、歴代皇女が斎院となったこともある。」 京都謡曲史跡保存会 謡曲⇒⇒⇒ |
源氏物語の作者・紫式部も度々参拝したと伝えられている。 |
北大路魯迅(1883〜1959)は上賀茂神社に代々仕えてきた社家に生まれた。 書家であり、篆刻家、陶芸家、漆芸家、画家、料理家であり美食家であった。 |
西の鳥居 |
御手洗川 | さざれ石 |
御手洗川 君がため御手洗川を若水に むすぶや千代の初めなるらむ (後撰和歌集) 土用の丑の日にこの御手洗川に足を浸し疫病や病い封じを祈願して賑わう「足づけ神事」や
輪椅(そりはし)と光琳の梅 尾形光琳(1658〜1719))がこのあたりを描いたのが「紅白梅図屏風(国宝)」である。 |
|
国歌「君が代」に
うたわれた「さざれ石」とは、小さな石という意味です。火山の噴火により石灰岩が分離集積 日本各地には,子持ち石とか赤子石など石を神として祀る信仰がたくさんあります。「さざれ石は」は 年とともに成長し、岩となると信じられている神霊宿る石です。「古今和歌集」には私たちの遠い 祖先から信仰してきた生石(いきいし)伝説の「さざれ石詠まれており、国歌の原典となっています。 当神社にも「鴨の七不思議」のなかに「泉川の浮き石」や「御手洗の神石」という伝承と式年 |
夏越大祓式 です。水無月大祓式の後には参拝者も直径約3m の茅の輪くぐりができ、夜には篝火が焚かれた「なら の小川」で半年間の罪や穢れを祓い清める「人形流し」 着約100食)も。当日は境内で上賀茂産の野菜を 販売する「夏越市」も開かれます(16時〜21時)。 |
旧三井家下鴨別邸は、旧財閥で知られる三井家の先祖を祀った顕名霊社への参拝の 休憩所として大正14年(1925)に、三井家10代三井八郎右衛門高棟が建築しました。建築に 当たっては、明治13年(1880)、建築の木屋町別邸の主屋を移築し、あわせて玄関棟を増築し、 以前からあった茶室も修復し、別邸として整備しました。建物は、三階に四方を見渡せる 望楼をもつ開放的な造りや、次の間に円窓を開けた茶室などが特徴です。 旧三井家下鴨別邸は、戦後、旧三井家から国に譲渡され、昭和26年(1951)から長らく 京都家庭裁判所の宿舎として使用されていましたが、明治初期に建設された主屋を中心 として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており、高い 歴史的価値有していることから平成23年(2011)に重要文化財に指定されました。 |
。