京都御所地図
略図から各建物へ |
建礼門(けんれいもん) | |
御所の周囲には灰筋塀と清流の溝をめぐらし、その間に南に建礼門、北に朔平門(さくへい)、東に建春門(日の御門)、 西に宜秋門(ぎしゅう・公家門)を設け、その他西面に清所門(きよどころ)・皇居宮御門がる。) 京都御苑参照⇒⇒⇒ |
|
正面より建礼門を入ったところ(実際には開かない)承明門が見える。 | |
安政2年(1855)に再建された京都御所は、嘉永6年(1853)のペリー来航から、 応3年(1867)の「王政復古の大号令」までの激動期、重要事件の舞台となった。 |
諸大夫の間(しょだいぶのま) | |
正式に参内した者の控えの間で、 身分に応じて異なる部屋に控えた。襖の絵にちなんで、 「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれる。 ⇒⇒⇒ |
最も格の高い「公卿(くぎょう)の間」、 諸侯・所司代の控えの「殿上人(でんじょうびと)の間」、 それ以外の者の控えの「諸大夫(しょだいぶ)の間」の三室からなる。 |
新御車寄(しんみくるまよせ) | |
昇殿を許された者が正式な参内の時の玄関であり、 屋根は桧皮葺で優雅な反りをなしている。 |
|
大正4年(1915)、大正天皇の即位礼に際して、天皇皇后両陛下のための玄関として建てられたものである。 |
承明門 | |
皇居の正殿である紫宸殿は建礼門の正面に南面し、左右から朱塗りの廻廊をめぐらし、承明門(じょうめいもん)を含め7つの門を設けてある。 ⇒⇒⇒ |
回廊 |
紫宸殿(ししんでん) | |
田道間守⇒⇒⇒ | 承明門から紫宸殿、南庭(だんてい)には左近の桜、右近の橘 |
京都御所は、元弘元(1331)光厳天皇(北朝)がここで即位されて以来、 明治2(1869)の東京遷都までの皇居であった。 紫宸殿は御所の中で最も格式の高い正殿であり、即位礼など重要な儀式が執り行われた。 現在の建物は安政2(1855)古制にのっとって造営された。 明治天皇、大正天皇、昭和天皇の即位礼もここで行われた。 |
|
京都御所の正殿。入母屋造り、檜皮葺。 向かって右側(東)に「左近の桜」、左側(西)に「右近の橘」がある。 紫宸殿前面の敷き詰められた白砂の広大な庭は、南庭(だんてい)と呼ばれ、儀式の場所としても使われた。 桜は御所が再建された年に植えられて3代目にあたる。(2009.1現在) 桓武天皇が延暦13年(794)平安遷都の際、橘と対だったのは梅であった。 9世紀半ば仁明天皇の時代に桜に変えられたといわれる。 桜は山桜であるが、一般的に花びらは5枚であるが、ここの桜は6枚のものや7枚のものが交りめずらしいもの。 |
田道間守と天日槍 | 京都御所 | 白峯神宮 |
大覚寺 | 平安神宮 | 仁和寺 |
大覚寺縁起 |
京都御所 | 常照皇寺 | 平安神宮 |
大覚寺 (左近の梅) |
白峯神宮 | 仁和寺 |
大覚寺縁起 |
建春門(けんしゅんもん) |
日の御門ともいわれ、東側にある。 |
春興殿(しゅんこうでん) |
大正4年(1915)、 京都御所で執り行われた大正天皇即位式に合わせて造られた。 式の際、三種の神器の一つ御鏡(みかがみ)を東京から移して 安置する重要な建物だった。 周囲を取り巻く檜皮葺の御殿群と違い、屋根は薄緑の銅葺。 |
蹴鞠の庭(けまりのにわ) |
小御所と御学問所の間の四角い庭を鞠懸(まりかがり)、 また蹴鞠の庭という。 |
御池庭(おいけにわ・重文) | |
小御所まえにある池泉回遊式庭園 | 御池庭にかかる欅橋 |
御学問所(おがくもんじょ・重文) | |
家茂は徳川将軍としては家光以来の上洛を果し、御学問所で孝明天皇と面会した。 孝明天皇は前年に嫁いだ和宮の様子を尋ね、家茂が「元気です」と答えた。 家茂と孝明天皇は慶応2年(1866)に亡くなり、維新の現場には立ち会っていない。 御学問所は親王宣下や御進講、月次の和歌の会などに使われた。 |
御常御殿(おつねごてん) | |
室町時代以降、天皇の日常の生活のばとしてつかわれた御殿で、明治天皇は、東京のお移りになるまでここをお使いになっていた。 京都御所内では最も広い建物で、内部は15室からなっている。 |
宮内庁京都事務所 | |
京都御所参観希望の方は参観係075−211−1215に申込む。 |
猿ケ辻 | |
京都御所の築地塀(ついじべい)の東北の隅を直角に切り込み、軒下に立烏帽子(たてえぼし)をかぶり御幣をかついだ木彫りの猿が飾ってあり、京の鬼門を守る日吉大社の使者とされる。陰陽道では東北の方角が鬼門ですが、猿は鬼門での災いを「さる」ことにちなんだといわれています。 赤山禅院⇒⇒⇒ |
|
京都御所は、築地塀で囲まれた南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万uである。 築地塀の東北の角で、内側に折れ曲がっている。その屋根裏を望むと、烏帽子をかぶり、御幣をかついだ木像の猿が一匹いる。この辺りを「猿ヶ辻」というのはこの猿がいるためである。鬼門を守るため、猿は「鬼が去る」に通じるため、とかいわれる。 また、金網が張ってあるのは、この猿は、御所の鬼門を守るため、日吉山王神社から使わされたものであるが、夜になると逃げ出して通行人に悪さをしたらしい。そこで、金網を張って閉じ込めたという。 |
|
京都御所の誕生 平安遷都のときの内裏は、現在の御所より2kmほど西の方にあった。 その後、内裏の焼失などの理由で、公家の屋敷を仮の内裏としたもの(里内裏)が何度もおかれた。 今の京都御所は、光厳天皇が元弘元年(1331)に東洞院土御門殿を里内裏としたことに始まり、 明徳3年(1392)の南北朝合一によって名実ともにこの地が皇居となった。 中世以降の源頼朝に始まる各時代の権力者(武家)は内裏の修造を行ってきたが、 豊臣秀吉は内裏造営とともに、周辺に皇族や公家の屋敷を集めて「公家町」の原形ができた。 これは徳川幕府にも引き継がれ、1600年代初頭にほぼ事業は完了するが、その後も町の姿は少しずつ変わり続けていく。 |
銅像は京阪三条駅 の近くにある 地図 |
高山彦九郎正之 直筆の歌碑 |
||
江戸時代ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、都の出入口であった。 この銅像は、高山彦九郎正之の姿。 高山彦九郎正之(1747〜1793)は群馬県の出身で、18歳の時から5回上洛したが、 京都に出入りする折には、京都御所に向かっては拝礼した。 明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。 |