春日山原始林地図
春日大社の東に広がる森林で、1998年に春日大社と共に世界遺産に登録された。 春日大社の神域として、841年に木の伐採が禁じられ、手つかずのままの自然が残っている。 世界遺産に登録されたのも人の力で自然が守られたためである。 歩道があり散策出来るが、歩道より立ちいることは禁じられている。例年、11月中旬ごろから紅葉に彩られる。 |
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都を造り、都市を維持するためには、多量の木材が必要なのだが、原始林のまま残した。 遣唐使たちは、あの御蓋山(みかさやま)の月を心に焼き付けて唐土に旅立っていった。 清少納言
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妙見宮へ5丁の石碑 | |||
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春日山滝阪 妙見宮 (日蓮宗 春日山教会) |
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鬼子母神堂 | |||
春日山滝阪 妙見宮 (日蓮宗 春日山教会) |
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春日山滝阪 妙見宮 本堂 (日蓮宗 春日山教会) |
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三本杉跡休憩舎 | |||
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地獄谷園地新池 | |||
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首切地蔵 | 首切地蔵休憩舎 | ||
荒木又衛門がためし斬りしたと伝えられる。 彫刻の手法から鎌倉時代の作と思われている。谷川ぞいに登ってきたこの道は滝坂道と呼ばれ、 江戸中期に奈良奉行により敷かれた石畳の道は、昭和のはじめまで柳生方面から奈良へ米や 薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰っていくのにつかわれた。 |
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高山神社 | |||
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芳山交番所 | |||
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大原橋休憩舎 | 世界遺産 春日山原始林の碑 |
花山川にかかる大原橋 | |
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興福寺別院鶯滝歓喜天の碑 | |||
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鶯(うぐいす)の滝 | |||
佐保川の源流にあたる高さ10mほどの滝。 地獄谷と相対して新緑や納涼また紅葉の名所として知られている。 やまとの水としても選定されている。水は花山川を下る。 |
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若草山の頂上に築造されたほぼ南面の前方後円墳で、 全長103m前方部幅50m、 後円部径61mの規模である。 二段築造の墳丘には葺石や埴輪がある。埋葬施設は明らかでないが、 以前に前方部西南隅で石製斧や内行花文鏡等が出土している。 古墳の周辺には陪塚とかんがえられる円墳や方墳が三基確認できる。 4世紀末に丘陵頂部に築造された典型的な前期古墳である。 清少納言の「枕草子」に記されているううぐいすの陵がこれといわれ、 古墳の名もこれからきている。 左の写真は、前方後円墳の後円の位置に立ち前方を見ている。 孝徳天皇⇒⇒⇒ 竹内街道⇒⇒⇒ |
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日にちによるが、若草山に入山できる時には料金を支払い一気に頂上から 東大寺などを眺めながら、駆け下りることができる。 |
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右に階段があるが、若草山の芝の感触を楽しみながら下る事ができる。 まもなく出口に差し掛かる。 |
春日山石窟仏(穴仏) | ||
春日原始林(世界遺産) 御蓋山(284m)東の花山(497m)芳山も含め、春日大社背後の山を総称して春日山という。 平城京の昔から都人に散策の地として親しまれてきた山で、古歌にも数多く歌われている。 仁明天皇の承和8年(842)以来、春日大社の神域として狩猟伐採が禁じられてきたため原始林となり、 国の天然記念物に指定されている。 |
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滝坂の道 春日山と高円山の間の谷川沿いに奈良の街と柳生を結ぶ近道として開かれた道で、柳生街道とも呼ばれる。 昔は人の往来も多かったが、今は通る人もほとんどなく忘れられようとしている道である。 江戸時代初期、当時の奈良奉行がつくらせたという石畳の道が今も残り、また朝日観音、夕日観音、 春日山石窟仏(穴仏)、首切地蔵等石仏の宝庫でもあり、東海自然歩道になっている。 |
朝日観音 | 春日石窟仏の碑 | 春日山石窟仏 | 春日山石窟仏 |
朝日観音 早朝高円山の頂きからさし昇る朝日に真っ先に照らされることから名づけられたもので、実際には観音ではなく中央は弥勒仏、 左右は地蔵仏です。 この石像には文永2年(1265)の銘があり、鎌倉時代の彫刻の代表的なもので、夕日観音と同じ作者と思われる。 春日山の朝日観音⇒⇒⇒ |
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春日山石窟仏 この石仏は、東大寺大仏殿を建てるために石材を堀り取った跡に彫られたものである。 石仏は全部で18体あるが、左右の2つの洞窟にわかれている。1つは地蔵尊を中心としたもので、もう1つは大日如来と阿弥陀如来を 中心のしたものである。 正面左側の洞窟は、久寿2年(1155)の銘があり、平安時代の作である。しかし、これらの石仏を誰が彫ったのかは明らかでない。 大乗院の一僧(山伏)が岩窟に起居して彫刻したものといわれている。また、大仏殿を建てるとき、石材を堀り取った跡に石工が 彫刻したものともいわれている。 |
地獄谷石窟仏(聖人窟) 年代 奈良時代後期(藤原時代)−推定 作者 不詳 凝灰岩層をくり抜いた石窟で側面に仏像が線刻されている。聖(ひじり)が住んでいたという伝承があり、聖人窟ともよばれる。 向かって右側壁 妙見菩薩坐像 奥壁右 十一面観音 中央 廬舎那仏 左 薬師如来 弥勒仏は石仏で作られることから、中央廬舎那仏は弥勒仏という説がる。今も色彩などが残っている。 |
やまと百景 2014 秋号 天理参考館顧問 近江昌司 一、三尊磨崖仏 戦後間もなく県観光課主催の史蹟臨地講座な るものが毎月催されていて、あるとき郷土史家. 高田十郎先生が講師で春日山の石仏を見学する 機会を得た、初めて朝日観音にまみえて以来、 周辺のたたずまいとともに好きな石のほとけさ まである。 春日山の滝坂道から苔むした石畳みの山道を 登っていくと、清流の流れる川の上に突き出た 五メートル余の岸壁の東面に石仏が三体並んで 刻まれている、いわゆる磨崖仏に属するが雄大 豪壮とはほど遠く、旅人にやさしくほほ笑みか けるような瀟洒な趣きがあるし朝日が上ると像 が照り映えるところからこの名があるという。 中尊は高さ二・三メートル、やや薄めの厚肉 彫りの如来仏で、肩幅広く逞しい体躯に見え る、蓮華座の上に立ち、右手は下げて与願を結 び、左手は胸の前で施無畏の印相、胸には吉祥 の卍、丸い頭光背(二重と言われるが私にはそ うは見えない)やや笑みを含んだように見える 面相は、拝する者に語りかけるようである。衣 紋は流麗なひだ襞をとり、殊に腕の辺は緻密で ある、やや大きめの足首以下を左右に広げるの は他にも例があるが当像にはちょっと似あわな いようだ、いや磨崖仏には此の方が雄偉に見え て好いという方もおられようか。 左右には地蔵菩薩像(僧形)が彫り出されて いる、中尊よりは小さく、一 ・三メートルほどで もあろうか、左側の像は中尊に似た彫法の厚肉 彫で、衣紋も精微な表現で顔の目鼻立ちも中尊 と同じく端正である、右手に錫杖をもち(苔む した岩肌で杖部は認めにくい、川勝政太郎先生 が錫杖を持たない古い形式と見られた〔大和の 石造美術〕のはそのためであろう、丸い錫杖頭 が見える)、左手に宝珠をもつ地蔵菩薩に通有 な姿形である。右側の地蔵菩薩像(僧形)は舟 形(光背)に彫りくぼめたなかに、やや粗い彫 法ながら矢田寺式の地蔵が表されている。三像 の位置関係を見ると中尊と左の像はあたかも主 従のように見えるが、右の像は頭を中尊にそろ えている上に、舟形光背が中尊の光背に接して いて一見不自然である、一体この三像はどのよ うな関係にあるのだろうか。 二、弥勒と地蔵 この三尊を紹介された西村貞氏は、中尊を釈 迦如来、左右を仏弟子(羅漢)のように見られ て、聖地霊鷲山に擬した春日山を背景に釈迦説 法図にもとづく製作を考えられた(「南都石仏 巡礼」。「奈良の石仏」では後述のように訂正さ れている)。あるいは別に「釈迦(弥勒) 二仏像」 とした書物もあった。 おそらくは著名な山城国笠置寺本尊の磨崖 仏は、元弘変に焼失し、現在は彫りくぼめた光 背の痕跡が認められるに過ぎないが、原形を伝 える大和文華館所蔵の笠置寺曼陀羅図に見る本 尊弥勒菩薩の両脇には、夾侍の声聞像が描かれ ていることなどが参考になったのではあるまいか。 ところで三尊の彫法・,様式や右側像の窮屈な 配置の状況からすれば、右側像は明らかに他の 二像と異なり、少し遅れた追刻であろうと見ら れる。 そして中尊と左の地蔵の両脇に刻まれた銘文 があり、昭和四年件の高田十郎先生が解読され た(史述と美術11九号)。その後の調査成果 (四、五行目は奈良県史による)を加えると次の ようである。 「于時文永貳年乙丑十二月日大施主性勘敬白」 (中尊如来立像) 「願以此力 悲母尊霊 離苦得業発菩提心」 及以□□ 上生内院 普□四生平等利益 「南無当来導師悔怛隷耶仏 南無六道経法地蔵菩薩 于時文永貳年乙丑十二月日大施主性勘 敬白」 (地蔵立像) 文意は文永二年(1265)十二月に僧性勘 が亡母の尊霊が苦しみを逃れ得業し、菩提の道 に入り、とそつてん兜率天浄土のじょうせいな いいん上生内院に往生することを願い、六道の 地蔵菩薩の導きによって叶うようにと、この像 を造るとある。釈迦・阿弥陀・薬師・弥勒は東 南北にそれぞれ浄土が存在する、なかで弥勒 如来の浄土は北方「兜率天浄土」といい、その 内院に上生することを願ったのである、されば この中尊は弥勒如来、左像は地蔵菩薩というこ とが判明した。 一体釈迦の入滅から五十六億七千万年経る と、第二の釈迦として弥勒が現れてこの世の救 済をする、その間弥勒は己が浄土で如来になる べく菩薩として修行している、いわゆる未来仏 である。そして釈迦なきあと人々を救済しなが ら弥勒菩薩の修行を導き案内するのが地蔵菩薩 である。それが主題の弥勒と地蔵を並べて表現 する所以である。 大和では中央に釈迦如来を左右に弥勒菩薩と 地蔵を配した中近世の三尊石仏が散見されるの も、同じような信仰形態が流布していたのであろう。 |