竹之内街道
中高野街道 大阪には、古くから高野詣の三つの道すじがありました。 その中程に位置する「中高野街道」は、大阪市平野区から南 へのびて、松原市を経て大阪狭山市で下高野街道、河内長野市 で西高野街道と合流します。 昔より、それらの道は人々の往来、物資の運搬、また、参詣 道としても利用されてきましたやがて平安時代に入ると貴族 階級の高野詣が始まり、鎌倉時代には武士階級へと、近世には 庶民階級まで広がり、高野山参詣道として栄えました。 |
葛城市1400年を迎える古道の道 竹内街道より |
竹内街道は、堺市から東進し二上山の竹内を越えて奈良県橿原市に 至る古代以来の街道である。推古天皇紀21年の条に難波から大和の 小墾田宮に官道が開かれたとあり、近年大和川今池遺跡で難波大道遺構 の、約18mの道路幅が確認された。 この道によって古代の大陸文化が導入された。中世末期に堺が自由都 市として繁栄したため交易や鉄砲などの製造で人々が行き交い、近世 以降は伊勢詣りでにぎわった。 |
竹内街道いまむかし 奈良県と大阪府を結ぶこの竹内街道の始まりは推古天皇 二十一(六一i三).年に飛鳥の京と難波の港を結ぶ道として 「大道」が設置されたことにさかのぼります。大阪府堺市か 'ら葛城市長尾神社までの約二十六キロの「竹内街道」、さら に道は東へ延び、「横大路」と名前をかえて続きます。 この道のりは、古代の国道第一号と呼ばれ国家を代表する 遒であり、一四00年もの時の中で、いつの時代において も 、この街道が大和の西の玄関口として人々が行き交い まちとまち、人と人をつないできました。 平成二十五(二0一三)年敷設一四00年の節目に沿線 自治体が参集し、「竹内街道・横大路(大道)活性化実行 委員会」を立ち上げまし。たこの「緑の一里塚」は、かつ て街道を行き交う古の旅人が一里塚を目印に街道を一歩一 歩踏みしめ進んだ原風景を現代によみがえらせ、地域の人 々と一緒にみどりを通じて街道の持つ魅力を高めていくた めの道しるべとして(公財)国際花ど緑の博覧会記念協会 の協力を得て整備したものです。
葛城市観光協会 葛城市 |
地図 |
南 | ||
東 | 西 | |
北 |
磐城駅 ⇒⇒⇒ |
長尾神社 ⇒⇒⇒ |
綿弓塚 ⇒⇒⇒ |
当麻寺 ⇒⇒⇒ |
石光寺 ⇒⇒⇒ |
二上山 ⇒⇒⇒ |
鹿谷寺跡 ⇒⇒⇒ |
孝徳天皇 ⇒⇒⇒ |
推古天皇 ⇒⇒⇒ |
用明天皇 ⇒⇒⇒ |
叡福寺 ⇒⇒⇒ |
上ノ太子駅 ⇒⇒⇒ |
飛鳥時代、葛城から山一つ越えた河内は、渡来族の多く住む渡来帰化人の故郷であった。 欽明天皇14年(553)、蘇我稲目が勅を奉じて王辰爾(おうじんに)を難波の津へ派遣し、 船の賦(みつぎ)を数え録(しる)す。即ち王辰爾を以て船長(ふねのつかさ)とす。因りて姓(かばね) を賜ひて船史(ふねのふびと)とす。 船氏はこの時以来、蘇我氏と強く結びつき、海上交通を支配した。蘇我氏に強大な富をもたらした のは、海上交通の掌握、貿易の利であった。 |
海外への津は難波――淀川河口であった。推古天皇は飛鳥の朝廷と難波の津を直結する大道を 建設した。この時の摂政は聖徳太子であり、大臣(おおおみ)は蘇我馬子であった。 半島・大陸に直結する大道は蘇我氏が建設を推進し、河内の船氏が船を統括して文化と先進技術 を盛んに移入した。 |
大道は飛鳥から竹内を経て葛城山と二上山の間、竹内峠を越え、磯長谷(しなが)へ入り河内飛鳥 から古市に至る。古市から西行し、北へ折れて難波津へ達する。 河内飛鳥を近つ飛鳥、大和の飛鳥を遠つ飛鳥と呼ぶ。 遠近飛鳥の比較⇒⇒⇒ |
竹内街道
推古天皇二十一年 (六一三)に、難波と飛鳥京の間 におかれだこの街道は、飛鳥時代に我が国最初の官道 ,として栄え 大陸からの文物在を大和飛鳥にもだらしま した。峠の東北にある万歳 城などの中世の城塁址は このあだりを駆けめっぐた大和武士だちの夢を偲ばせ ています。中・近世には,伊勢・長谷参詣が隆盛し、 茶茶屋・旅籠が峠を行く人々の旅情を慰めましだ。竹内 街道の風景には多くの文化人たちが筆をとり、貞享五 年に松尾芭蕉が河内に向かい、幕末嘉永六年に吉田松 陰が竹内峠を経て儒者を訪ね、文久三年には天誅組の 中山忠光等七名が志果たせぬままここに逃走しています。 |
二上山の南に竹之内峠がある。ここに古代から河内と大和を結ぶ道が通じ、竹之内街道と呼ばれていた。 「日本書紀」の推古記に「廿一年冬十一月、難波(なにわ)(注)より京(みやこ)に至るまで大道(おおみち)を置く」と記された。 文献にあらわれた最初の官道で、7世紀はじめに、大陸との交渉がしげくなり、相次ぐ使節、渡来者、朝貢者などを 難波の港から大和飛鳥の都に迎えるためだった。そのあとはいまもはっきり残っていて、堺市役所から羽曳野市古市に出て、 河内の飛鳥川に沿って峠へのぼり、竹之内集落をへて大和高田市に出る。行程約30km、沿道には仁徳天皇陵、反正天皇陵、 野中寺、仁賢天皇陵、清寧天皇陵、日本武尊、来目皇子墓と古代遺跡がつづき、叡福寺につく。聖徳太子の廟所である。 そこからの道は大道(だいどう)、山田へとのぼりになる。 山田は古代磯長(しなが)とよばれた一部で、推古天皇陵、孝徳天皇陵、用明天皇陵、遣隋使・小野妹子の墓が密集している。 孝徳天皇陵は「枕草子」に「みささぎはうぐいす」と推賞されたところである。 6世紀後半から7世紀にかけて、大和勢力は仏教をめぐって対立した。 賛成派の蘇我氏はこの磯長をはじめ二上山東西の穀倉を占めていたので、聖徳太子はこれと結んで、この街道から大陸文化を導入した。 |
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峠を越えると竹之内。急斜面の街道に沿ってひらけた古い村で、みぞを流れる水が澄んでさわやかな音を立てる。 芭蕉の門人千里(ちり)の家のあったところなので、芭蕉も6回ここを訪ね、綿弓塚が残っている。 「綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥 芭蕉」 注)今の竹内街道をいうか。河内丹比方面から東進して古市に至り、石川を渡り、竹内峠を経て、大和の当麻・飛鳥に至るもの。 |
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枕草子 十九段 「みささぎは うぐいすのみささぎ。 かしはぎのみささぎ。あめのみささぎ。」 うぐいすのみささぎ:河内国南河内郡、孝徳天皇の大坂磯長陵の別名か。 かしはぎのみささぎ:未詳。能因本「かしは原のみささぎ」。その本文によれば、桓武天皇陵か。 あめのみささぎ:未詳。雨または天の名の興味であろう。天智天皇或いは聖武天皇陵か。 日本古典文学大系19 より |
日本最古の官道は、現在の竹内街道(堺市〜葛城市)から横大路(葛城市〜桜井市)に通 じていた。 日本書紀には難波より京(みやこ・明日香村(小墾・おはりだ))に至る大道(おおじ)を置くと 記されている。) |
堺から河内平野を抜けて二上山を過ぎ、橿原から飛鳥、吉野・宇陀、そして伊勢まで通じ るルートは、竹内街道、初瀬街道、伊勢街道などの古代の大動脈であった。 大阪平野には初瀬川、佐保川などを源流とする大和川が流れている。 |
竹之内街道 〈私の場合、火山が造った山河よりも、そうでないほうがいい。 都市よりも田園がいい。 それは母親の実家があって幼少期を過ごした集落の風景だったのだが、ただの集落で はなかった。日本最古の官道(国道)で平成29年、日本遺産に認定された「竹内街道・ もう少し司馬さんの言葉を借りると、万葉集にも歌われた二上山や葛城山(いずれも大阪 「もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾ー竹内間の ところで、一度聞いただけではなかなか覚えられそうにない長い名前のその道とはいった まず、日本で最初の国道という根拠については、これも最古の勅撰正史『日本書紀』にあ 「京」とは当時の都、飛鳥(奈良県)のこと。 ルートを簡単に説明すると諸説あるが、起点 そこから南へ下って、太子が建てたという四天王寺の横を通り、仁徳天皇陵や貿易都 市として栄えた堺を経て東に向きを変え、太子御廟がある山を越えて奈良に入り、三輪山 それは俯瞰(ふかん)すれば1本の道で、実際には難波大道〜竹内街道〜横大路〜上ツ おもしろいのは、官道となってからでも1400年以上、使われ続けていることだ。古代には ーーー 不思議なことに、春分と秋分の日の年2回、太陽は三輪山の山頂に昇り、二上山を越えて 「日出づる国」日本はこの道から始まったのである。 |
司馬遼太郎 街道をゆく 竹内⇒⇒⇒ |
県や大阪府などが申請していた「1400年に渡る悠久の歴史を伝える『最古 の国道』〜竹内街道・横大路(大道) 〜」が28日、文化庁の日本遺産に認定さ 申請していたのは県、大阪府と、葛城、大和高田、橿原、桜井の各市と明日香 村、大阪府の大阪、堺、松原、羽曳野の各市と太子町の10市町村。竹内街道は堺 市から葛城市に至る道で、横大路はその先の桜井市までの道だ。東西に敷設され た「大道(竹内街道、横大路) 」は2013年に1400年を迎えた日本遺産は地域の歴史的 魅力や文化・伝統をストーリーとして認定する。今回は「幅20 mを超える大道 は、古代には使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝えた。 近世には伊勢参りの宿場町としてにぎわいを見せ、1400年の歴史の移り変わ りを感じさせる」というストーリーだ。 いまも宿場町を感じさせる景観や松尾芭蕉の句碑などが残り、ウォーキングを 楽しむ人も多い。 日本遺産は地域にある文化財などを活用し、活性化につなげるのがねらい。 (松永和彦) |
文化庁は28日、3回目の選定となる「日本遺産」に、「和装文化の足元を支え続 ける足袋蔵のまち行田」や「忍びの里伊賀・甲賀」「日が沈む聖地出雲」、「関門 ,ノスタルジック4海峡」など23道府県( 59市町村)の17件を新たに認定し、発表し た。今回を含めると認定数は計54件。文化庁は東京五輪・パラリンピックのある 2020年度までに100件程度まで増やす方針だ。 日本遺産は有形・無形の文化財を活用して地域の活性化を図る狙いで、15年 度に開始。調査研究や解説板の設置のため、1件あたり平均約4千万円弱の補助 金が出るという 43都道府県(288市町村)から計79件の申請があり、8人の有 識者による審査委員会が選んだ。今回初めて認定された所在地は北海道、青森、秋 田 、愛知、大阪、山口の7道府県。北前船の寄港地(7道県)、常滑や備前、丹 波など日本古来の陶磁器窯「六古窯(ろっこよう)」(5県)といった、 ■2017年度認定の日本遺産江差の五月は江戸にもないーシン繁栄が息づく町 (北海道) |荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間〜北前船寄港地,船主集落〜 (山形県・北海道・青森県・秋田県・新潟県・石川県・福井県) サムライゆかりのシルク 日本近代化の原風景に出会うまち鶴岡へ(山形県) 和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田 (埼玉県) 忍びの里 伊賀・甲賀-リアル忍者を求めて (滋賀県・三重県) 300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊 (京都府) 1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」〜竹内街道・横大路(大道) (大阪府・奈良県) 播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道〜資源大国日本の記憶をたどる78kmの轍(わだち) (兵庫県) 絶景の宝庫和歌の浦 (和歌山県) 「最初の一滴」?油(しょうゆ)醸造の発祥の地紀州湯浅 (和歌山県) 日が沈む聖地出雲〜神が創り出した地の夕日を巡る〜 (島根県) 一輪の綿花から始まる倉敷物語〜和と洋が織りなす繊維のまち〜 (岡山県) きっと恋する六古窯-日本生まれ日本育ちのやきもの産地 (岡山県・福井県・愛知県・滋賀県・兵庫県) 森林鉄道から日本一のゆずロードへーゆずが香り彩る南国土佐・中芸地域の 景観と食文化(高知県) 関門”ツスタルジック”海峡〜時の停車場近代化の記憶~ (福岡県・山口県) 米作り、二千年にわたる大地の記憶〜菊池川流域「今昔『水稲』物語」〜 (熊本県) やばけい遊覧〜大地に描いた山水絵巻の道をゆく〜 (大分県) |