二条城地図
年表 |
東大手門(重文) | 東南澄櫓(重文) |
慶長8年(1603)に江戸幕府初代将軍徳川家康が築いた城である。 寛永3年(1626)、3代将軍家光の時に後水尾天皇を迎えるため大 規模な拡張を行なった。慶応3年(1867)には15代将軍慶喜が政権を 天皇に返上する「大政奉還」を決意した歴史的な場所である。明治 17年(1884)からは皇室の別邸として利用され、昭和14年(1939)に 京都市がゆずり受け現在に至っている。平成6年(1994)にユネスコ により「古都京都の文化財」の一つとして、世界文化遺産に登録さ れている。 京都市 |
二条城全景 中央:本丸御殿、本丸庭園 手前左:二の丸御殿、庭園 右側:清流園、緑の薗 |
二の丸御殿唐門(重文) | 唐門を通り御殿内側から | |||
二の丸御殿の正面に立つ唐門、切妻造、桧皮葺の四脚門で、豪華な彫刻がほどこされている。 二の丸御殿は6つの建物から構成された3300uの空間で、畳は800以上、絵画は3千余ある。 二条城は慶長8年(1603)徳川家康の命により造営された。 京都御所の守護と将軍が上洛の時は居城であると同時に、政治軍事の中心として重要なものであった。 家光が伏見城の遺を移すなどして寛永3年(1626)に完成した。 |
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徳川家康と豊臣秀頼との二条城会見は歴史に名高く、このほか徳川家光の将軍宣下、寛永3年(1626)に後水尾天皇の行幸。 | ||||
家康が造った二条城が日本史に対して果たした役割は、江戸幕府を始めたことと江戸幕府を終わらせた。 | ||||
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車寄 | ||||
大政奉還の舞台となった二の丸御殿(国宝)。元の建物は焼失したが、今は旧桂宮御殿を移転させた建物が残る。 徳川幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還、その重大な決断を15代将軍慶喜が諸般の重臣に伝えた。 二の丸御殿の大広間。慶応3年(1867)10月13日、50人がここに集まった。 大政奉還 慶應3年10月13日徳川慶喜が二条城の二の丸御殿大広間に、在京40潘の重臣を集め、政権を朝廷に返す意思を伝えた。 翌14日に朝廷に文書を奉り、15日に成立した。 |
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建物面積3300u、部屋数33。その中心に位置する大広間で、慶応3年(1867)15代将軍徳川慶喜は居並ぶ諸藩の重役らを前に、 大政を奉還を上表した。 幕府と、薩摩藩など雄藩の緊張関係は限界に来ていたが、大政奉還が緊張関係を和らげ、国家的騒乱状態を避ける事が出来た。 明治維新の犠牲者は数万人とされるが、ロシア革命やフランス革命などと比べ、流血の度合いは桁違いに少なくて済んだ。 |
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松鷹図 二の丸御殿にある大広間四の間にある障壁画で、二条城の障壁画のなかでも最も有名(重文)。 |
二の丸庭園 |
城郭の築山泉水庭として優れたもので、大広間から鑑賞することができる。 もとは行幸に対した庭園であったが、その後行幸殿が取り壊され、改造されたものであるという。 池の中には蓬莱島・鶴島・亀島があり、池の西南端に滝組(たきぐみ)があり、池畔には豪華な石組みが配置されている。 庭園の西部には松・かや・あらがし・しい・とべら・むく・桜・もみじがあり、南部には芝生があり多くの松が植えてある。 この庭は小堀遠州の作といい、俗に八陣の庭ともいわれる。 |
内堀の上にかかる東橋を通り、本丸の櫓門から入る。 |
二条城は慶長8年(1603)徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626)完成した。 1634家光が江戸から大軍を率いてやってきてから200年以上ずっと使っていなかった。40〜50人の二条在番と呼ばれる留守番がいただけだった。 豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康がたてた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが統合されて、桃山時代様式の全貌をみることができる。 15代将軍慶喜の大政奉還(1867)により、二条城は、朝廷のものとなり、ついで明治17年(1884)離宮となり、昭和14年(1939)京都市に下賜され現在に至っている。 |
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規模が広壮で東西500m、南北300m周囲に濠をめぐらし、石塁を設けてある。 もとは本丸に天守閣があったが焼失し、今はわずか二の丸の殿舎に昔のおもかげをとどめている。 |
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内堀、左は本丸。 |
二条城の入口桝形 | 櫓門を通り、本丸内に入る。 |
本丸庭園 | この西南遇には、 天守台があり昔は五層の天守閣が聳えていた。 天守台跡より内堀を東に向かって望む。 |
本丸西門 |
本丸御殿(重文)・玄関 | 本丸御殿(重文)・御常御殿 |
本丸御殿の公式出入り口で、中央に車寄を付けている。 屋根は唐破風造り銅板葺(元はこけら葺)、牛車の使用のため、 正面のみ開けていたが、移築の際左・右の壁を取り去り柱を東に寄せ、 馬車の通行が出来るように変更された。 この本丸は寛政3年(1791)落雷のため、 天守閣が焼けてから荒れはてていたが、 明治26年に京都御所内にあった桂宮家の御殿を本丸跡に 移して建てた。 公家風のしょうしゃな建物である。 |
御常御殿は三階建てになっているが、日常生活に使用されていた部屋である。 本丸御殿には、その他「御書院」・「台所及び雁の間」の建物があり、 廊下でつながっている。 この旧桂宮御殿は京都御所にあった当時、仁孝天皇の皇女和宮が 14代将軍家茂に嫁がれる前に、お住まいになられたゆかりの建物で、 嘉永7年(1854)内裏が炎上した時も延焼を免れ、 孝明天皇の仮皇居に使用されたたてものである。 桂宮邸の今出川屋敷として建てられた時は、 棟数55の大建築で、移築にあたりすべての建物が移されたのではなく、 建物の主要部分にあたる玄関・御書院・台所及び雁の間・御常御殿、 の4棟が移築された。 |
代表的なソメイヨシノや、東大手門そばには寒緋桜、桜の園では里桜、清流園では山桜・枝垂桜が時期や場所によって異なるさまざまな品種の桜が楽しめる。 |
城内 |
本丸御殿[重要文化財]. 内堀に囲まれた広さ20,000mの本丸にある「本丸御殿」 |
東大手門[重要文化財] 二条城の正門にあたり、現存の門は1662年(寛文2年) 頃の建築と考えられています。築城当時は現在のよう に櫓門(2階建て)でしたが、寛永の二条城行幸時には |
東南隅櫓[重要文化財] 二条城の外堀の四隅は、見張り台としての隅櫓が建て られ、普段は武器庫として使われていました。1788年 |
二の丸御殿[国宝] 東南から北西にかけて、遠侍、 式台、 大広間、蘇鉄 |
本丸庭園 本丸御殿の南側の「本丸庭園」は、 明治天皇の行幸 の際に、枯山水庭園から大改造した庭園です。東南隅 に築山を配し、 芝生を敷き詰めて曲線的な園路を設け た優美な造りが四季折々の風情を感じさせてくれます。 |
清流園 京都の豪商・角倉家の屋敷跡から建築部材、庭石、 樹木を譲り受け、1965年(昭和40年)に作庭しました。 |
天守閣跡 本丸の南西隅には、かつて伏見城から移された五重 六階の天守閣がありましたが、1750年(寛延3年)に 落雷により焼失しました。 その後は再建されることなく、現在は石垣だけが残され とができます。 |
南門 大正4年(1915年)、京都御所の紫衰殿で、大正 の即位の儀式が行われ、 その後の響宴が二条城で開 かれました。この一連の行事のことを います。饗宴には皇室関係者、各 臣が招かれ、当時、 天皇の別荘 二条城で、新たな天皇の た。響宴のために 後に移築ま います。 |
二の丸御殿(国宝) |
大広間 -の間 二の間 将軍と大名や公卿衆との公式の対面所です。 大広間の主 室であり、一の間(上段の間)、ニの間(下段の間)からなりま |
黒書院 江戸時代の名称は「小広間」で、大広間に次ぐ公式の場で す。将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などが対面し た松の枝に加え、梅の花や散りゆく桜を交えることで、季 節の流れを感じさせます。襖絵は探幽の弟・尚信筆です。 |
白書院 江戸時代には「御座の間」と呼ばれることから、将軍の居 空間は他の棟と趣が異なり、落ち着いた印象をあたえま す。中国由来の題材が選ばれ、一の間と二の間は名勝・西 湖が、三の間には伝説や歴史上の人物が描かれています。 |
大広間 四の間 将軍の上洛のときに武器をおさめた場所といわれてい ます。障壁画の「松鷹図」は、二の丸御殿の中でも最も有 名なもので、桃山時代の様式を取り入れた巨大な松と 勇壮な鷹が描かれています。 |
式台 老中の間 3部屋からなり、老中が控えていた部屋です。一の間と ニの間は「芦雁図」で、三の間は「柳鷲図」です。長押上は 白壁のままで質素な造りです。 |
遠侍 勅使の間 遠侍の部屋の一っで、朝廷からの使者(勅使)を迎えた対 面所とされています。 障壁画には、優美な檜や青楓などが |
遠侍 柳の間 障壁画は、「勅使の間」や隣接する「若松の間」や「美蓉の 間」と同様に植物を題材としており、公家向けの趣を持って |