内山永久寺跡地図
池は後醍醐天皇が吉野に向う途中、一時この寺に立ち寄られた。 しかし追手の軍は思いのほか早かった。北朝の足利尊氏についた赤松円心の率いる 怒涛のような人馬の音が石上神宮前に殺到した。永久寺では異常に気が付いた主従 はもうこれまでとあきらめた。このとき突然、馬がいななこうとした危機一髪、 馬の首が切り落とされた。こうして危機が去った。 馬の首は池に沈み、やがて草を食う魚が泳ぐようにになった。 その首が馬魚(正式名はワタカ)になったという伝説の池。 |
永久2年(1114)鳥羽天皇の勅願により、興福寺大乗院頼実が創建した寺。 京都の公卿との交流も深く、中世に最も栄えた。豊臣秀吉はら971石の寺領を与えられ、法隆寺の1000石に匹敵する大寺であった。 境内は5町四方の広大な地域をしめ、坊舎52坊を有していた。 寺名は創建された年号に由来する。 寺領と多くの寺坊を有し、関西の日光といわれるほどの堂塔の美観を誇っていたが、明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、 今は、後醐醍天皇が吉野に遷幸の途中一時立ち寄られた萱(かや)の御所跡(その時の仮の行宮・あんぐう)と本堂池だけが残っている。 鎮守社の拝殿を、大正3年に石上神宮の摂社出雲建雄神社の拝殿として移建された。 東の奥まった平地に阿弥陀如来を祀る本堂と、大日如来を祀る真言堂、釈迦・薬師・弥陀・弥勒を祀る多宝塔、観音堂、御影堂など主要な伽藍が配置された。
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亮恵上人は興福寺の僧であるが、真言の寺として発展した。 鎌倉時代に堂塔の建立が相次ぎ、江戸期は寺領971石、52の堂があり、西の日光とも称された。だが廃仏毀釈のため明治7年(1874年)廃寺となった。 現在は水田や山林に帰し、往時の面影は全くない。 |
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この寺に掲げられていた扁額が天理市の寺と関係のある旧家で見つかった。 扁額は檜製とみられ、高さ約84cm、幅約43cm。同寺の院号「金剛乗院」の4文字が記されている。鎌倉時代の書家、藤原教家(のりいえ)が宝治元年(1247)に書いたものという。 |
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明治時代の上知令の寺社 龍福寺・永久寺は明治7年(1874)に廃寺となる。永久寺の堂塔伽藍・諸具は入札で売却、取り払われる。永久寺の約7町歩の境内地のうち、宅地(2町2反余)は旧僧侶の居住地として半額払下げ、畑(1町9反余)の内の私費開墾地は無償払下げ、鎮守の社地及び池は官有地、薮 (1反余)?山林(2反)・荒地(1町5反余)は入札で処分される。旧僧侶達は明治20年までには何れも立ち去り、旧境内地一円は田畑に帰す。その土地は民有地をとして払い下げられた。 上知令により官有地となった土地を、明治32年(1899)の 「国有土地森林原野下戻法」以降に、払い下げを受けた例が長岳寺・和爾下神社・石上神宮などにある。 |
後醍醐帝萱の御所旧跡 |
うち山(内山):永久寺の山号 とざま(外様):よその土地の人々 宗房:故郷の伊賀上野時代の芭蕉の号 芭蕉がこの地に来て作った句かどうかは不明 |
八木早希アナ・青山茂奈良学研究家・上野誠奈良大学教授・黛まどか俳人。 | ||
2/11古墳ロード・山の辺の道 ラジオウォークに参加の人々。 |
石上神宮から内山永久寺跡⇒⇒⇒ | ||
内山永久寺跡から夜都伎神社⇒⇒⇒ | ||
全動画⇒⇒⇒ | 天理から桜井の順⇒⇒⇒ |