初瀬川金屋河川敷公園
水路で大和へ

 山の辺の道 散策ガイド 飛鳥 散策ガイド 

水路で大和へ
 大和と難波の間は水路による交通も重要だった。 外国使節のように

贈答品など大量の荷を伴う場合、船は有力な運搬手段だ。裴世清(は
いせいせい)の一行は、難波から大和川をさかのぼり、初瀬川に入って
古代の市が立った海石榴市(奈良県桜井市)に至り、短い陸路を経て飛鳥
に入ったと考えられる。船の利用は明示されていないが、日本書紀に海
石榴市で飾り馬万頭の歓迎を受けたとの記述がある。水路・陸路をつな
ぐ交通の要衝で下船したと考えるのが合理的だ。船は両岸から綱をつけ
て引くことも多かったと考えられている。

   

海石榴市

 七世紀代、この周辺は「海石榴市」と呼ばれ、大規模な 「市」があったとい
われています。

 こでは山の辺の道をはじめとするいくつかの古道が交わり大和川水運の港
もありました。そのため、様々な物産が集まり、物々交換が盛んに行われて
いたようです。また多くの老若男女で賑わい、「歌垣」などの行事が催されま
した。

 このように交易の中心であった「海石榴市」は、都藤原京の玄関でもありま
した。遣隋使として有名な小野妹子が、隋の使者裴世清と下客十二人を伴っ
て帰国したとき、朝廷では、この地で錺馬(かざりうま)七五疋を仕立て盛大

に迎えたそうです。古代の「海石榴市」は隋や唐の文化の花咲く、国際色豊
かなまちだったのです。

 平安時代になると「海石榴市」は「伊勢詣で」「長谷寺詣で」の宿場町として
有名になります。例えば, 紫式部が著した「源氏物語」の玉葛の巻で登場しま
す。その他にも清少納言、藤原道綱の母などの多くの文人が訪れたそうです。 

仏教伝来と寺院

 6世紀に朝鮮半島の百済から仏教が伝わり、寺院が建てられるようになりま
した。 初めは主に蘇我氏などの豪族によって建てられましたが、 やがて、朝
廷により大規模な寺が建てられるようになります。 遣隋 ()使により大陸との
交流が活発になり、 道昭を始めとした 僧たちが優れた仏 教の文化を持ち帰
ったためです。

 寺院(伽藍)は、 インドに始まった仏塔 (五重の塔、 三重の塔など)を中心とし
て、 金堂・講堂 僧房などの諸堂が建てられました。 建物の配置の違いから、

飛鳥寺式、 四天王寺式、 川原寺式、 薬師寺式などの伽藍様式があります。 

遣隋使と遣唐使

 中国の大国「隋」や「唐」のすぐれた文化を取り入れるため、日本から派遣さ
れた使節団のことです。

 推古天皇の時代に小野妹子が遣わされたのが始まりで、「隋」へ6回、「唐」
へ20回(うち実際に派遣されたのは16回) 派遣されました。

 使節団は通常、大使、副使を筆頭に500〜600人で構成され、2〜3年がか
りで往復するという、 たいへん大規模なものでした。

律令制度

 律令とは、 日本の古代国家の基本を定めた法律です。

「律」は刑法を表し、「令」 は国を治めるための基本法典をさします。 唐時代
に中 国で完成した律令は 遣隋〈唐) 使によって日本に伝えられ、 日本の実
状に合わせて変更が加えられました。

 大宝元年(701) に制定された「大宝律令」が有名です。

この法律には、 国が権 力を集 申してもち、 国を治めるための制度が定めら
れています。 例えば、戸籍 を造って人々に耕地を分け与える代わりに、 効率
的に相税を集めたり、人々に兵役の義務を課したりしました。 

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