父…施基親王(天智天皇の第二皇子)
母…紀橡姫
誕生…709年(和銅2年)10.13
御名・異称…白壁・天宗高紹天皇
皇后…井上内親王 夫人…高野新笠(贈太皇太后)
立太子…770年(神護景雲4年)8.4
即位…770年(宝亀元年)10.1
在位年数…11年
崩御…781年(天応元年)12.23 年令…73才
皇居…平城宮 年号…宝亀・天応
○聖武天皇以降、廃帝や重祚など皇位継承にはとかく支障がともなったことから、白壁王もあらぬ疑いを避けるために苦心惨憺した。孝謙天皇以来の皇嗣争いに無頓着で、その渦中に巻き込まれないように、大いに酒を飲んで蚊屋の外にいることを心がけ、自由の生活を楽しんでいた人である。性格が寛仁淳厚の人情味にあふれる人であり、妃が井上内親王(聖武天皇の第一皇女)で孝謙天皇の異母姉であり、白壁王は62才で当時皇族中最長老格であったこと等が、事態収拾の適格者と認められたためと思われる。
○道鏡政権が倒れると、代わって藤原永手や藤原百川など藤原氏が政治的に台頭した。永手らは白壁王を押し立てて政治の実権を握ろうとした。称徳天皇が崩御するや、永手らは白壁王の立太子を実現し、ついに皇太子の令旨をもって道鏡を追放すると、ただちに天皇に即位した。即位すると、肥後国から白い亀の献上をもって祥瑞とし、神護景雲4年を宝亀元年に改めた。
○当時、飛鳥時代の天武天皇以来、その子孫によって皇位が継承されてきたが、はからずも天智天皇系の光仁天皇が即位することとなった。この後天智系が栄えるきっかけとなった。
○天皇は全般に穏健な政治を推進し、橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱の関係者をみな許して流罪を解いた。また藤原氏の権力を背景に、寺社統制、官制改革など着実に諸政策を実施して政治体制の強化をめざした。無駄な官庁、官史を整理し、農民に対する徭役を軽くし、弱い兵士は郷里に帰し農業に専念させた。農政に力を注いだ天皇といえる。
○奈良時代を中心に仏教崇拝の弊害を改めるため、僧侶の政治への参画や修行僧の取締りを厳しく行った。つまり政教分離を行ったのである。
○東北の羽生や陸奥では頻繁に蝦夷の反乱が起こった。蝦夷征伐は早く斎明天皇の時に始まるが、歴代天皇の政治課題でもあった。平定は進まず、なかなか蝦夷地の開拓は進まなかった。
○皇位継承をめぐる紛議が生じた。772年(宝亀3年)井上皇后は光仁天皇の姉難波内親王を呪い殺したことや、我が子他戸親王の早期即位を願って天皇を呪詛したとして百川らの探索を受け、ついに皇后も皇太子ともに廃されることになった。代って山部親王(桓武天皇)が皇太子となった。親王の母である高野新笠が百済系渡来人の出身であることから反対の声もあったが、百川らは全力で親王を押し立てた。
陵墓…田原東陵 円墳
所在地…奈良市日笠町
○「続日本紀」に田原陵と見え、「日本紀略」は春日宮天皇の前田原陵に対して後田原陵と称している。また、光仁天皇の父春日宮天皇(施基皇子)の田原西陵に対して田原東陵とした。
○桓武天皇によって造営された御陵は、「延喜ゥ陵式」によると、「兆域東西八町、南北九町、守戸五烟、近陵」という広大な山陵であった
○現在の御陵は東西約40m、南北約32mの基壇上に高さ約8mの封土を三段に築いている円墳で、周囲に空濠がある。西方の平城京の方向に開口する石室が存在する伝承が残っている。
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