在原神社地図
在原業平河内通いの恋道出発の地八里 ←伊豆七條←北標生←鉾立←在原 ←法隆寺門前←今国府←馬司 ←信貴山←龍田←並松←大和高安 河内高安←十三峠 |
明治9年 ( 1 8 7 6 )まで、在原寺という寺院があり、本堂・庫裏・楼門などが 迎んでいましたが、廃仏毀釈で廃寺となりました。境内に『伊勢物語』の 「筒井筒の井戸」、謡曲『焉』に謡われた「夫婦竹」があります。また、業平が 河内の高安の女のもとへ通った「業平道」が西に伸び、「業平姿見の井戸」 が残っています。 |
能 井筒 (いづつ ) 秋の日、旅の僧 (ワキ )が荒れ果てた在原寺に立ち寄り、里女(前シテ)と出会う。 女は在原業平と紀有常の娘の「筒井筒」の恋物語などを語り、自分こそ有常の娘 であると明かし消え失せる。里の男 (アイ )から話を聞いた僧の夢に、有常の娘の 霊(後シテ)が生前の美しい姿で現れる。霊は業平の形見の衣装を身につけ、恋慕 の舞を舞う(序の舞)。 やがて夜が明け、僧の夢も覚める。 『伊勢物語』をもとにした世阿弥の作品。高安の女のもとに通う業平の身を案じた 有常の娘の歌「風吹けば……」や、業平の求婚の歌「筒井筒……」の物語が語られ ます。舞台には薄の付いた井筒 (井戸 )の作り物が置かれ、霊が井筒をのぞきこむ 場面は見どころのーつ。 |
業平竹 業平竹の由来は、竹はすらっとしているところから容姿端麗な形としての 男性を表し、更に、節の感じが女性的なやさしさだということで光源氏の モデルの一人といわれたイケメンの平安貴族であり和歌の名手でもあった 在原業平からきているといわれる。 業平竹と命名したのは、高知県出身の植物学者牧野富太郎といわれて いる。 |
祭神 阿保親王 在原業平 在原神社が鎮座するこの地には、明治9年(1876)まで在原寺という寺院があり、本堂・庫裏・楼門等が並んでいた。 在原寺の創立は承和2年(835)とも元慶4年(880)とも言われ、後者の説を採る「寛文寺社記」には在原業平の病没 後に其の邸を寺としたとの記述がる。 在原寺の井筒を「伊勢物語」にみえる「筒井筒」の挿話の舞台とする伝承もここから生まれたと考えられる。 在原業平(825~880)は平安前期を代表する歌人で、六歌仙にも選ばれている。従四位下右近衛権中将まで進み、 在五中将とも呼ばれていた。 古今和歌集仮名序に「その心あまりてことばたらず」とあり情熱的な和歌を得意とした一方、漢詩文は不得手だったよう である。 阿保親王は平城天皇の皇子で業平の父親にあたり、承和2年創立説では在原寺の創立者ともされる。 現在の社殿は大正9年に改築されたものであるが、もとは紀州徳川家が寄進した立派なものだったといわれ、遅くとも 江戸時代には寺と神社が共存していたようである。 |
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在原業平が紀有常の娘と居を構えた地と伝えられる。元は在原寺と業平神社があつた。在原寺の創建は平安時代 の初め(9世紀)、在原寺は明治初年まで本堂、庫裏、楼門などがあった。境内には業平が幼少期に妻と遊んだとされる 井戸(筒井筒)がある。在原神社の西には業平が高安の地に住む女性のもとへかよった際に通ったとされる業平道 (竜田道)が伸びている。 |
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標石の表に在原寺、裏に在原神社と彫ってある。 寺は明治維新で廃寺となった。江戸時代までは、本堂、庫裏、楼門などがあり、在原千軒といわれるほど人家が建ち 並んでいたといわれている。 |
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在原寺跡:在原氏の氏寺 和州在原寺の縁起では、東の平尾山には光明皇后が 開かれた補陀落山観音院本光明寺(現在の姫丸神社近辺)があり(本尊・聖武天皇 御縁仏の十一面観音) 、阿保親王(第51代平城天皇の子)はこの観音を信心した おかげで在原業平が生れたと信じ、承和2(835)年、光明寺をこの地に移して、 本光明山補陀落院在原寺と称した。その後に書かれた「寛文寺社記」には、元慶4(880)に業平が病没し、 邸を寺にしたとある。天文23(1554)年の『吉野詣記』や、延宝9(1681)年の『和州旧跡幽考』には、 寺領は僅かに五石だが、本堂、庫裡、楼門などがあり、近在は在原千軒と呼ばれるほど人家が建ち並ぶと 記す。その後、在原寺は廃寺となり、本堂は明治初年に大和郡山市若槻の西融寺に移されたが廃寺となる。 境内では今も、業平の作と伝わる伊勢物語に歌われた「筒井筒ゐづつにかけしまろがたけ過ぎにけらし 松尾芭蕉の句碑などを見ることが出来る。 また、業平が河内の高安まで通ったという「業平道」の一部が今も神社の西の方に残る。社殿大正9年修 |
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謡曲「井筒」と在原寺 在原業平は兄の行平と共に在原姓を名のって巨籍に入っている。女性遍歴も多彩で「伊勢物語」の ヒーローとされている。その業平と昔契った井筒の女(実は紀有常の娘)が現れ、業平との在りし日の交情 を物語るのが謡曲「井筒」である。 謡曲の舞台となっている大和国石上の在原の旧跡が当所だといわれ、曲にゆかりの深い井筒の井の跡もかす かに残っている。 曲名の井筒の井は井戸の地上の部分を木や石で囲んだもののことで、本来は円形であるが方形のものもある。 紀有常の娘が幼時、背丈をこの井筒で業平と計りあったといわれる。 |
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天理櫟本の自宅から河内高安の姫の元へ通った道。 | |||
在原業平とその父•阿保親王 (あぼしんのう・平城天皇の皇子)が祀られています。 在原寺跡一在原氏の氏寺ー和州在原寺の縁起によると、東の平尾山には光明皇后が開かれた 補陀落山観音院本光明寺(現在の姫丸神社近辺)があり(本尊・聖武天皇御縁仏の十一面観 )、 阿保親王(第51代平城天皇の子)はこの観音を信心したおかげで在原業平が生れたと信じ、承和2(835)年、 光明寺をこの地に移して、本光明山補陀落院在原寺と称した。 |
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