陵の南には、平城宮跡の大極殿 |
父…桓武天皇(第一皇子) 母…藤原乙牟漏 誕生…774年(宝亀5年)8.15 御名・異称…安殿・日本根子天推国高彦尊・奈良帝 皇妃…藤原帯子(贈皇后)、藤原薬子 立太子…785年(延暦4年)11.25即位…806年(延暦25年)3.17 在位年数…3年崩御…824年(天長元年)7.7 年令…51才 皇居…平安宮 年号…延暦、大同 ○早良親王の廃太子にともない、立太子した。参議藤原縄主と藤原種継の娘薬子の間に生まれた娘を後宮に迎えた。ところが薬子は皇太子に取り入り、後宮を乱した。桓武天皇はこれを知って激怒し、薬子を後宮から追放した。 ○桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位すると薬子は宮中に呼び戻され後宮を束ねる尚待に就任した。天皇の威を借り兄の仲成までもが勝手な行動に出て、藤原式家の繁栄をはかった。 ○財政の緊縮化と公民の負担軽減とに意を用いた。また、宮司の整理統合や冗官の淘汰を進め、官僚組織の改革に先鞭をつけた。地方行政の面でも、地方官の監視、監察に力を注ぐなど、全体として律令制の再建を志向した。 ○天皇は生来病弱であり、病をなおすべく皇位を同母弟の嵯峨天皇に譲位し、太上天皇となって平城旧京へ隠棲した。 ○譲位後、健康を回復、国政への関心を示し、上皇の命令と称して政令を乱発するありさまとなった。また、側近の薬子や兄の仲成が上皇に重祚するよう促した。朝廷は「二所の朝廷」といわれる事態を打開しようと立ち上がった。仲成を捕縛し、薬子の官位を剥奪した。上皇は東国へ脱出を試みたが、行く手を阻まれ、平城京に戻って剃髪し、出家した。薬子は自殺し、仲成は殺された。(薬子の変) 陵墓…楊梅陵 (市庭古墳) 前方後円墳 所在地…奈良町佐紀町 ○「延喜諸陵式」に楊梅陵と見えるので、これより陵号が命名され、「兆域東西二町、南北四町、守戸五烟、遠陵」と載っている。 ○現陵は南面三段築成の円墳で平城宮跡の北端に位置するが、最近、前方部が発見され、大型の前方後円墳であることが判明した。 古墳時代の造営である。1863年(文久3年)に考定され修補された。
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平城宮の建設で前方部は削られ、周濠は埋められたが、後円部が地上に残された。平城天皇陵となったのは幕末。 1960年の奈良国立文化財研究所の発掘調査で前方部の存在がわかるまでは、日本列島最大の直径100mを超える大円墳だと思われていた。調査の結果、推定の墳長253m、前方部幅164m、後円部直径147mの古墳時代中期中葉(5世紀前半)の大型前方後円墳となった。 後円部西側調査では、周濠は幅29.5m、深さ4.5mで、さらに外側に幅9.7mの外濠(外周溝)が備わることが明らかになった。 奈良時代にその部分が庭園に変えられていた。外提の斜面の葺石を粘土で覆い、上から新たに玉石を敷いて、水辺の趣を取り入れた。 外側から後円部を借景に鑑賞したのではないかと考えられている。 平らにされた前方部は、平城宮内の役所の施設になった。今は「内裏北外郭官衙(だいりきたがいかくかんが)」と呼ばれており三つのブロック (北西・北・北東)に分かれている。低く丸く刈られたツゲの木で、掘立柱建物の位置が示されている。内裏北外官衙の北部分から出土した木簡の 中に、「泉(現在の木津)」の文字があり、平城山丘陵(ならやま)を越えて宮殿を造るため資材が運ばれてきたことを示すものとなった。 作業を行う現業部門があったとみられる。 |
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