不退寺地図
本堂(重文) | 金龍山不退轉法 輪寺の碑 |
聖観音菩薩立像 (佐保路の秘仏と寺宝展 ポスターより) |
真言律宗 本尊 聖観音菩薩立像(重文) 五大明王(重文) 阿保親王坐像 地蔵菩薩立像 |
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不退寺は正しくは不退轉法輪寺と称し、承和14年(847)に在原業平 が、祖父にあたる平城上皇の萱(かや)の御所を建てたのがはじまり。 御所といっても庵である。阿保親王と臣籍から降下した在原業平が 受け継いで住んでいたのを、のちの菩提寺にした。 不退寺が15大寺の一つであるところから、業平の私寺ではなく、 業平の父阿保親王が創建したことからも官寺に準ずる寺であったと 考える説もある。 |
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平城上皇は薬子の変で失意のうちに天長元年(824)崩御されるが、 その冥福を祈るため、阿保親王によって不退寺、 平城の皇子真如親王によって超昇寺が、いずれも平城京に近い上皇 ゆかりの地に、崩御されてまもなく創建されたとも考えられる。 |
南門(重文) | 多宝塔(重文) |
本堂 (重要文化財)桁間5間、梁間4間、屋根単層、寄棟造本瓦葺。
軒は二軒で二重繁棰、斗拱は 三斗の枠組み、 中備に間斗束を配している。軸部は円柱で正面の頭貫を虹梁の様態に扱っている。これが正面中央に虹梁を架けた最 初のもので、この方法が鎌倉時代に入って一般となったもので注目すべき点である。内部の柱頭部に三斗を組み、木 鼻をつけている特異な構造であって、中央に二条の大虹梁を架け、梁の上に太瓶束を立て、折上組入天井の廻縁を支 えている。爾来、桃山·江戸·昭和と三回の修理を経て現在に至ったもので、その様式を完全に残している。 南門 切妻造本瓦葺の四脚門で、鎌倉末期の建築。 多宝塔 柱は方柱大面取、方3間で中央の間に板扉を開き、左右に青鎖窓をはめている。上層部は檜皮葺きであったが欠いている。 不退寺のもう一つの名は「南都花の古寺」。500種類ほどのはながある。 池泉回遊式の庭園がある。 |
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石棺 ウワナベ古墳南側の平塚古墳(現在24号線バイパス)から発掘されたもので、石材は春日砥(砂岩の一種)。 草刈の人がこれで鎌を研いだ痕が沢山残っている。長さは2.7mで舟型割竹くり貫き石棺ともいう。 |
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阿保親王(あぼしんのう・792〜842)平城天皇の皇子。 810年薬子の変に連座して大宰権帥に左遷された。 のち許されて帰京し,子の行平・業平に在原姓を賜った。 |
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業平は、彼のゆくところ、皇族であろうが大臣の妻であろうが、恋愛を思うままに実行した。その行状が臣籍降下に追いやった。 業平については記録が少ない。藤原一族が彼の行状をこころよくおもわなかったので黙殺しようとしたか、或いは、 彼の知能が優れていて警戒されたのか。 |
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ありわらのなりひら【在原業平】人(825〜880)平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一 人。在五中将・在中将と称される。 阿保親王の第五 子。歌風は情熱的で,古今集仮名序に「心あまりて言 葉たらず」と評された。「伊勢物語」の主人公とされ る。 色好みの典型として伝説化され,美女小野小町に 対する美男の代表として後世の演劇・文芸類でもては やされた。家集「業平集」 大辞林 第三版 |
在原業平 |
在原神社 |
在原神社 と遊び |
在原神社幼なじみの恋 |
雲林院 |
大原野 |
十三峠 |
十輪寺 |
玉祖神社 |
年表 961年 |
不退寺 |
能 井筒 在原神社 |
南門 |
不退寺の由緒 大和北部八十八ヶ所御詠歌 観音をた,だ一筋にたのみつつ 不退の寺に急ぎまいらん 仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守在原業平朝臣の建立になる不退寺は大同四年(八〇九)平城天皇御譲位の後、 平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、入御あらせられ「萱の御所」と呼称せられた。その後皇子阿保親王及びその第五 子業平朝臣(八二五 ~八八0)相承してここに住した。 業平朝臣伊勢参宮のみぎり天照大神より御神鏡を賜り「我れつねになんじを護る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神 鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和十四年(八四七)詔を奉じて旧居を精舎とし 自ら聖観音像を作り本尊として安置し、父親王の菩薩を弔うと共に、衆生済度の為に「法輪を転じて退かず」と発願し、不 退転法輪寺と号して,仁明天皇の勅願所となった。略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一として、法燈盛んで あった。その後時代の推移と共に衰頹したが慶長七年(一六O二)寺領五十石を得て、一時寺観を整え南都に特意な存在を 示した。境内の整備も一段と振い、面目とみに一新するに至った。 今もなお、美しく清掃されたその清々しさは,業平朝臣伝承の美の象徴とも言える。 昭和五年四月久邇宮邦英殿下の御来山を仰ぎ有難き御言葉添えによって、当山の修理が一段と進捗すると共に記念として 香炉1基を下賜され、本尊の霊前にあって寺史に精彩を加えている。 【建造部】 南門(重要文化財) 切妻造本瓦葺の四脚門で,方柱には大きな面を取り左右身柱の上に豪壮な板蟇股を載せ、中 央冠木の上には束を中心に,笈形風にいろいろと飾り立てているのが特異である。鎌倉末期の建築で、昭和九年の修 理により墨書銘を発見確認されている。笈形を盛んに用いた室町,桃山の建築様式の先駆をなしたともいえる最古の ものである。 (墨書銘不退寺蔵) 別当法印顕昭 真道房 宴明房 定明房 大工友吉 権大工友継 不退寺南大門上棟 現在僧日意房 入真房 尊空房 番匠引頭 友成末春 正和六年正月廿四日 願主専宗春房 観教房 法慶房 道円房 長 者 末宗友遠 本堂(重要文化財) 桁間五間 、,梁間四間、屋根単層、寄棟造本瓦葺、軒は二軒で二重繁棰、斗拱は三斗の枠組. 中備に間斗束を配している。軸部は円柱で正面の頭貫を虹梁の様態に扱っている。これが正面中央に虹梁を架けた最 初のもので、この方法が鎌倉時代に入って一般となったもので注目すべき点である。内部の柱頭部に三斗を組み、木 鼻をつけている特異な構造であって、中央に二条の大虹梁を架け,梁の上に太瓶束を立てて 折上組入天井の廻縁を支 えている。爾来、桃山,江戸,昭和と三回の修理を経て現在に至ったもので、その様式を完全に残している。
斗出組とし、斗拱間には鎌倉時代特有の美しい蟇股を配し、柱頭部には頭貫を通じ、貫端に天竺様の木鼻を附けてい る。内部は二重折上げの小組格天井をはめ、彩絵を以て装飾している。その一部は修理に際し復原されたものである。 この塔には最初上層があって檜皮葺きであったことが寛政年間刊行の大和名所図会によって明らかで、高さは十三メ トル六0,明治以降下軸部のみとなったとはいえ、鎌倉中期の特徴を具え当時の多宝塔としては出色のもので、池を 隔で見る姿はまことに優美である。 【仏像部】 聖靚世音菩薩立像(重要文化財) 一メートル九0(平安初期),本尊であって木彫一本造りで,全身胡粉地に極彩色の 花文装飾を施した豊満端厳な像で、業平朝臣御自作の代表的な名作である。 五大明王像 (重要文化財) 木彫彩色、不動明王(中尊)降三世明王(四面八臂) 一メートル五0、軍荼利夜叉明王(一 面八臂) 一メートル五八、金剛夜叉明王(三面六臂) 一メートル四六、大威德明王(六面六臂牛騎) 一メートル四五 の五軀であるが、五大明王がかく完備したのは珍しいもので金剛夜叉明王は特に傑出している。藤原時代中期の作 風をもつ貴重な遺作である。
ろうと言われている。千体地蔵は現在数体残しており、墨書銘によると(御仏千躰地蔵菩薩安浪御作也……)安浪作 の千体地蔵が安置されてあったことが判った。安阿彌のかへ字で,名工快慶をいうのであろう。
石棺(五世紀) 庫裡の庭にあって石材は春日砥(砂岩の一種)で、草刈の人たちがこれで鎌を研いだと思われる痕 が沢山残っている。付近には古墳が沢山あって,おそらくそこから運ばれたものであろうと言われている。
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不退寺⇒⇒⇒ | ||
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狭岡神社由緒 本狭岡神社は霊亀2年(西暦715年)藤原不比等(淡海 公)が国家鎮護、藤原氏繁栄のため勅許により己のが邸 宅佐保殿の丘上に天神八座を祭祀し崇拝しました。こ れが佐保丘天神、狭穂岡天神、狭加岡天神となって今 の狭岡神社になったのであります。 次いで藤原淡海公は天平神護景雲年間に河内の国 詣りには藤原氏一門が(公家、女官たちにの佐保殿に 集まり必らず狭岡天神に参籠して「日待ちの神事」奉 行精進潔斉して、それより日の出を待って国政に掌り 春日社詣をしたと古事に出ています。 現在の狭岡神社は佐保の里一円の氏神さまで昔から 産業の天神、智恵の天神、災難よけの天神さんである と崇拝され、その霊験あらたかなことは氏子中ではよ く知られているところであります。 |
社殿建造物について 境内地 928坪 明治7年 本殿 (銅版葺赤土塗春日造)桁行1間3尺6寸5分、 梁行4尺3寸6分 向拓尺内陣1坪2分5厘 拝殿方1間3尺(銅版葺赤土塗) 御供所 桁行5間3尺2寸 3間4寸5分(銅版葺赤土塗) 四所神社 (天満神社) (銅版葺赤土塗春日造)桁行3尺6寸5分、梁行2尺5寸5分 惣社殿 (金山神社) (銅版葺赤土塗春日造) 桁行3尺6寸5分、梁行2尺5寸5分 瑞垣廷 21間2尺(赤土塗) 3坪2分5厘 狗犬一対 (弘化4年己未9月) 石燈籠 「享保5年」「天神社」「文政13年寅5月吉日」 「明治2年」「文政14年」などがある (皇学館 大学内式内社研究会代表田中卓氏調S57.2.20) 大太鼓 寛文7年(1667年) |
延喜式内社 御祭神 八座ノ天津神ヲ奉仕ス(神典古事記) 若山咋ノ神 若年 ノ 神 若沙那賣ノ神 彌豆麻岐ノ神 夏高津日ノ神 秋比賣 ノ 神 久久年ノ神 久久紀若室葛根ノ神 |
狭穂姫の伝説 狭穂姫、佐保姫、佐保川、佐保山と、佐保山のあちこ ちに「サホヒメ」の伝説が山や谷間の霧のように2000 年の歴史を秘めて漂うている。当社境内にある「洗濯 池」「姿見池」「鏡池」は古事記や日本書紀に出ている 狭穂姫の「沙本毘売命、佐波遅比売、佐保姫」の伝説 池であります。狭穂姫の母は沙本之大闇見戸売、「サ ホノオオクラミトメ」父は日子坐王「ヒコイノマスノ キミ」狭穂姫は母の所領が狭穂の丘陵にあったので幼 小から成人するまで母と住んでいた。若い垂仁天皇と この泉のほとりで恋のロマンスが生れて垂仁天皇の皇 后になられました。狭穂姫は反逆の兄上に殉じられた 故か陵碑はどこにも現存しない。当神社の「洗濯池、 鏡池」の伝説は貴重な存在で碑は現在常陸神社にあり 何とか話しあって、何れかに永久保存にもっていくこ とが大事であると思う。沙本毘売命 ⇒⇒⇒ |
狭岡神社景観 狭岡神社は、現在奈良市法蓮佐保田町にあり、境内 面積は、928坪である。 左右に多くの古文化財が点在する地域であり、平城京 |
佐保、狭岡の地名の起因 万葉集に「佐保」「佐保山」「佐保川」「佐保の内」「佐 保道」「佐保風」等の語が出ており、「佐保」は法蓮か ら法華寺に至る一条通り一帯をさしている。この地名 の起因は「開化天皇の皇女、狭穂比売(第11代垂仁天皇 では狭穂姫と表されている。これが万葉仮名になおさ れた時は狭穂姫となし、現在の「佐保」の地名になっ たと言われている。又一説では「狭岡」とは「佐保の丘」 |
狭岡神社 ⇒⇒⇒ |
瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいの尼寺。客殿前の庭 園は小堀遠州の作庭で、とりわけ椿やサツキの季節 徳川家光から寺領を受けたことで、現在の本堂や客殿、 |
忍性が開設に関わった十八間戸
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旧京街道は佐保川に架かる今在家町の石橋から般若寺楼門(国宝)の西側を通り、平城山 を越え京都に向かいました。石橋を北に進むと、 1908(明治41)年に建築されたロマネス ク調レンガ造で、明治の五大監獄として有名な「旧奈良監獄」(重要文化財)があります。そ の途中の分岐で東に入る旧京街道の傍らに建つ「北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ)」 (史跡)は、鎌倉時代の1243(寛元元)年に西大寺の僧 忍性が般若寺の北東付近に設けた救 らい施設がその前身で、1567(永禄10)年に三好·松永の乱で焼失後、江戸時代の寛文年 間(1661年~1673年)に、この地で再建されました。 さらに旧京街道を進むと興善院町(こうぜんいんちょう)に入ります。この町名は江戸時代の 史料『奈良坊目批解(ならぼうもくせっかい)』によると、平安時代に興福寺旧境内南東の菩提谷 に興善院を開いた僧正 蔵俊の石塔が、当町近傍の興善院代々の墓所に祀られていたことが 由来とされています。同師は、2018(平成30)年に再建された興福寺中金堂の法相柱に描 かれている歴代14名の法相祖師のうち「権別当蔵俊」とされる高名な方です。現在、当町 南西に建つ浄福寺は、江戸時代の明暦年間(1655年~~1658年)頃に源故房(げんこぼう)が 行常念仏を修したことを機に、法相宗から浄土宗に改宗した寺歴があります。 また、同寺 前の般若坂(別称「げんこぼう坂」)西側の一角は旧川上出屋敷町にあたり、この町名は東 方の川上町の人々が移り住んだ由来によるものとされています。 当所のタ日地蔵は、高さ約2.4mに達する大きな地蔵尊像で、その両脇には「奉造立供養 逆修永正六年己巳四月」「興福寺住侶 権律師浄胤敬白 六十四歳」と刻まれています。室町 時代に盛んであった「逆修(ぎゃくしゅ)」(生前供養)のために、1509(永正6)年に興福寺の 権律師浄胤が64歳の時に造立したことが分かります。 毎年7月23日には地元有志による タ日地蔵尊地蔵盆が行われています。 また、 この地蔵尊を詠んだとされる、歌人曾津八ー (1881年~1956年)の歌碑が船若寺境内に建てられています。 |
この場所を南北に走る国道 369 号線は、奈良時代 の都「平城京」東端の道路「東七坊大路」を踏襲するも のです。また、この道は奈良と京都を結ぶ主要道でも ありました。中世末期には「お伊勢参り」が広まり、伊 勢までの道筋にあたる奈良には、京都など各地から、 この道を通って多くの旅人が訪れるようになりまし た。 室町時代には、奈良の名所として「南都八景」が唱 えられるようになります。その「南都八景」の一つに、 「雲井坂の雨」があります。この地より南を望むと、緩 い登り坂が見えると思いますが、昭和の初めに改修 されるまでは、坂の上が見えないほどのきつい坂で した。この坂を雲井坂といい、押上町の町名は、きつ い登り坂に苦労する荷車を押し上げる様子に由来す るとの説もあります。現在は当時の景色を見ること はできませんが、町名の由来から街道を人々が行き 交う往来の情景が偲ばれます。 |
八坂神社 |
弁財天 |
押上町には、「威德井」(「從弟井」)と呼ばれた井户がありました。 江户時代の奈良町を紹介した書物『奈良曝(ならさらし)(貞享4年、1687年)や 「奈良坊目拙解」(享保 15 年、1730年)、奈良の名所案內記「大和名所 図会」(寬政3年、1791年)などに、名水が涌く井戸として紹介されて います。これらによると井戸は、弘法大師が掘ったとされ、また小野小町が、 江户時代、并户は町内を流れる吉城川(この付近では従弟井川とも 呼ばれた)にかかる橋の南側にありました。この歌は、井戸の水が吉 城川と同じ流れの水だと考え、吉城川と「おととい(兄弟)」や「いと こ(従兄弟)」のような水だと歌っているようです。 并户は昭和初めの道路拡張工事で失われましたが、井户枠は川の 北側の押上町自治会館の敷地に移され、往時の名残を留めています。 |