山の辺の道 散策ガイド | 飛鳥 散策ガイド |
本堂(国宝) |
堂内仏像 本尊 薬師如来(重文) 愛染明王 帝釈天(重文) 不動明王 日光菩薩(重文) 月光菩薩(重文) 十二神将 地蔵菩薩(重文) 伎芸天(重文) 五大菩薩 |
創建当初は講堂として建立されたが、金堂の焼失 以後鎌倉時代に大修理を受け、以来本堂と呼ばれてきた。 事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが、様式的に 奈良時代建築伝統を生かし、単純素朴の中にも均整と落ち 着き見せる純和様建築である。 |
内陣が土間であるのも古式で正面には横長の 須弥壇を置き、その檀上中央に本尊の薬師如来坐像と 脇侍の日光・月光両菩薩の立像、その両側を十二神将 が守る。さらにその両側に不動明王と地蔵菩薩の立像 を置き、段の東端にはやや大きい伝帝釈天立像、西端 には世に知られた伎芸天像の優美な立ち姿を拝すこと が出来る。 |
いま、,秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そベって、これを書いている。 いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと 見てきたばかりのところだ。(中略) 此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしく しているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと 昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすった のかとおもうと、本当にありがたい。 (堀辰雄「大和路・信濃路」新潮文庫) あきしのの みてらをいでて かヘりみるいこまがたけに ひはおちむとす 會津八一 |
南門 | 東門 |
平城京の西、国宝の本堂に安 置される伎芸天(重文)で知 られる秋篠寺は、苔むした庭 と木々に囲まれた美しいお寺 本堂内陣左端に立つ伎芸天 像(重要文化財)は、諸技・諸 芸の守護神として有名で、そ のしなやかな立ち姿は「東洋 のミューズ」との称賛を受け るほど見事。 |
本堂(国宝) | 鐘楼 |
拝観の手引き | 秋篠寺の歴史 |
奈良時代末期宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願により建てられた奈良朝時代最後の寺。 造営は桓武天皇に引き継がれ平安遷都とほぼ時を同じく完成した。 保延元年(1135)兵火により、講堂を残すのみとなり、金堂・東西両塔など主要伽藍の大部分 を焼失した。 現在の本堂(国宝)は鎌倉時代に再建された。苔が美しい境内には、塔跡や金堂跡が残り整 然と礎石が並んでいる。 宗派は当初法相宗より平安時代以後真言宗に転じ、明治初年浄土宗に属したが、昭和24年 以降何れの宗派、宗旨にも属さず。 |
伎芸天像について、最初天平時代に造顕され、後災禍のため胴体以下を破損し、 鎌倉時代に体部が木彫で補われたものと考えられる。 頭部のみ当初のままの乾漆造で体部は寄木造である。現在鬘部の宝冠及び両肩より垂れる 天衣の一部が欠失し単純な形であるが、写実的な作風となっている。 古くは各地に於いても信仰されたと思われるが、現在では他になく唯一の伎芸天像である。 像の名称は明治以後に仮につけられたものと思われ、当初の像名は明らかにしがたい。 |
大元堂 大元帥明王(重文) 大元堂の秘仏として安置されている。 この明王の姿は常暁が当時の香水井において 感得したものと伝えられている。 一面六臂の忿怒相で、頭部に蛇を巻き、胸飾、 臂・腕・足釧、腰帯などの位置に蛇をまいている。
鎌倉時代 木造・彩色 像高二二九・五cm |
開山堂 | 香水閣 |
本堂と金堂跡の間の東にある香水閣には、小栗栖常暁が大元帥 明王を感得したと伝える清浄香水が湧き出る香水井があり、これに 対峙した西側には、秘仏の大元帥明王を本尊に安置する大元帥堂が 東面して建つ。『縁起』によれば、常暁がこの井で感得したときは 尊名がわからず、そのあと唐の五台山で大元帥秘法の伝授を受けて 尊名を知ったとある。 堂の中央の大型厨子に秘仏として安置されている超自然的な六臂 の姿のこの像は、大ぶりな憤怒の形相凄まじく怒髪天を突き、胸・臂・ 腕・腰・足首などの本来は飾りを着ける場所に蛇を巻きつける。こ うした蛇を巻く威嚇の像は五大明王など密教の尊像に散見するが、 そうしたなかでも特に骨格たくましく、誇張された巨体の筋肉の表 現によって圧倒的な力動感を表現し、また大元帥明王の彫像として は他に例がない。 曠野鬼大将とも呼ばれる大元帥明王を本尊とした「大元帥法(たい た。この法は祈雨の為にも修されるが調伏法が中心で、国の怨敵や 逆臣を調伏して王の威力を増進し玉体を守護するとされ、天皇即位 のときに修されることもあった。 (特別御開扉は六月六日)i |
霊堂 |
苔むした庭、木々にかこまれたお寺。 |
雷の落ちないところ 秋篠の秋篠寺境内、本堂の東側に、「かみなり石」というのがある。 あまり大きくはない。昔ここへ雷が落ちて、この石のためにへそと爪とを いう。 その「雷のへそ」と爪とは、寺宝として今も伝わっている。 |
八所御霊神社 秋篠寺南門の門前西側にあるこの神社は、慶応四年 (一八六八) 神仏判然令 (神仏分離)が施行されるまで秋 篠寺の鎮守であった。 祭神の八所御霊とは、 崇道天皇(桓 武帝の弟、藤原種継暗殺の罪で淡路に移送の途次自殺し た早良親王の贈名)、伊予親王・藤原夫人 (桓武帝の第三 皇子とその母、藤原仲成の陰謀によって幽閉され自殺)、 橘逸勢(承和の変の首謀者として伊豆に流される途中 死亡) 文屋宮田麻呂 (承和の謀殺の罪で伊豆に流刑)、 大自在天神となった藤原道真)の八柱の神々、いずれも怨 恨を残して死んだ人々で、 その祟りが災害・疫病・飢饉・ 虫害などになると信じられ、これらを慰霊することによっ て禍を防ぐと信じられた。 特に七仏薬師には諸悪病を除い て七難を消滅するほか、呪いを跳ね返す返呪詛(へんじゅそ) 室町時代。 春日大社の末社三十三所神社造替のとき旧殿を ここに移築したもののようで、春日系の社殿では古様のも のとして注目される。 奈良県指定文化財 八所御霊神社 三間社流造桧皮葺 室町時代 |
秋篠寺の歴史 |
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