天龍寺地図
曹源池 |
法堂(選佛場) | 庫裡 |
嵐山と小倉山(亀山)の二つの峰を借景に、大方丈の西側に広がる。作庭は京都の西芳寺(苔寺)をはじめ、 全国に名庭を築いた夢窓国師(天龍寺開山)。 山際には、枯山水庭園などにもよく見られる中尊と脇侍を表す三尊石や、登龍門という言葉の語源となったいわれる龍門の滝、 禅寺ならではの石組や滝組の表現がなされているといわれる。 |
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この寺は古来、京都五山の首座を占める名刹である。嵐山の景勝地に立つ臨済宗の寺院で、境内には名物の法堂がある。 釈迦三尊が祀られ、天井には日本画家加山又造の筆になる雲龍図が描かれている。怪物じみた龍画の中央にはカッと見開いた 眼球が点じられ、頭頂からは切っ先鋭い2本の角がのびている。 天龍寺とは、こうして今なお龍の住む寺である。もとは政治的に非業の死をとげた 後醍醐天皇の菩提を弔う寺として建てられた。 発願したのが、天皇を死に追いやった足利尊氏であった。 山折哲雄 が歩く天龍寺 より
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曹源池庭園 |
総門 | 中門 |
勅使門 |
鐘楼 | ||
天龍寺は過去、8度もの火災に遭った。幕末の蛤御門の変では建物の大半が焼失した。 唯一残った法堂の天井には直径9m加山又造の雲龍図が描かれている。 龍は禅宗の守り神で八方に目を配っている。どこから見ても龍に睨まれているように見える。 |
霊亀山(れいきざん)と号する臨済宗天龍派の大本山で、釈迦如来を本尊とする。 足利尊氏が弟の直義(ただよし)と協力し、自分が反旗を翻した主君後醍醐天皇の菩提を弔うため、暦応2年(1339)、夢窓礎石を開山に迎え創建した寺院で、当初は暦応資聖禅寺と称されたが、尊氏の弟直義が見た金龍の夢に由来し、天龍資聖禅寺と改められた。その後、寄進や天龍寺船の貿易収入により伽藍が整えられ、至徳3年(1386)には、京都五山(第1位天龍寺・第2位相国寺・第3位建仁寺・第4位東福寺・第5位万寿寺・別格南禅寺)の第一位を占め、大いに隆盛を極めた。しかし、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の諸堂は明治以後に再建されたものである。夢窓礎石の作庭と伝えられる池泉回遊式庭園は、曹源池(そうげんち)を中心に遠景の嵐山と近景の亀山の借景を巧みに取り入れており、国の史跡及び特別名勝第一号に指定されている。また、寺宝として、絹本着色(けんぽんちゃくしょく)夢窓国師像など数多くの重要な文化財を蔵している。 |
寺の造営費を賄うために元寇以来途絶えていた中国との貿易を再開した。貿易船「天龍寺船」から公認として渡航1回につき5千貫を徴収した。 鎌倉幕府と後醍醐天皇に背き、裏切り者のつきまとう尊氏は、費用と手間をかけて寺を造営したのも、他者を裏切って権力を手にしたが自分が裏切られるのを怖れた。忠臣とたたえられる楠木正成と対照的。 尊氏は天龍寺以外にも、無窓疎石の進言で戦乱で傷ついた人や動物を鎮魂するため、全国各地に安国寺を建立している。 |
南の渡月橋や西側の亀山公園もかって境内だっいたとされ広い。 |
尊氏(1305〜1358)は幕府の命に背いて京都・六波羅を攻略。建武新政の立役者となったが、後醍醐天皇と対立して光明天皇を擁立。南北朝のきっかけを作った。征夷大将軍になった後、弟の直義と争い、鎌倉に逃げた直義を毒殺した。 |
元治元年(1864)6月28日、長州軍は天龍寺を宿舎及び本陣として利用した。7月19日早朝、市中に向かって進軍し、蛤御門あたりで戦いに敗れた。翌日、戦勝した薩摩軍が、長州残党狩りのため押し寄せ、寺に火をかけた。天龍寺塔頭の弘源寺には、この時に応戦した長州藩士の刀傷が残っている。 |
庫裡の北西に位置するところに、 第88代後嵯峨天皇南陵、 第90代亀山天皇亀山陵がある。 |