知恩院地図
東山三十六峰のひとつ、華頂山の麓に広がる浄土宗 の総本山。法然上人が初めて教えを説いた念仏の聖地 で、上人入滅の地でもある。 7万3000坪の境内は、法然上人の御廟を中心に勢至 堂や濡髪大明神のある上段、上人の御影を祀り .一度に 3000人がお参りできる御影堂が中心の中段、壮大な三 門のほか、研修・宿泊施設の和順会館がある下段に分 かれ、国宝・重文の伽藍が多数建ち並ぶ。三門は高さ 24m、横幅50m、屋根瓦7万枚と木造の門としては世界 のスケールを誇る。ほかに、左甚五郎の忘れ傘とい った「知恩院の七不思議」、僧侶が17人がかりで撞く除 夜の鐘で有名な大鐘がある鐘楼など見どころも多い。 |
三門(国宝) | |||||||
浄土宗本山 正しくは大谷寺華頂山智恩教院、浄土宗総本山である。 平安末期に法然上人が大谷禅房を結んだのがはじまりとされ、法然が晩年を過ごし、念仏の教えを説いた。 後に、徳川家康が浄土宗徒であったことから、将軍家の庇護を受け、本堂をはじめ諸堂の整備拡張が行われた。 |
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この三門は三解脱門(空・夢相・無作むさ(無願むがん))の意味を持つ。元和7年(1621)徳川二代将軍秀忠公の寄進によって建立され、 一階の桁行は26.6m礎石より二階棟瓦頂部まで23.8mある。 入母屋造、本瓦葺(7万枚)の5間3戸2階2重門で左右に山廊の三門特有の形式をもっている。(幅50m) 2年の歳月をかけて建立した三問は日本最大規模の木造門。2階から市内を一望できる。 上層の内部は極彩色を施し須弥檀中央に釈迦牟尼坐像(重文)、その左右に須達長者と善財童子、脇檀の左右に十六羅漢像を安置する。 慶派の七条仏師康猶(こうゆう)らの手による。十六羅漢のうち羅ご羅尊者は顔を横に向け、釈迦牟尼坐像の方向を見つめている。 天井には江戸時代狩野探幽をはじめとする狩野派絵師による龍の絵が描かれている。脇には天女楽器など、梁には麒麟などが描かれている。 三門正面に掲げる「華頂山」の額は霊元天皇の宸筆(しんぴつ・天子の自筆)である。 京都三大門の一つ
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御影堂(国宝) | 御影堂(国宝) | 大香炉 |
宗祖法然上人がなくなったところで、東山三十六峰の一、華頂山の西麓にあり、現在の堂宇は多く寛永10年(1633)徳川家光の建築である。 廊下も鴬張りとなっており有名である。 千姫のお墓の他、佐藤春夫夫妻のお墓もある。 正面の軒下に七不思議の一つ、忘れ傘がある。 |
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御影堂鬼瓦 御影堂の鬼瓦は重さ930kg、高さ2.27m、幅2.94m、奥行き0.39mあり九つのパーツから出来ており、屋根の最上部大棟(高さ28m) 据え付けられている。東西両端にあり、東側の鬼瓦の額には太陽が、西側は月が描かれており、陰陽を表している。国内最大級の鬼瓦だという。 |
霊塔 | 阿弥陀堂 | 経蔵(重文) |
◆知恩院の歴史 平成23年に法然上人800年大遠忌を迎える浄土宗の総本山。江戸幕府初代将 軍・徳川家康が浄土宗徒で知恩院を永代菩提所としたことから、徳川将軍家との ゆかりも深く、現在残る壮大な伽藍の多くは、徳川家の援助により再建されたもの である。境内には、徳川初代から三代将軍までの位牌を祀る権現堂があり、また 秀忠と江の娘・千姫の供養塔も建てられている。 |
大鐘楼(重文) この大鐘は寛永13年(1636)に鋳造されたもので、日本三大梵鐘の一つといわれ(方広寺、東大寺)、高さ一丈八寸(約3.3m)口径九尺二寸(約2.8m)厚さ九尺五分(約30cm)重さ一万八千貫(約70t)あり、鐘楼と併せ国の重要文化財に指定されている。 除夜の鐘で有名である。16人の僧が体を投げ出すように、順に撞木(しゅもく)を引く。 |
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除夜の鐘試し突き 2017−12−28朝日新聞 | ||
知恩院の七不思議 「忘れ傘」 「鶯(うぐいす)張りの廊下」 「白木の棺」 「大杓子」 「抜け雀」 「三方正面真向きの猫」 「瓜生石」 |
東山三十六峰の中峰華頂山を背に、浄土宗七千ヶ寺の巨利であり、念佛宣布の根本道場である。 開祖法然房源空上人は承安五年(一一七五)専修念仏提唱し、比叡山黒谷を出て、この地に草庵(吉水の草庵)を 結んで大衆を教化した。その説く処は、専ら念仏を称えることに依って、阿弥陀如来の極楽浄土に往生するという平易な ものであった。そのため、広く庶民の信奉するところとなり教風は隆盛となった。しかし仏教諸宗の反感や策謀に依って 建永二年(一二0七)専修念仏停止の宣下と同時に、多くの門弟が処刑や流罪となり自身も同年二月讃岐へ配流となった。 四年後の建暦元年(一二一一)ようやく帰洛し,青蓮院の慈鎮和尚慈円の庇護に依って大谷禅房(勢至堂の付近) に入る。翌二年八十歳で入滅し、遺骸は禅房のそばに廟を建てておさめられた。嘉禄三年(一二二七)叡山衆徒の襲撃に 依り廟を破壊されるが、遺骨は事前に門弟によって粟生の地(光明寺の地)に移され荼毘に付された。遣弟源智上人は文 暦元年(一二三四)大谷の旧地に諸堂を再興すると共に法然上人の遺骨を移安し、四条天皇から「華頂山知恩教院大 谷寺」の三勅額を賜り、永世勅願所の宣旨を得てここに当山の寺基がかたまった。応仁の乱で罹災したが、徳川時代に至 って将軍家は大いに興隆を助け、伽藍を整備し、寺禄七百三石余を寄せた。元和五年(一六一九)後陽成天皇の皇子良純 法親王が入院して宮門跡となり、維新の廃絶まで七代続いた。 三門(国宝) 元和七年(一六二一 )徳川:代将軍秀忠公によって建立されたわが国最大級の二重門で、楼上霊元上皇 宸筆の「華頂山」の額を掲げる。 三門とは、仏道修行で覚りに至る為に通過しなければならない三つの関門を表す、空門、無相門、無願門の三解脱門を 略した呼称である。 構造形式は五間三戸二重門で、左右に山廊が付く。構造細部は禅宗様を基調とし、二階内部は彩色を施す。江戸時代初 期における建築技術が最大に発揮され、高い完成度をもつ遺構のひとつとして位置づけられ、建築史上極めて高い価値が 認められる 二階内部には、宝冠釈迦牟尼像、善財童子・須達長者と十六羅漢像(重要文化財)を安置し、天井、虹梁(こうりょう)、板壁、 頭貫(かしらぬき)には彩画、その他部材には文様を描き、絢爛華麗な彩色を施している。画工は狩野派といわれ,天井中央には龍、 壁には菊花、牡丹等の草花、頭貫にはマカラと波が描かれ、組物は繧繝彩色(うんげんさいしき・濃い色から少しずつ薄くなるように段階を つけで彩る)の条帯文、台輪や通肘木には菱文様、小壁には蟇股文様や連続唐草文が施されている。 また七不思議の一つ三門造営奉行の一人、五味金右衛門夫妻の木像と白木の棺が安置されている。 |
知恩院・大鐘楼⇒⇒⇒ | |
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「戦友」ここはお国を何百里の歌碑 作詞者 真下飛泉がこの地で亡くなり 教え子たちにより建立。 知恩院塔頭良正院門前。 |
三解脱門(さんげだつもん) 空:物事にこだわらない 無相:見かけで差別しない 無作:欲望のまま求めない 中央、左右と三つ開いている扉口のどれが空門、無相門、無作門かは決まっていない。 |
三門は(国宝) 鎌倉時代、中国から禅宗とともに伝わり、とくに本山級の寺院、五山で大型の門が建てられるようになった。 共通するのは「五間三戸二階二重門」であること。柱で五つに間仕切りされた中に、三つの扉口があり、2階建てで屋根が二つある門のことである。 東福寺三門との違いについて 1621年に2代将軍、徳川秀忠によって建立された知恩院三門では、組物が軒下にびっしり並び、屋根の隅がピンとそりあがる典型的な禅宗様式となっている。時代が下り禅宗様式がより完成された様式とされた。因みに2階からは五山の送り火の内四つが見える。 一方1425年完成の現存最古三門である東福寺三門では、白塗りの組物が柱に差し込まれ、手前にせり出している。これが大仏様の特徴である。東福寺は東大寺と興福寺の2字をとって創建された寺だからといわれるため。東福寺三門の2階から五山の送り火は三つ見える。 |
三門 三門(国宝)は、元和7年(1621)二代将軍秀忠によって建立されたもので、高さ約 24m、横幅約50m、屋根瓦は約7万枚に及び、木造の門では世界最大規模を誇 る。楼上内部には、宝冠釈迦如来像と十六羅漢像(重文)を祀り、狩野探幽をはじ めとする狩野派一門によって描かれたという極彩色の飛龍や、天女、人面鳥身の 迦陵頻伽などが天井や柱を鮮やかに彩っている。一つ置かれた白木の棺と木像 は、三門を建立した大工の棟梁・五味金右衛門夫妻のもの。三門建立の際の予 算超過の責任をとって自刃したという二人の菩提を弔うために安置され、「知恩 院の七不思議」の一つにも数えられている。楼上からは京都市内を一望する絶 景を望むことができる。 |
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