第19代 允恭天皇(いんぎょう)地図
父…仁徳天皇(第四皇子)
陵墓…恵我長野北陵(えがのながのきたのみささぎ) |
|
允 恭 天 皇 | |||
皇后 | 忍坂大中姫 | おしさかのおほなかつ ひめ |
衣通郎姫は妹。 |
皇后の妹 | 衣通郎姫 | そとほしのいらつひめ | 衣を通して美しい膚の色がすけて光はえているところから つけた名,またの名は、弟姫。 允恭天皇の愛人。 軽皇子、軽大郎は甥・姪。 |
第一皇子 | 木梨軽皇子 | きなしのかるのみこ | 軽大郎皇女とは同母妹で恋愛関係にあった。 衣通郎姫は叔母。 |
皇女 | 軽大郎皇女 | かるのおほいらつめの ひめみこ |
またの名を衣通郎女、叔母の衣通郎姫と似か よった名であるが別人と見なしたほうが自然。叔母と同じく 美しかった。 木梨軽皇子とは同母兄で恋愛関係にあった。 |
松山市姫原にあり、主祭神として軽 太子(木梨之軽太子)と軽皇女(軽大郎 女)を祭る。かつては斯多那岐宮と も、姫原社とも呼ばれたという。 社伝によれば、允恭天皇の皇女、軽 太郎比売(軽大郎女)が斯多那岐宮に 居て、その地で亡くなったのを森に葬 って古塚と称した。その墓所という石 塔が現存し、かたわらに木梨之軽太子 の墓が並び、比翼塚と呼ばれる。地名 を姫原、背後の山を「軽の山」という。 のも、軽皇女の名にちなむとされる。 一方、宮内庁が木梨之軽太子の陵墓参 考地とする東宮山古墳は愛媛県四国中 央市にある。 |
神社主祭神 軽皇女(かるのひめみこ) 神社由緒 社記によれば昔、允恭天皇皇女軽太郎比売が斯多那岐宮に在り、その地に薨じたのを後の森 河野、久枝、野田、野畠、光宗、森等の諸氏の尊崇厚く、再々神殿を改築したと伝えられている。 神社鎮座地 紀元435年のこと、允恭天皇の皇太子木梨軽太子(きなしかるのみこ)は、実妹·軽大郎女(かるの その名も「姫原」というこの地には、いつの頃からか、二人を祀った「軽之神社」があり、神社より 比翼塚の隣には、木梨軽太子の「天飛ぶ鳥も使ぞ鶴が音の間えむ時は我が名問はさねし」 なお、「山釿」とは、植物のニワトコのことで、「山釿の」は「迎へ」の詞となっている。 |
木梨軽皇子と軽大郎女 |
2022-10-12撮影 茅淳宮跡の石碑 |
中村児童公園内にある衣通姫の伝説と宮跡の説明板 |
衣通姫の伝説と宮跡 とこしへに 君も会へやも いさな取り 允恭天皇はしばしば行幸なされた 衣通姫在住の史蹟(書紀による)で その後も芽渟宮として泉州行政の 中心であった郷人今に傳へて毎年 春彼岸墓前祭を催し歌人の徳を偲ぶ |
上之郷中村にあったとされる茅渟の宮に住まったと伝えられる、允恭天皇の皇后の妹姫。 允恭天皇との“忍ぶ恋”のロマンスが日本書紀に記されています。この名前は、容姿が大変美しく、身の輝きが衣を通して見えるほどであったからだといいます。
《5世紀中頃のこと。允恭天皇は皇后の妹である衣通姫を愛していました。しかし姉である皇后の嫉妬はひどく、天皇は衣通姫のために「茅渟の宮」を造営。姫を都からそこへ移しました。そして、天皇は姫に会うため、遊猟といっては日根野におもむきました。しかし、見かねた皇后が「人民の迷惑も考えてつつしんでください」と願い出たため、天皇は遊猟をあまり行わなくなりました。そこで衣通姫は、忍ぶ恋路ゆえの待つ身のつらさを、「とこしへに、君もあへやも いさな取り、海の浜藻の 寄る時々を」(私は海の浜藻が波のままに岸辺へ近寄り漂うように、まれにしかお会いしておりません)という歌に詠みました。天皇は「この歌は皇后の耳に入るといけない。他人にもらさぬように」と注意されたそうです。それから土地の人は、海藻のことを「なのりそも」(告げるな=知らせるな)と呼ぶようになったといいます。》
上之郷には茅渟の宮跡とされる伝承地があり、この歌の石碑が建てられ、毎年春には宮を守る地域の人々によって姫をしのぶ祭りが行われています。 |
中村児童公園内にある茅淳宮跡の碑 |
宮の跡⇒ |
天皇、則ち更に宮室を河内の茅淳に興造てて、衣通郎姫を居らしめたまふ。此 に因りて、屢(しばしば)日根野に遊猟したまふ。 九年の春二月に、茅淳宮に幸す。 秋八月に、茅淳に幸す。 冬十月に、茅淳に幸す。 十年の春正月に、茅停に幸す。是に、皇后、奏して言したまはく、「妾、毫毛ばか りも、弟姫を焼むに非ず。然れども恐るらくは、陛下、慶茅停に幸すことを。是、 百姓の苦ならむか。仰願はくは、車駕の数を除めたまへ」とまうしたまふ。是の後に、 希有に幸す。 |
茅淳は、後の和泉国一帯の地域の名。奈良時代の茅淳宮は大阪 之郷の地。 |
5世紀頃、 知性と美しさを兼ねそなえた衣通姫はこの地域に住み、 頻繁に允恭天皇がこの地を訪れていた。 伝承によれば、 この茅渟宮はその後和泉国の拠点 (要所) として残された. 衣通姫は死後も和歌の女神として奉られ、 地元の保存会によって 毎年春のお彼岸の際に衣通姫の墓前祭が開催されている。 |
中谷藤吉翁之像 |
,