元興寺極楽坊地図
元興寺塔跡地図

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 極楽堂―曼荼羅堂(国宝)  高さ約5.5m五重塔(国宝)奈良時代
2015-5-8朝日新聞より
  国宝の極楽堂(本堂)と禅室には飛鳥時代建立当初の瓦や柱が残る。
蘇我馬子が建立したといわれる日本最古の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)がその前身。
ならまち中心部に位置し、かつては南部七大寺の一つとして現在のならまちは全て境内地であるほど広大な寺院であった。 
 日本最古の寺である飛鳥寺(国内初の仏教寺院、法興寺)を前身とし、平城遷都(710)に伴って平城京に移された。
移転当時の元興寺には広大な土地と伽藍があり、猿沢の池を挟んで北の興福寺、南の元興寺と呼ばれていた。
現在の「ならまち」がかっての元興寺境内であった。 
 日本書紀崇峻天皇3年(590)10月、「山に入りて寺の木を取る」とある。寺とは法興寺(飛鳥寺)のこと。
 毎年2月3日には境内で紫燈大護摩供(さいとうおおごまく)がある。
修験者が護摩木を本堂前の護摩壇にくべると、炎が燃え上がり下火になると護摩壇が崩され、
素足で火渡りが行われ無病息災などを願う。
 一般参拝者も参加できる。 
 
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 蘇我馬子が建立したといわれる日本最古の本格的伽藍

である飛鳥寺(法興寺)がその前身。ならまち中心部に位置し、
かつては南都七大寺の一つとして奈良市街の南西部を境内
とする広大な寺院であった。

 東門(重文)  極楽堂―曼荼羅堂(国宝)
本堂(国宝・鎌倉時代) 
     元興寺の僧房だった北室の東端にあたり、北室の一部を改造して独立させたもの。
     6間に6間という正方形のお堂。柱と柱との間隔がまんなかほど大きく、両端はしだいに狭くなっている。
     屋根は行基葺きという葺きかたがしてあり、円瓦の一方がすこしずつ細くなっているのを段々に重ねて葺く方式。
     飛鳥寺創建時の瓦の一部が今でも使用されている。
     瓦が作られた年代により色が異なり、赤褐色・黒系は飛鳥時代、白系は奈良時代、グレーは昭和時代となっている。
     法隆寺の玉虫厨子もこの方式。
     本尊 木造阿弥陀如来坐像(重文・平安時代)、本尊のうしろに着色曼荼羅(重文・鎌倉時代)、厨子(国宝・鎌倉時代)
     厨子の裏板にも智光が描いて礼拝した曼荼羅図があり、一般の信仰を集め、極楽坊という名もここからおこっている。 
   
     
 東門(重文)  五重塔(国宝)
東門
  この門は鎌倉時代の建物として、雄大な気風と、すぐれた意匠を持つ切妻つくり四脚門である。
もと東大寺西南院にあった門を、元興寺の極楽坊正門として応永18年(1411)この場所に移築されたものである。
 東門の設置により極楽坊本堂を中心とする一画が元興寺旧伽藍から独立した中世寺院7として再生したことをしめしている。 
五重塔(国宝)
 建造は奈良時代後期と考えられている。1層ごとに分解可能で持ち運びに適している。奈良時代に全国各地で建設された
国分寺五重塔のひな型だったという。
 
 禅室(左)と極楽堂(右)いずれも国宝の屋根
  この堂は元興寺東室南階大坊(僧坊)の一部であり、
本邦浄土六祖の第一祖である。
 智光法師が感得した浄土曼荼羅を本尊とし寄棟造りに大
改築された極楽坊本堂である。
 極楽堂、曼荼羅堂とも呼ばれ、智光の住房が前身という。
 古来浄土発祥の聖堂として名高く、内部柱に念仏講の
寄進文がある。
 堂の外観は寛元2年(1244)改修時の姿であるが、内陣
に奈良時代僧坊の身舎部を残し、西流れの屋根に見る
 行基葺古瓦は当時の前身飛鳥寺から移建の際に運ばれた
ものである。
 屋根の一部に、飛鳥、奈良時代の瓦が残る。飛鳥寺の
瓦は、百済の専門職人が技術を伝えできた日本最古の瓦。
縄を巻き付けた棒でたたいて瓦を成形した跡もある。
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元興寺(塔跡) 飛鳥時代の瓦 南無仏太子像 
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禅室―僧坊(国宝)
 この堂は元興寺東室南階大坊の4房分が残った僧坊で、禅室とも呼ばれ、念仏道場として著名であった。
鎌倉時代に改築され大仏様式の手法を軒廻りによく残している。
主要な構造部材及び礎石は奈良時代の創建当初ものが残り今も用いられている。
 奈良時代の官大寺僧坊遺構を伝え、内部の間取りに奈良ー鎌倉時代僧坊のおもかげをよく残す貴重なものである。
本堂と同様に南流れの屋根の一部に行基葺古瓦が残る。古瓦には最古の丸瓦、平瓦を含め飛鳥時代から奈良時代の
ものも伝世している。 行基
禅室(国宝・奈良時代) 
     26.6mに6.65mの切り妻づくりの細長い建物。
     柱・瓦・肘木などに天平式のものがあった。僧房北室の一部が鎌倉時代に改造されたと考えられている。
     屋根裏の頭貫(かしらぬき)に、飛鳥時代初頭期の586年ごろに伐採されたヒノキが使われている。
     世界で最も古いと木造建築とされる法隆寺(7世紀末〜8世紀)を約100年さかのぼり、
     世界最古の現役の木造建築部材である。
     奈良時代の718年に建立が始まり、建物は新築とされているが、少なくとも禅室は飛鳥寺からの移築の可能性がある。   
     
 法輪館(収蔵庫) 五重小塔(国宝安置)  

   
 元興寺講堂跡礎石(奈良時代)  仏足石
元興寺講堂跡礎石
 境内西側の中新屋町で平成10年に発掘されたもので、本来の位置は保っていなかったが、
出土場所や礎石の規模などから、元興寺講堂に使用されたものと考えられる。
 礎石は長さ1.5mから1.1m、幅1.2mから1.6m、厚さ0.7mから1.2m、90cmの柱座が造りだされている。
礎石の石材は三笠安山岩で、通称カナンボ石と呼ばれる硬質の自然石を利用している。
 創建当初の講堂は、間口11間で丈六薬師如来坐像を本尊とし、脇侍二躰、等身十二神将が安置されていたと伝えられる。
 元興寺の主要伽藍は境内にのこる僧坊(禅室)を除いてすべて失われたが、礎石から創建当時の元興寺を偲ぶことができる。
仏足石
 仏足石は、釈尊の足跡で仏陀を顕す古い信仰形態をしめしている。
2千年程前のスリランカで創られた図を基に復元した今の生身仏として、日本・スリランカ友好親善の記念の2012年10月8日に
造立された。 
     
小子房(極楽院旧庫裏・北側)  小子房北向土間不動尊  
  奈良時代の東室南階大坊には北側の梁間(はりま)の狭い小子坊が附属していた。
 僧坊が中世書院化すると、小子坊は北の厨房となった。
 寛文3年(1662)現在の形に改修され台所と呼ばれ、極楽院庫裏として機能した。
 昭和40年に境内整備にともなって現在地に移されたが、今なお古材を伝えている。 
 
 かえる石(大阪城の蛙石)  浮図田(ふとでん)
かえる石
 江戸時代の奇石を集めた「雲根志」に載せられている大坂城の蛙石である。
 河内の川べりにあった殺生石だったが、後に太閤秀吉が気に入って大坂城に運びこまれたという。
 淀君の霊がこもっているとも云い、近代に乾櫓から堀をはさんだ対岸隅にあった。
 大坂城にあったころは堀に身を投げる人も必ずこの石の下に帰ると云われた。
 縁ががあって、この寺に移され、極楽堂に向かって安置された。
 福かえる、無事かえるの名石として、毎年7月7日に供養される。 
浮図田
 2千5百余基の石塔、石仏類(総称して浮図)は、寺内及び周辺地域から集まったもので、
新たに田園の稲の如く整備した。
 板碑五輪塔を中心とした供養塔、阿弥陀仏地蔵尊等の石仏類からなり、鎌倉時代末期から
江戸時代中期のものが多い。
 中世期に当寺や興福寺大乗院関係の人々、近在の人達が浄土往生を願って、
極楽坊周辺に減罪積徳作善のため造立した供養仏塔である。  




塔跡

 基壇と17個の礎石を残す。高さは約50mで興福寺の塔とほぼ同じ高さであった。その巨塔が安政6年(1859)
に、近隣の民家火災で全焼した。本尊であった薬師如来は辛うじて救出され、奈良国立博物館に寄託、公開されている。
 北側に仮堂の本堂がる。
 飛鳥にある飛鳥寺(法興寺)が平城遷都と共にここに移され、名を改めた。
 南都の七大寺の一つとして、法相宗の学問所となり、広大な寺域に金堂、講堂、宝塔、僧坊が建ち並び、中世以降は興福寺
東大寺と並ぶ勢力を持っていた。
 室町末期の宝徳の土一揆と幕末安政の火災ですっかり廃絶した。
称徳天皇と道鏡B      
























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