岡宮天皇(草壁皇子)真弓岡陵 | |
皇太子のまま死んだ草壁皇子の母ウ野讚良(うののさらら)皇后(持統天皇)が贈った 称号である。天武天皇の皇子であり、文武天皇、元正天皇の父である。 11歳の時、壬申の乱に従い、両親の期待をになって皇太子となったが、父の死後、 即位を見ずになくなった。 かれのライバルは、天武天皇と母の姉である大田皇女との間に生まれた大津皇子 であった。 この二人は皇位とは別に女性をめぐっても張り合った。相手は石川郎女、当時宮廷 ゆびおりの才媛であり美人である。 |
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「島の宮 上(うえ)の池なる 放ち鳥 荒(あら)びな行きそ 君座(いま)さずとも」 万葉集にあるこの歌は、嶋宮の情景を詠んだものといわれている。「君」は日並皇子(ひなみし) ともよばれた、時の王位継承予定者、草壁皇子のことで、「島の宮」の所在地については、大字 橘と島庄にかけての地域が有力。 歌の意味は、「島の宮の上の池にいる放ち鳥よ、野生にたちかえっていかないでおくれ。 たとえ、日並皇子がいらしゃらなくなってしまったとしても」 草壁皇子は、天武・持統両天皇の間に生まれた、たった一人の皇子であった。 28歳の若さで夭折してしまった草壁皇子が過ごした嶋宮を、皇子に対する思慕を込めて 舎人がうたいあげたもの。 嶋宮が草壁皇子の本拠地となる以前、この地域には蘇我馬子の邸宅があった。 |
岡宮天皇陵から望む |
隣にある素戔嗚命神社 | |
束明神古墳から南300mの高取町大字森に所在している。 文久2年(1862)に宇都宮藩が中心になって現岡宮陵の修陵が行われた。 地元では、現岡宮陵の位置は素戔嗚命神社の本殿が鎮座していた所で、立ち退きをしてそこを 陵とした。ということが言い伝えられている。 |