芋峠(いもとうげ)地図
入谷集落(にゅうだに)地図

飛鳥川 栢森  高取城跡 
吉野 吉野への道 朝風の棚田と飛び石 和田萃  
吉野への道(芋峠越え)  吉野への道    

 芋峠芋峠の語源は、芋を背負って峠を越えた

という伝承や、疱瘡(ほうそう・いも)の疫病神を払

うという説のほか、吉野の「妹山」が見おろせる峠の

説などがあります,標高556mの芋峠を下ると吉野

町千股に入りる。 

   
 芋峠入口  芋地蔵
 村の入口にある。芋の瘡蓋が似ていることから、
疱瘡(ほうそう・いも)の疫病神を払う。 
三軒茶屋跡 役行者 左芋峠頂上、竜在峠
下の茶屋、中の茶屋、上の茶屋、が昭和初期まではこの茶屋で一息を入れて
芋峠神社に参拝してから吉野へと下って行った。 
入谷 栢森 近道 高取城路へ 小峠 古道 芋峠 吉野へ 飛鳥川 竜在峠へ
 明日香村大字岡のあたりから吉野へ歩いてゆくには、普通飛鳥川をさかのぼって大字稲淵・栢森と登りつめて、
芋峠が吉野郡との境となって、これから吉野郡上市の町へと下るのである。
 芋峠までくれば、吉野の山々を一つ一つ数えることができる。空気も国原とはとみに変った感である。
 この道は、明日香村の奥座敷で、静寂快適この上もない。
 いまは自動車で、この峠をらくに越え飛鳥吉野間の往復もしきりである。
 昭和のはじめごろでは、まだ旧道であった。飛鳥川の東岸をゆく道は、栢森から左に曲がって登ってゆく道で、
草茫々の廃道となり、峠へゆく途中の茶店の人も下の村におりて、家のあとだけがあった。峠のところで新道と合
している。
 持統天皇の吉野行幸道は、地形状況からいって、この道をゆくのがきわめて自然と思われる。
 犬養孝 万葉の大和路 より
 電車がひけるまでは、飛鳥地方と吉野をむすぶ重要な交通路となっていたが、こんにちは誰一人越える者はなく、
草ぼうぼうで、道を見失いがちであり、廃道に帰している。
 山道はもちろん、田舎の担道さえ村から村へと歩く人影、全国ともにほとんど見られなくなった。旧道は寸断され、
旧峠などたいがいが廃絶の姿である。
 古代から近代までつづいたあるくことによる距離の観念は、交通機関の発達によってみごと変革をとげているといっ
てよい。それだけに、万葉の歌の実相があるくことによってより正しく還元されることころの多いことが峠の草などかき
わけているときに、しみじみ感じられる。
 犬養孝 万葉の旅(上) より
古道 小峠・芋峠
 この峠道は昭和20年ごろまで大和国中から吉野への生活道路でした。吉野へ輿入れする花嫁は駕籠に揺られ、
タンス・長持・ホッカイ(台所用品)等を担いだ縁者等は提灯行列をして峠を上って行きました。
 また、この道は山仕事道でもありました。当時の山は広葉樹の自然林で、炭焼き作業で山に寝泊まりし、生活必需
品の薪・焚き木を求めて老若飛鳥人が行き来しました。今でも山中に炭焼き釜の跡が残っています。 
 671年、大海人皇子(おおあまのみこ)は、兄の天智天皇から皇位の譲位を打診されますが陰謀を察

し、近江大津宮から飛鳥「島の宮」(明日香村島庄)を経て吉野に身を隠します。

 このときの「吉野への道は最短距離でもある『芋峠越え』が有力視されています。

 やがて兵を挙げて「壬申の乱」に勝利し、飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で天武天皇として即位

しますが、686年に没後、皇后であった鵜野讚良(うののさらら)が持統天皇となります在位中、31回も

吉野離宮に行幸した際も、藤原京(現在、橿原市)を発ち飛鳥川に沿って稲渕,栢森を経て芋峠を越

えたのではないかと考えられており、「吉野への道」は飛鳥時代の「歴史の道」ともいえるのです

 明日香村稲渕と吉野町千股を結ぶ古道にある峠。 大海人皇子は、鶴野讃良皇女らと共に 近江から飛鳥嶋宮を経て
この道を通って吉野入りした。

 夫である大海人皇子(天武天皇)が亡くなり持統天皇として跡を継いだ鶴野讃良皇女は、この峠を30回以上越えて夫と
の思い出の地である吉野を訪れた。 ルートは諸説あり明日香村側から進むと峠付近までは道は狭く、急な坂やカーブが
続き、 峠から吉野町千股までは比較的広めの道が続く。
 途中に看板などがあり迷うことはないが、道は舗装されておらず足元に気を付けて通行してほしい。
 奈良記紀・万葉 名所図会ー壬申の乱遍ー







入谷集落

 栢森集落のはずれを東へ舗装された車道を登ると 1.9 kmで入谷集落に着きま

すが、その標高差は100mありますのでかなりの急な坂道です

 ここには古代に大海人皇子を支持する海人(あま)族が住んでいたとも、水銀を
掘る丹生(にゅう)
族が住んでいたのが地名の由来になったともいわれていますが、
大海人皇子が通った「吉野への道」
として、この入谷・竜在峠を経たルートも侯補
地の
ひとつにあげられています。集落は標高350〜450mの高所にあり、山頂に
は仁徳天皇を祭神と
する「大仁保(おおにほ)神社」が鎮座しています。

 また、古代に丹生都比売(にふつひめ)が巡幸したとも伝えられ、鎮座地・丹生谷
が地名の由来とも言われています