永平寺地図

   
永平寺の標柱 永平寺に出入りする人すべてが通る正門 
龍門の石碑は右側にある

正門
 石畳がはじまるところに高さ四メートルほどの石柱が左右に一対立っている。
ここが永平寺の正門である。
門柱の正面に次のような文字が彫られている。

  杓底一残水

  汲流千億人

これは永平寺の第七十三世住職、熊澤泰禅禅師が作られた四句からなる五言詩
の後
ろ二句を刻んだものである。この漢詩の前二句は、

  正門当宇宙

  古道絶紅塵

と詠まれている。最初から順に読むと

正門は宇宙にあたる

古道は紅塵を絶す


杓底の一残水(しゃくていいちざんすい)

流れを汲む千億の人

となる。

その意味は正門は人知をこえた真理の世界、すなわち仏の教えの入り口
である。
道元禅師が教
えられた、そして古人が歩んでこられた道(教え)は人間の様々
な心の垢を除き去って
くれる。
柄杓で汲んだ水で手を洗い、そし
て、柄杓の底に残った水を川へ還されたと

いう道元禅師。その風を慕い、多くの人がまた永平寺の門をくぐってその教え
を汲む。

永平寺の境内には川が豊富に流れていて、年中絶えることがない。
かつて食べ物やそ
の他のものが十分になかった頃でも、水が不足することは
なかった。

そのいくらでもある水でさえ粗末にしてはいけない、大切にするようにと、
道元禅師
は教えられた。 

大本山永平寺の標柱

 幅三尺五寸(約1メートル)、高さ十六尺(約四·八メートル)の巨大な標柱で

平成十四年(二00二)の「道元禅師七百五十回忌」を記念して立てられた。
寄進
は昭和二十年代後半から三十年代に永平寺へ安居した人が中心と
なって作られた
「円心会」。
七十八世宮崎奕保禅師(えきほ)の染筆
による「曹洞宗大本山永平寺」の
文字が
刻まれている。

 

永平寺の成り立ち(案内書より)

 永平寺は、寛元二年(一二四四)に道元禅師によって開かれた坐禅修行の道場です。

四方を山に囲まれた深山幽谷の地に、大小七十余りの建物が並んでいます。

永平寺を開かれた道元禅師は正治二年(一二00)、京都に生まれました。

十四歳の時、比叡山にて出家し、二十四歳の春、生涯の師を求め中国に渡ります。

そして天童山如浄禅師のもと厳しい修行に励まれ、「正伝の仏法」を受け継がれました。

二十八歳の夏、日本に帰国。

三十四歳の折には京都深草にて興聖寺を建立し、その後、波多野義重公の要請もあり、

越前の国(福井県)に移られ永平寺を開かれました。

現在は道元禅師の御意志を継承する修行道場として僧侶の育成と一般の方々への
布教教化を行っています。

 
 通用門
   
 仏殿  見た目は二重屋根だが、内部は吹き抜け式になっている
 七堂伽藍の中心に位置する。明治三五年(一九〇二) の改築。

中央には曹洞宗のご本尊であるお釈迦様が祀られており

向かつて右側からそれぞれ過去·現在·未来の三世を現している。

また、正面上に「祈祷」の額が掲げられているように、

昼や晩のおつとめでは世界平和や万民安楽をお祈りしている。

 仏殿はその名の通り、本尊である釈迦牟尼仏を奉安し、仏の加護により国家安を祈念する場所。
唐の終
わりから宋の時代にかけて仏殿は重視され、やがて禅宗寺院の中心となった。
道元も宇治の興聖寺
の僧堂勧進疏の中で「寺院の最要は仏殿、法堂、僧堂なり」と述べている。

仏殿は方三間裳階付き総欅造で、中国宋代の形式の石畳敷きとなっている。
明治三十五年(一九〇二)に「高祖道元禅師六百五十回忌」を記念して改築された。

中央には導師の席である礼盤が置かれ両側に畳敷きの細長い台が並べられている。
この台を看経台(かんきん)といい、勤行のとき
雲水たちはこの台の上に正座をして読経するのである。

須弥壇中央に本尊の釈迦牟尼仏、右に未来弥勒仏、左に過去阿弥陀仏の三世如来を祀っているが、
この形式は中国天童
山の三世如来に準じたものと考えられている。
三世如来とは過去·現在·未来の如
来が三尊居るのではなく、一尊の如来の過去·現在·未来の姿なのだという。
下層楣
間には五十世玄透即中禅師揮毫による覺皇宝殿」の額が掲げられ、
殿内に入れ
ば六十七世北野元峰禅師による宝座乾坤(ほうざけんこん)を鎮め千秋国を護る。

霊光日月を照らし万世人を利すという仏殿本来の意義を示す聯がある。

左奥の壇にはインドから中国へ禅を伝えた達磨大師像が、その左隣に道元が宋へ参学の際、
正師として法を受け継いだ
如浄禅師像が安置されている。
現在でも
毎月十七日には如浄禅師の月命日を追慕する法要が、ここ仏殿で行われる。

殿内には守護神である「招宝七郎大権修理菩薩」「土地護伽藍神」のほか、大檀那である徳川家、
越前松平家、若狭酒井
家、彦根井伊家、また三菱財閥を築いた岩崎家の位牌も安置されている。

 
法堂 
 
 
  山門二階
   
山門内  法語の扁額
     
多聞天  持国天   増長天   広目天
山門の東側  山門の西側 
山門

 七堂伽藍の中で最も古い寛延二年(一七四九)の造立です。

総欅造の宋風の楼門で楼閣門で、両側に仏教の守護神である四天王が安置されています。

また、山門楼上の羅漢堂には五百羅漢などが祀られており、毎日、修行僧が楼上に登り、お経をあげています。   

 

 修行僧が正式に入門、安居(あんご・集団で寺域から出ずに修行)する
永平寺の玄
関である。


寺院の諸堂塔のことを一般に伽藍と呼ぶが、これには僧侶が修行をする清浄な

場所という意味がある。これら伽藍の中でも特に重要な建物が山門,仏殿,僧堂

庫院·東司·浴室·法堂の七棟で、これを七堂伽藍と呼んでいる。また、この七つ

の建物の配置を伽藍配置という

配置は人体のありようになぞらえられている。
すなわち法堂は頭部
仏殿は心臓、山門は腰であり、庫院が左手、僧堂が右手、
浴室が左足、東司が右
足という見立てである。

永平寺の伽藍は長い歴史の中で何度も火災に見舞われた。
寛元二年(一二四四)
に、大仏寺として創建された永平寺だが、
再建をくり返した中でもっとも古い伽藍が山門である。

山門は寛延二年(一七四九)、四十二世円月江寂禅師によって再建された。
欅造の宋風様式で、間口三間奥行二間の重層の大楼門。
門を
支えるのは巨大な十八本の円柱である。

山門の両脇には文政三年(一八二〇)、五十四世博容卍海(まんかい)

禅師墨蹟の聯(れん)がある。


家庭厳峻不容陸老従真門入

鎖鑰放閑遮莫善財進一步来

読み下し文は「家庭厳峻(かていげんしゅく)、

老(りくろう)の真門(しんもん)より入るを容(ゆる)さず。
鎖鑰放閑(さやくほうかん)、

遮莫善財(さもあらばあれぜんざいの一歩を進め来るに」である。

永平寺の家風は厳しく、たとえ権力
があり、地位や名誉に恵まれていても求

道心がなければこの門から入ることはできない。しかし永平寺の門はいつも開か

れており、真に仏道を求める人はいつでも出入りが可能だ、の意。


毎年、春·秋の入山前日に地蔵院で身
なりを整え、永平寺で修行を志す雲水た

ちがまず立つのがこの山門前である。山門は俗世間と仏道に帰依する修行の聖地

を分ける関門なのだ。厳しい修行に耐えられるだろうか……雲水たちは幾多の逡

巡と訣別し、意を決して山門の脇に吊るされた木版(もっぱん)という板を力強く叩く。
だが
出迎えの古参雲水が出てくるまでの時間は長い。
ひたすら取次を待つ入門者はこ
こでも修行の決意を試されるのである。

門を入って仰ぎ見ると正面に「吉祥の額」といわれる扁額が掛けられている。

道元は傘松峰大仏寺から傘松峰永平寺に寺名を,改め、
さらに山
号を吉祥山と改めたとされる。
諸仏おわしま
すまことにめでたい山であると感得した法語の扁額である。

諸仏如来大功徳

諸吉祥中最無上

諸仏倶来入此処

是故此地最吉祥

読み下し文は「諸仏如来、大功徳 諸吉祥 中最無上
諸仏俱に来って此の処に入る 是此の故に此の地最吉祥


山門の東側を持国天と多聞天、西側を広目天と増長天の四天王が守りにあたっている。
楼上には華厳の釈迦如来脇侍として迦葉尊者、阿難尊者,善財童子、
月蓋長者(がっかいちょうじゃ)が祀られる。

ほかに十六羅漢、五百羅漢が鎮座している。

なお正門から山門にいたる参道の両脇見事な杉の巨木が固めている。
この杉
並木を五代杉というが、五世義雲禅師が植えたことにちなむ命名である。
山門は
修行僧にとって寺の正式玄関で、入門のときと、
修行を終えて下山するときの生
涯に二度だけ通る門。入山する修行僧たちは壁のように
立ちふさがる山
門を一途に目指す。

   
 中雀門(ちゅう じゃくもん) 仏殿側から 中雀門 山門側から 
山門と仏殿の中間にある門

宮中の朱雀門に由来するわれるが、仏殿に向かう特別な門と考えられる。

縦(南北)の位置では山門と仏殿の間の斜面に立ち、横(東西)では大庫院と僧堂の中間に
ある美しい重層造の四脚門であ
る。
中雀門の典拠は詳らかでないが、仏
殿に対する特別の門という意味からという。
宮中の朱雀門にならってこう呼んだ
ともいわれる。

現在の中雀門は六十世臥雲童龍禅師の代、嘉永五年(一八五二)の「道元禅師六百回忌」
に新築された。
かつての門は
「教体楼(きょうたいろう)」と称して二重層で梵鐘が吊られていたという。

山門から仰ぐ中雀門は気品のある重厚な建物で、楣間には朱縁の額が掲げられており、
草書で「梅熟」という二字を納
めている。
揮毫は先の臥雲童龍禅師によるもの。
典拠は中国の大梅法常禅師の
「即心是仏」の話に出てくる故事からといわれ,意味は、
大自然とひとつになって
修行すれば結果自然成となる、である。

また、仏殿に向かった二本の柱に五十世玄透即中禅師の筆で

毘盧楼閣門戸不辰

通方作家単刀直入

の聯が掛けられており、昭和五十五年( 一九八○)に福井県の文化財に指定された。
読み下し文は「毘盧の楼閣門戸とだ
さず、通方の作家(さっけ)、単刀直入」である。

中雀門の下には池があり、そこに架かる橋を六十三世滝谷琢宗禅師は老梅橋と名付
けた。
道元は梅花を好んだという
が、老梅橋の命名はそれにちなんでという。
修行僧たちは中雀門を通るとき,必
ず仏殿に向かって拝礼するのである。  

   
僧堂(内部)  僧堂 

明治三五年(一九〇二)の改築。

正面には「雲堂」の額が掛けられており堂内中央には智慧の象徴である

文殊菩薩が安置されている。

そして文殊菩薩を囲むように、坐禅の出来る「単」と呼ばれる席が約九〇人分設
けられている。

修行の根本となる伽藍で坐禅·食事·就寝などを行なう。 
僧堂は別名を雲堂とか選仏場と呼ばれる。裡宗寺院 における修行の根本道場である。

伽藍配置では庫院に対応して建てられ、人体に例えると右手部分にあたる。

堂の中央に聖僧として文殊菩薩を安置することから聖僧堂とも呼ばれ、
これが
本来の名称であったという。

聖僧を囲んで「単」と呼ばれる畳床が設けられ、修行僧はこの単で坐禅・打眠・三時(三回)
の食事をする。
「立って半畳、寝
て一畳」という言葉があるが、文字通り一人につき畳一枚分の単が、
坐り、食し,
眠る修行の場なのである。
単の周りに巡
らされた幅二十五センチほどの木縁を牀縁(じょうえん)と呼ぶ。
ここに袈裟や食器である
応量器を置き、また就寝の際に頭を向けるため、ことに「三浄」
といって清浄に保
たなければならない部分である。
した
がって単に上がる際、牀縁に足をかけることなどもってのほか、座り込んで上がる場合
にも尻や不浄の指(薬指と小指が
触れないように注意しなければならないのである。

永平寺の僧堂は間口十四間、奥行一0間で、明治三十五年(一九〇二)に改築された。

坐禅

禅は修行の根本です。背筋を伸ばして姿勢を正し静かに息を調えた姿は、
み仏の姿そのものです。

朝課(ちょうか)

朝の坐禅が終わると、法堂に移り,朝課(朝のおつとめ)を行います。

修行僧の一糸乱れぬ読経の声が永平寺の由内に響き渡ります。

行鉢(ぎょうはつ)

行鉢とは正式な作法に則り食事をいただくことです。

食事は多くの関わり合いの中に生かされていることに感謝しいのちと向き合う
大切な時間です。

作務(さむ)

作務とは坐禅や読経のほかに行う掃除などのことを指します。

毎日行われる廻廊の雑巾掛けなどは「動の坐禅」といえます。 

     
僧堂側(登り)     庫院と監院寮側(降り)
 
 報恩塔(納経塔)
祠堂殿の前に建つ六角形の納経塔で

七十八世宮崎奕保禅師の発願により、
成八年(一九九六)十一月に落慶した。

平成十四年(二00二)に「道元禅師七

百五十回忌」が催されたが、それを目指

して宮崎奕保禅師は永平寺住職として自

身はもとより全国の檀信徒の協力を仰ぎ

「般若心経」百万巻を写経奉納することを

発願した。こうして進められた写経を納

める塔がこの納経塔である。
塔は百万巻
の経を納められるよう、
二千枚入りの納
経箱を五百個収納できる
容量をもってい
る。

塔は名古屋の中部大学名誉教授で工学

博士の伊藤平左門(堂宮大工十二世)の設

計で、永平寺大工が永平寺の老杉を使用。

六角形、一重裳階の塔として建立された。

心柱は相輪頂部まで四十七尺二寸六分

(約十五·五メートル)といわれる。

 
鐘楼 
 朝の暁鐘、昼の斎鐘、夕暮れの昏鐘、夜坐

(やざ)が終わってからの定鐘の、1日4回、

たまに特別行事の際にも撞かれる。


大晦日、NHKの番組「ゆく年くる年」で、雪に埋もれた
禅寺から打ち鳴らされ
る。

山門下に立つ鐘楼堂は昭和三十八年(一九六三)、
七十三世熊澤泰禅禅師の代
に改築された。
堂は総檜造の鎌倉様式で
重厚な建物である。

中に吊るされた大梵鐘は口径一メートル、高さ三メートル、
重さ約五ト
ンの巨大な吊り鐘。
花鳥草木が鋳込まれ
た緩やかな曲線をもつ優美な
梵鐘だ。
の大梵鐘は、太平洋戦争のただ中に金属供出に
あいながら終戦後に無事に返還さ
れた鐘を新鋳したもの
という逸話をもつ。

鐘を撞くのは鐘点という役の修行僧

鳴らし物をどのような身なりでどのような動作で打つ
かということは、
細かに定められているのである。
鐘点が大梵鐘を
打つには袈裟を着け、身繕いをし、
坐具と時計を
用意する。
鐘楼の鐘の手
前には「礼盤」という礼拝を行う台がある。
鐘点は
まずこの礼盤に上がり坐具を広げて三拝を行い、

数々の苦難を排し、世のすべての生あるものが、
この鐘の音を聞き、悟りの道に
入るように、
という「鳴鐘之偈(なるかねのげ)」を唱える。

暁鐘は十八声打たれ、各声の間隔は1分五0秒である。
それゆえ時計が必要なの
である。
そして「一撞一拝」というように、
鐘はひと撞きごとに一拝
して撞かれるの
である。
その梵音は時刻や行事の単なる
合図というだけでなく,
修行僧を覚醒さ
せ、三界の群生に無限の響きを伝える
とになる。

   
   
承陽殿 (じょうようでん)   承陽門

承陽殿(道元禅師の御真廟)

明治14年の改築.で正面壇上奥には御開山道元禅師(承陽大師)、本山第2世懷弉禅師の
御尊像と御霊骨
が奉安され、さらに本山3世、4世、5世、並びに瑩山禅師の御尊像をお祀
りしている。

殿内には本山歴代禅師、及び宗門寺院住職の御位牌.が祠られている。
又、正面左には本山開基波多野義
重公の像を安置する。

正面上『承陽』の額は、明治天皇より道元禅師へおくられたものである。

正面の階段を登った所に本殿があります。「承陽」には仏法を承け伝えるという意味があり

日本曹洞宗の発祥の根源として曹洞宗の聖地とでも言うべき場所です。   

 

久我龍胆の紋(が りんどう)

承陽殿正面の扉をはじめ、水盤、長押の釘

隠し、屋根瓦などにあしらわれた紋が「久我

龍胆の紋」。これは道元の生家、久我家の家

紋である。

永平寺で久我龍胆が盛んに用いられ始めた

のは明治八年(一八七五)、六十一世環渓密雲

禅師が久我建通の養子となって、姓を久我に

改めてからといわれ、それほど古いことでは

ない。最初に用いられたのは明治十四年

(一八八一)九月のことで、再建された承陽殿

に付けられたという。

   
 
大光明蔵 

昭和五年に再建された総檜造。

桃山時代の形式に準じた格式ある建物である。
設計は
近代日本建築の第一人者と称された
工学博士武田五一。
築は尾張の宮大工魚津弘吉の手になる。

広さは約八二○平方メートル(約二五○坪)。
二百九十八
畳敷きの大広間をもち、
貫首
はここで正式に来山した寺院や檀信徒と
相見する。

永平寺に一泊すると、翌早朝に大光明蔵に案内

され、貫首から説法を受けるのである。

天井は桃山時代の様式にならった格天井、

正面には南画の大家小室翠雲画伯の
「老
松に鷹と竹と梅」の壁画がある。

 
 白山水(はくさんすい)

白山連峰に連なる永平寺は、加賀の白

山から湧き出る白山水の豊かな恵みを受

けている。

道元の霊廟である承陽殿に隣接して白

山水を引いた堂宇がある。毎朝、その白

山水が係の僧によって霊廟に供えられる。
堂宇へは係の僧しか入ることはできない。

 
大すりこぎ棒 
 
 松平家廟所

浴室のある回廊の右手、高い階段の上

に葵の紋のある門が見える。そこが松平

公廟所の門である。かつては勅使門とし

ての役割を担っていたという。廟内には

江戸浅草で四十二歳の若さで生涯を閉じ

た越前藩三代藩主松平忠昌の五輪塔の
か、
正室の慶寿院殿浄誉月窓清心大禅
定尼
の五輪塔や、殉死した寵臣七名の
墓など
がある。

 
     
   

 
 唐門
 
一葉観音 
 一般観覧者が入る通用門の右手にある

放生池には、昭和四十七年(一九七二)に

開眼供養が行われた一葉観音が祀られて

いる。道元は宋より帰朝の際、海が荒れ

船中で苦しんでいた。
そのとき「観音経普門品偈(ふもんぼんげ)」
を唱えると木の葉に乗った
観世音菩薩が現れ、
波が治まったとい
う。
その由縁による観音像である。
かっ
ては愛宕公園に置かれていた。

     
 傘松閣  

吉祥閣から二階に進むと最初の大広間に出るが、そこが傘松閣である。「道元禅師七百五十回忌」の記念事業の一環とし

て計画され、平成五年(一九九三)に着工二年の歳月をかけて完成した。新築された傘松閣は鉄筋コンクリート造二階建て

で、一階には参拝者や祠堂殿法要に上山した人たちの控え室が置かれ、二階は百五十六畳敷の大広間となっている。

二階大広間の天井は格天井の中でも格式高い折上げ格天井で、別名を「絵天井の大広間」という。そこには昭和五年

(一九三○)当時、文展,帝展に入選した日本画家の大家百四十四名による二百三十枚の花鳥図がはめ込まれている。新築

の際これらの日本画も修復され、色彩鮮やかに蘇った。 二百三十枚の絵の中に二枚の鯉と一枚のリス、二枚の唐獅子があ

り、願いをかけてこの五枚を見つけ出すと祈願成就するといわれている。

また、大広間正面には七十八世宮崎奕保禅師の染筆による「傘松閣」の額が掲げられている。ちなみに旧傘松閣は昭和五

年の「懐奘禅師六百五十回忌」に建立された。約五百六十平方メートル(約百七十坪)、総檜造百六十畳の造作であったが、

これは永平寺町の資料館に移築され、再建されている。

 動画   永平寺⇒⇒⇒
永平寺 唐門⇒⇒⇒ 
永平寺 報恩塔⇒⇒⇒
永平寺 大すりこぎ棒⇒⇒⇒ 
永平寺 中雀門⇒⇒⇒ 
永平寺 仏殿⇒⇒⇒ 
永平寺 境内⇒⇒⇒ 
全動画⇒⇒⇒ 

道元  
その他永平寺追加  道元 正法眼蔵  妙覚山誕生寺 禅師峰寺 
阿氏多尊者   吉峰寺 得度霊蹟(比叡山横川)  木ノ芽峠 
示寂の地 興聖寺 荼毘塔 延暦寺
唐院 飛鳥について  永平寺 最澄
六波羅蜜寺 詩仙堂    


















興聖寺
地図

京都府宇治市宇治山田27-1

深草での道元の評判はますます高まり、

本格的な禅道場を建立する必要に迫られ

た。それが観音導利興聖宝林寺(興聖寺)

である。道元は僧堂の完成を祝い、弟子

たちを集めて上堂を行った。上堂とは

住職が法堂で修行僧に対して行う正式の

説法のこと。

この時代、日本達磨宗衆徒の懐奘が

仲間と入門する。

道元はこの地で『学道用心集』『典座教

訓』( 26頁)などを著し、『正法眼蔵』( 50頁)

九十五巻のうち四十五巻の記述を始めた。

心身ともに充実した時代だったのである。

現在宇治に建つ興聖寺は、淀城主の永

井尚政が僧万安英種を迎え、慶安元年

(一六四八)に再興したもの。石門から延

びる参道は琴坂と呼ばれ、山吹と紅葉の

名所として知られる。
































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