薬師寺(やくしじ)地図

中門
 
法相宗(奈良仏教)  天武天皇  本薬師寺  藤原京 
白鳳時代 薬師如来  日光菩薩  月光菩薩 
聖観世音菩薩  吉祥天女  薬師寺   新薬師寺 
   
 奈良・世界遺産⇒⇒⇒   若草山を背に東西両塔.
 大池を前景にするアングルは1950年頃入江泰吉が
見つけたとされる。
2010-5-1撮影 撮影ポイント地図
   

《薬師寺略縁起》

 薬師寺は天武天皇により発願(六八〇)、持統天皇によって本尊開眼(六九七)、更に文武

天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(七一○)

に伴ない現在地に移されたものです。

 当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の荘美を誇りました。すなわ

ち金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が立ち並び、なかでも裳階を施した金堂や塔のたた

ずまいの美しさは、 龍宮造り と呼ばれて、人々の目を奪いました。

 爾来一三〇○年を経、この間、幾多の災害を受け、特に享禄元年(一五二八)の兵火では、

東塔を除く諸堂が灰燼に帰しました。 

西塔 東塔(国宝)
 「塔はインドの古いことばでストゥーパといい、本来釈尊の舎利(御遺骨)を祀る墓を示した。
中国ではそれが卒塔婆と音訳され、やがて日本にも「卒塔婆」として伝来した。
 その後一般には墓標を「塔婆」と呼びならわし、寺では塔とのみ呼称するようになった。
 塔は一寺に一基あれば足りる訳であるが、白鳳時代薬師寺において初めて二基を相対して
配置する伽藍様式として建立された。」
西塔縁起より
続き⇒⇒⇒ 
 「東塔は天平二年(730)平城京(現在地)に建造された薬師寺の堂塔のうち、
千二百五十年の風雪に耐え、火災や兵火をまぬがれて残る事を得た唯一の
建物である。(藤原京694~710年からの移築説がある) 

  美しいたたずまいで知られるこの古塔について 凍れる音楽 という形容詞が
固定しているが、むしろ蒼古とした姿の中に躍動する余韻があり、白鳳時代の文
化消息が窺い知られる。」東塔縁起より

 高さ34m各層に裳階(もこし)があり、大小の屋根のリズミカルな様式美から「凍
れる音楽」と評される。
頂上の水煙(すいえん)には飛天の透かし彫りがある。
 東塔については、奈良時代の730年ごろに建てられたことが年輪年代測定によ
って分かった。
 東塔をめぐっては、飛鳥時代の藤原京(694~710)からの「移築説」と平城京
遷都後の「新築説」があった。
   続き⇒⇒⇒ 
 2009年7月から10年間の解体修理に入った。2010年2月まで解体に向けた調査を進め、
その後本格的な修理にかかった。解体は1898~1900年以来1世紀ぶり。 

 約110年ぶり7の解体修理が進む。塔を支えた創建当初の基壇の全体が姿を現した。
(2015-2-27)
 極めて丁寧に土を突き固めた版築(はんちく)工法が施されているという。
 基壇は一辺約13m四方。約25層(1層あたり厚さ2.5~6cm)にわたり土固め、直径4~5cm
の棒で突き固めた跡が残っている。非常に丁寧に固めた版築と言われる。
 基壇下部の石(地覆石・じふくいし)について、平城京の他の寺院の大半が加工しやすい凝灰岩
なのに対し、東塔では飛鳥時代の寺院と同じ花崗岩を主に用いられていた。飛鳥の様式を色濃く
引き継いだとみられる。
 
 修理終えた東塔(手前)2021-3-3)

裳階
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法隆寺金堂     

東塔 国宝·白鳳時代

 創建当時より残る唯一の建物。各層に裳階をつけてい

るため六重に見えるが、三重の塔。この特異な形が、全体

として律動的な美しさを保ち、“凍れる音楽”と称され親

しまれている。平成21年より12年をかけて、初の全面解

体大修理が行われた。これを期に1300年の年月を経た

水煙は降ろされ、平成の水煙に取り換えられている。
 三重塔だが、裳階がついて六重二④見える

飛鳥四大寺につい 東塔相輪について 東アジア塔の規模 薬師寺東塔  
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薬師寺藤原から平城へ、寺の移転の実態、問題点 建築様式折衷様 日本の文化の特性  
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金堂 大講堂
 裳階(もこし)をつけた美しい堂で、籠宮造りと呼ばれている。
堂には藥師三尊像(国宝・奈良・金銅)即ち、薬師如来(国宝 銅造白鳳時代)
を中央に、脇侍(わきじ)として、向って右が日光菩薩(国宝・銅造・
白鳳時代)、
左が月光菩薩(がっこう・国宝・銅造白鳳時代)が安置されている。
 金堂の前にある灯籠は、伽藍の中軸を示すシンボルとされ、
東西両塔の中心線と、金堂の中心線が交わる場所に設置されている。
 「大講堂は、正面41m、奧行20m、高さ17mあり、
伽藍最大の建物です。
講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、
これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して、
経典を講讃(こうさん)したためです。
 大講堂の本尊には弥勒三尊像(重文)後堂(うしろどう)には
仏足石・仏足跡歌碑(国宝)が安置されております。」
仏像について
 天武天皇が皇后野讚(うののさらら・後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願し、後持統天皇によって
藤原京内で造営が進められた。
 平城遷都にともなって本尊も平城薬師寺に移されたとの説(移座説)と、平城京で新たに製作されたという説(新鋳説)がある。

金 堂 昭和51年(1976)再建

 薬師如来の浄瑠璃世界を彷佛させる

金堂は2度焼失。慶長 5年(1600) に仮金堂

として建造された。昭和46年(1971) から5年の歳月をかけて、

創建当初の姿で再建された。正面26.7m、奥行15.6m、高さ

21.4m。二重屋根で各層に裳階をつける。宮大工の名工·西岡

常一棟梁による昭和の大建築である。 

薬師三尊像 国宝·白鳳時代

 中央に薬師如来、向かって右が日光菩薩、左が月光菩薩、

あわせて薬師三尊という。薬師如来は、東方浄瑠璃浄土の

教主で、私たちの身と心の健康を護ってくださる。脇侍の

日光·月光菩薩は、動きのある美しい姿で、理想的な写実

美を完成した仏さまといわれている。

本尊台座文様は、当時の東西文化交流を知る貴重なもの。

 

 本尊薬師如来の台座に浮彫りされている文様
は、当時の世界各地の文化を集約しています。

上框にギリシャの葡萄唐草文、中框にインドの
福神像、下框に中国の四方四神(東・青龍、南・

朱雀、西・白虎、北・玄武)そして周囲にはペル
シャの蓮華文が彫られています。そしてこれ

らの図様は、奈良時代の日本の文化が、すで
に国際的な広がりを持っていたことを証明して
います。  石屋戸は横穴墳墓⇒⇒⇒

 
 
 西塔

西塔 昭和56年(1981)再建

 享禄元年(1528)に創建以来の建物は焼失。東塔の綿密な調査

に基づいて設計され、伝統的な木造建築の工法で再建された。

高さ 36.4m。屋根の勾配がゆるくされ、 また、青に塗った連子窓

を設けるなどは、 当初の形式によるもの。内陣には、 中村晋也氏

の釈迦八相像の内、降魔成道,転法輪,涅樂,分舎利の四相像

が祀られている。 

 
 伽藍復興用材
   
 水煙部分 東塔古材 
 塔の頂きを火炎形で飾る。火を忌水煙という。
   
 水煙  相輪

水煙·白鳳時代 西僧坊

 1300年間、国宝 東塔の最上部で塔を護り続けてきた水煙

は、この度の解体大修理を期に、その役目を終え地上へと降

ろされました。

 水煙は4枚からなり、そこには24鉢の飛天が透かし彫りさ

れています。今日まで地上およそ30m上空にあった水煙を、

間近でご覧いただけます。

 また同時に、薬師寺建立縁起を知る貴重な資料である擦
管に刻文されている銘文も、見学できる。

 
風鐸
 
   
 東院堂(国宝・鎌倉)  回廊は復廊

東院堂 国宝·鎌倉時代

 東院堂は養老年間に吉備内親王が元明天皇の冥福を祈り、発願建立された。天禄4年
(973)の火災で焼失、弘安8年(1285)現在の地に再建され、享保18年(1733)に西向きにさ
れている。 奈良時代は土間が通常だが、再建にあたり板床に造り変えられている。

鎌倉時代の建築様式を巧みに残しており、日本最古の禅堂として知られている。


聖観世音菩薩立像 国宝·白鳳時代

 若さの中に漂う気品と端麗さは、「祈りが昇華してゆく崇高なお姿」といえよう。

肩のあたりまで幾筋かにわかれて下がる垂髪、二重の首飾り、透きとおるような衣服、花び
らのような繊細で美しい指の動き、そして直線的な姿勢。

これらは、インドのグプタ王朝の影響を強く受けている。

本像を囲むように四天王像(重要文化財·鎌倉時代)が祀られている。  

  第43代 元明天皇のために皇女吉備内親王が養老五年(721)ごろ建てたもので、
弘安八年(1285)再建されている。
ここ東院御本尊(銅造)聖観世音菩薩像(国宝・奈良・金銅)が、(木造)文殊菩薩坐像
(重文)、(木造)吉祥天立像(重文)等が安置されている。
服装⇒⇒⇒
 写真の回廊は東側南北に通じる中心に壁のある復回廊であるが、講堂の両脇、
東西に通じる回廊(48m)は同じく復廊となっているが、壁を北側に寄せ、
単廊風にし、催事などに使える広い空間を確保してある。 
   
 鐘楼 梵鐘 
境内図  伽藍配置比較⇒⇒⇒
若宮社 龍王社
 3月30日から4月5日に行われる修二会(花会式・はなえしき)は、先導役である管主はじめ練行衆10人が参籠する。
 午後3時ごろ、練行衆が薬師寺の鎮守である休ヶ丘八幡宮に参拝し、行の無事を祈願する。夕方からは参籠所となる
地蔵院に場所を移し、行中に守らなくてはならない五つの戒めを授かる授戒の儀式がある。夜には金堂の薬師如来の
前ですべての罪を悔い改め、国家繁栄や五穀豊穣など祈る悔過法要の行を営む。
 薬師寺の修二会は嘉承2年(1107)、堀河天皇が、皇后の病気が治った感謝をこめて椿や梅、ユリなど10種類の造
花を修二会に供えたのが始まり。
修二会(花会式)⇒⇒⇒
最勝会(さいしょうえ)
 平安時代に日本三大会(え)のひとつとされた法要。5月4日雅楽が奏でられ、参列の僧侶たちに勅使役がお香を配る儀式。
 天長7年(830)に始まったが、その後途絶された。
 大講堂で、金光明経の教義について僧侶たちが論じる講問論議や参列者全員の読経がある。
 日本三大会には宮中の護斎会(ごさいえ)、興福寺の維摩会(ゆいまえ)がある。
玄奘三蔵会大祭
 5月5日玄奘三蔵院伽藍で法要。三蔵法師の西域行の伎楽の奉納がある。
玄奘三蔵坐像
 木造、鎌倉時代、高さ88cm、右手の親指から中指までの三本を立て、左手にはインド経典を持つ。持ち帰った経典
を翻訳する姿を表現している。
 中国唐時代の僧侶・玄奘(げんじょう・602~664)は、西遊記に登場する三蔵法師のモデルになった人物である。
シルクロードを越えて仏教の聖地
 天竺(てんじく・インド)で学び、数多くの経典を持ち帰って漢訳する事業を進めた。
 法相宗の開祖である慈恩大師(じおん)を弟子として教えたことから同宗の始祖とされ、大本山の薬師寺では分骨
をまつる。
 
食堂(じきどう)
 中世に失われた(8世紀前半)食堂を2017年に再建された。  
 食堂は僧侶が斎食をするための建物で、僧侶約300人が一堂に会する規模であったと

発掘調査により判明しています。

『薬師寺縁起』によると食堂の規模は東大寺、大安寺に次ぐ大きさとされており、その記

録がほぼ裏付けられています。

 創建当初の建物は天平2年(730)頃に建てられたとみられ、天禄4年(973)に

焼失しました。その後、寛弘2年(1005)に再建されましたが、再び失われました。

(年代不明)

 新たに復興した食堂は、建物外観は奈良時代の意匠を凝らした作りとし、内部は現代技

術を活用することで広い空間を確保し、食堂を多目的に利用することを想定しています。

 堂内には田測俊夫画伯により描かれた食堂ご本尊『阿弥陀三尊浄土図』を中心に、全長

約50メートルにわたる壁画『仏教伝来の道と薬師寺』が奉納されています。

 田測俊夫画伯筆『仏教伝来の道と薬師寺』は中国から日本、飛鳥から平城京薬師寺まで

を、また玄装三蔵院伽藍内の平山郁夫画伯筆『大唐西域壁画』は中国とインドを結ぶ玄喫

三蔵取経の旅が描かれ、二つの大壁画は左側にある長安大雁塔で結ばれています。

 奈良・薬師寺で再建工事が終わった「食堂」内部の壁画は、
東京芸術
大名誉教授で日本画家の田渕俊夫さん( 75 )が、
4年が
かりで仕上げた大作だ。
 故
平山郁夫さんの弟子でもある田渕さんは「薬師寺には

平山先生作の『大唐西域壁画』があるだけに、
自分ら
しさを出そうと頑張らせていただいた」と話した。

 食堂は僧侶の食事や儀礼の場。薬師寺によると、
建当初の食堂は973年に焼失。1005年に再建さ

れたが、その後、再び失われていた。
 今回の食堂は南
北約16m東西約41m高さ約14メ10建築家の
伊東豊
雄さんが内部をデザインした。
落慶後は法話などの場
になる。
2017-5-10 朝日新聞
 (佐藤圭司)

 

奈良市の薬師寺で、僧侶の食事や儀礼の場だった

「食堂」の復興工事が完了し、26日、落慶法要が開か

れた。招待者約1700人が参列した。27、28日にも営まれる。

復興資金には写経の納経料があてられ、法要では納

経者代表から村上太胤管主にお堂の鍵が手渡された。

正面扉が開くと、ほの暗い堂内に6m四方の本尊「阿

弥陀三尊浄土図」が浮かび、村上管主が長さ約1M

の開眼筆で入魂の作法をした。参列者も筆に結ばれた

五色のひもを持って加わっ創建当初の食堂は973

年に焼失。1005年に再建されたが、その後、再び

失われた。2017-5-26 朝日新聞 (吉沢範英)

石神社⇒⇒⇒
小山廃寺⇒⇒⇒ 
 南門をくぐった境内の東西の隅に龍王社と若宮社が向かい合って建っている。
冷たい風が松を揺らすと、忍び泣きのように聞こえる。これは大津皇子の無念
の泣き声といわれている。
 龍王社のご神体の龍神像は、躍動感があり眼下をにらんでおり、大津皇子
怒りを表している。
 龍王社も若宮社も皇子の鎮魂のために建てられたといわれている。 
 悲劇の大津皇子と龍神信仰⇒
   
 若宮社 龍王社 
   
 弁財天社 平木大明神社 
 
 不動堂

 
 
  玄奘三蔵院伽藍(げんじょうさんぞういんがらん)・
大唐西域壁画殿(だいとうさいいきへきがでん)

 「玄奘三蔵院伽藍中央の玄奘塔は、法相宗の
始祖・玄奘三蔵の頂骨を真身舎利(しんじんしゃり)
として奉安し、須弥壇(しゅみだん)には玄奘三蔵訳
経像(やっきょう)をお祀りしてしています。また、
大唐西域壁画殿は、平山郁夫画伯が三十年の歳
月をかけ完成された玄奘三蔵求法(くほう)の精神
を描いた壁画を絵身舎利(えしんしゃり)としてお祀
りするものです。」 秋季・春季に一般公開される。 

玄奘三蔵院伽藍 平成3年(1991)建立

 インドに佛教の真髄を求め、17年間の求法の旅をした中

国唐代の僧,玄奘三蔵 (600/602 ~664)の遺徳顕彰のた

めに建立された。玄奘塔には大川呈一氏作の玄装三蔵訳経

像と共に、玄装三蔵の頂骨を祀る。大唐西域壁画殿には、平

山郁夫氏の大壁画(7場面)が納められている。

玄奘三蔵絵伝への道 平山郁夫�⇒

お写経道場 昭和47年(1972)竣工

 仏ごころの養いの道場として昭和47年に開かれたお写経道

場。その規模は一度に180名がお写経することができる日本

最大級。午前8時半~午後5時まで開場。用具一切完備。

 
 薄墨桜
 
   
  稲荷孫太郎社 

   
薬師寺休丘八幡宮 (重文)
師寺休丘八幡宮緑起

 薬師寺は寛平年中(八八九~八九

七)に、別当の栄紹大法師が寺の鎮
守としてこの八幡宮の祭神である僧

形八幡神・神功皇后・仲津姫命(い
ずれも国宝)を勧請した。.

 現在の社殿(重要文化財)は幾

虔かの天炎・人災によう破壊、焼失

された後、慶長八年( 一六〇三)に

豊臣秀頼によって新造されたもので

ある。他に瑞垣門,楼門,中門等も

新造されたが地震で崩壊した。

 本殿は三間社流造で,両脇に脇殿が

接続している。脇殿は十九明神の板

絵(宝蔵殿に安置)が祀られている。

南北の細長い建物は座小屋と呼ばれ

寺僧の加行場としても使用されたが

明治以後残っている例は少ない。
また両脇に脇殿が付

属する社殿は少なく、しかも座小屋

まで残っている点で歴史的に重要な

建物とされているのみならず、明治

以後は神仏が分離され、一寺院が神

社を管理している例は少ない。

 将来はさらに神域を整備し、楼門

などの復興.と含め、神仏
習合の日本古来の信仰の姿にかえす

よき信仰の道場として復興したいと

念願している。



























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