第3番 補陀洛山 海住山寺地図

恭仁京跡(くにきょう)地図



海住山寺

 
恭仁京 海住山寺  五重塔(国宝)
国宝仏塔一覧  

 天平7年(735)聖武天皇の命により 東大寺良弁僧正が開創
した十一面観音を安置した藤尾山観音寺が始まりと言われ、現
在の伽藍は鎌倉時代に笠置寺の貞慶が補陀洛山海住山寺と名
づけて再興してからのもの。
 本堂の横にある五重塔(国宝)は鎌倉時代の傑作と言われ、初重
にある裳階(もこし)は、法隆寺と海住山寺にしか残っていない貴重
な建築様式。
 十一面観音像や文殊堂、絹本著色法華曼茶羅図、海住山寺
文書は国の重要文化財に指定されている。  

 五重塔建立八百年境内に建つ国宝の五重塔は、中興解脱上人
が後鳥羽上
皇より拝領された仏舎利を奉安するために建立
されたもの
です。高さは十七·七メートル、心柱が二階から上部
にあることと裳階が付加されている事が大きな特徴です。
建保二年(一二一四)に完成したといわれておりますので今年
で建
立八百年を迎えます。

 特別の内部には四本の柱の間に扉がもうけられ、柱·扉

天井周りには建立当初に画かれた絵が残っております。また

五重塔の中にまつられていたと考えられている鎌倉時代の四

天王像(重文)も安置しています。 

   
 本堂
十一面観音(重文)
 
 本尊 木造十一面観音立像(重文)が安置。
本堂は明治時代の建築。
京都・南山城十一面観音巡礼ポスターより 
平安時代高さ45.5cmの小ささで、
端正な面持ち。
 境内に建つ国宝五重塔は、中興解脱上人が後鳥羽上皇より拝領された仏舎利を奉安するために建立された
もの。
 高さ17.7m、心柱が2階から上部にあることと裳階が付加されていることが特徴。健保2年(1214)に完成
したといわれている。 
   
 楼門  大師像と鐘楼
 聖武天皇の勅願で天平7年(735)、良弁十一面観音像を本尊として建立し観音寺と号した。
保延3年(1137)に焼失した。
笠置寺の解脱上人貞慶(げだつしょうにんじょうけい)が再興。寺名も補陀楽山海住寺と改めた。
 現在、約1万坪といわれる境内に五重塔(国宝)、文殊堂(重文)本堂等が建つ。 
五重塔(国宝) 山門
 現存する鎌倉時代の五重塔で、中興の祖・解脱上人の一周忌に落慶法要が営まれた。
建保2年(1214)に建立され、塔内には木造四天王立像(重文)が安置されている。
ブリューゲルの「バベルの塔」は、縦60cm、横75cm

ほどの画面に約1400の人々が描かれたという。そ

れを単眼鏡で見ると、極細の短い線をシュッと引いた

だけなのに、明らかに動いている人間だとわかる。

さすがは世界的傑作。

一人ひとりの動きを追いかけるように見ていたら、あま

りの細かさに酔いそうなほどだった。

海住山寺奥の院の十一面観音立像(国重要文化財)

も「よくぞここまで」と思うほど、細部にこだわっ

ている。平安時代、9世紀の作で像高は45 . 5cmし

かないのに、頭上にある小さなお顔はどれもきりりと

彫られている。手首を見れば、腕輪の模様が一本ずつ

見える。

その彫りは、流れるようなラインを深く刻むことを

意識したのかもしれない。

なかなかに挑戦的な線だ。

もしこの像が、金箔や彩色を施す仏像だったら、それ

らがラインの印象を薄めたのではなかろうか。

檀像(だんぞう)、つまり香木の白檀から彫り出される
仏の系譜
であるため、香りをさえぎるものは極カ抑え
られる作
り方が用いられた。
それで
線の印象が深いのだと思う。実際には薄く色が塗ら

れていて、白檀ではなくカヤのような材が使われた可

能性があり、「檀像風」とも表現されるのだが。

海住山寺は、南に木津川を望む山の中腹にあり、ふ

もとには、奈良時代の一時期都が置かれた恭仁京があ

った。さらに南へ行けば城京が広がっていたから,

古代の歴史を見つめてきた場所にあると っていい

そこへ鎌倉時代に住まいを定めたのが、興福寺

僧、解脱上人貞慶(1155~1213)だった。
来の仏教を重んじ、念仏に批判的だった人だ ら、古

代の風が吹くところを求めたのだろうか。貞慶の念持

仏だったといわれる、この十一面観音像も「古」への

憧れかもしれない。

そう思ったらふと、法隆の「九面観音像」(国

宝、7~8世紀)を思い出した。こちらも高さ37·1

cmと小さいのに、細部の彫刻が見事だ。

あるとき貞慶が九面観音を拝み、そこで感じた「古」

を十一面観音に投影したなどと妄想してみるのだ

が、さて真相はどうだろう。

2017-10-14 朝日新聞 
(編集委員·小滝ちひろ)

 




恭仁京跡(くにきょう)地図

   
 恭仁京は聖武天皇が740年から3年余り置いた都。恭仁京は平城京から移された後、難波宮に遷都された。
碁盤の目のような区画(条坊)跡が見つかっている。大極殿のある恭仁宮跡から南西へ約5kmの国道163号バイパス予定地。
南北に走ると直角に交わる道が確認されている。ここは役所のような施設が短期間でなくなったとみられる。
 恭仁宮跡が立地する瓶原(みかのはら)地区は、京都府最南端に位置する木津川市加茂町にある。瓶原地区は、平城京跡
の北方に位置し、三方を急峻な山で囲まれ、南に木津川が流れる盆地となっている。恭仁宮は南に広がる自然地形を利用
して造営された。
 恭仁宮跡周辺には重要な寺院や古代の造幣局跡などが立地し、かってこの一帯が古代の中枢地区であった痕跡が明らかに
なってきた。
 
 木津川市教育委員会発行資料より
  みかの原 わきて流る々 泉川 いつみきとてか 恋しかるらむ
兼輔が詠んだ 瓶原(みかのはら)と呼ばれた地
百人一首27⇒⇒⇒ 
恭仁京  大仏に食われた和同銭  恭仁京 海住山寺 
大極殿痕跡  鴟尾 平城宮跡 五節舞 
安積親王の急死   長岡京   恭仁京朝堂院 
恭仁京謎の寺   聖武天皇 重ねた遷都  聖武天皇 重ねた遷都 
聖武天皇像解釈が覆る      
 
 
 

 奈良時代に聖武天皇(在位72-749年)が3年余り都を置いた恭仁京の

宮殿,恭仁宮跡(くにきょうせき・京都府木津川市、国史跡)について、天皇
が重要儀式の際に
出御する大極殿院を囲んでいたとされる回廊の南面

で、掘立柱式の簡素な塀跡がみつかった。府教委が16日発表した。
奈良時代の
城宮(奈良市)や難波宮(大阪市)では 大極殿院の南面は南門
や築地回廊な
ど格式の高い構造だったが、府教委は、恭仁宮については、
工期の問題などか
ら仮設の掘立柱塀で間に合わせた可能性が高いとみて

いる。

 府教委は昨年8~11月宮殿の中枢部にあたる大極殿院の南側に面し、役人
政務や儀式をした朝堂院との境目付近を発掘調査。東西方向に約3げの
間隔で五
つの柱の穴が出土し、掘立柱塀があったとみられる。

 これまでの調査で、大極殿院北西角付近から築地回廊の屋根の柱を支え
る礎石
跡がみつかり、奈良市の平城宮大極殿院から移築されたとみられるこ
とは分かっ
ていた。今回の調査で、南面は大規模な門を持たない簡素な構造
だったとみられ
ることが明らかになった。
   2019-1-17  朝日新聞

   
   山城国分寺金堂跡 (恭仁宮大極殿跡) 
 
 あすか石、藤原宮→平城宮→恭仁宮に
運ばれた。

   
 山城国分寺塔跡 (恭仁宮跡)  
 疎石が並ぶ。
 恭仁京の大極殿を金堂として建立された山城国分寺は、南山城の仏教文化の中心となった。
 平城京のすぐ北、木津川沿いに広がる南山城地域は、7世紀前半の飛鳥時代からいち早く
仏教を受容した地域だった。 
 この時代全国的に天然痘が流行し、人々の不安は高まっていた。
また、政治面においても、大きな権力を持っていた藤原四兄弟が相次いでこの世を去り、
皇族出身の橘諸兄が政治の主導権を握った。
しかし、これに不満を持った藤原広嗣が反乱を起こした。
 天平12年(740)、聖武天皇は、疫病や戦乱に見舞われ、社会不安が全国的に高まって
いた事態を一掃するため、平城京から遷都を決意し、山背国相楽郡恭仁郷を新しい都と定
め遷都した。その後、紫香楽、難波宮、再び平城京へと都が移って行った。
 短命な都であったが、この間、諸国(66)壱岐、対馬を加えて68ヵ国の国分寺・国分尼寺
建立を命じたり、墾田永年私財法など重要な政策を行った。
 
 山城国分寺塔跡 (恭仁宮跡)
 海住山寺からは、遥か麓に恭仁京跡がある。
恭仁宮の大極殿跡は、740年(天平12年)12月に聖武天皇は恭仁京へ遷都を発表し、橘諸兄に命じた。
3年余りで難波宮に遷都したため幻の都とも呼ばれる。恭仁京は3年余りで廃都になった。
しかし、柱穴は3mほどの間隔で4つならんでおり、直径1.5m~1.7m。
柱穴の大きさや間隔は平城京の朝堂とほぼ同じ大きさである。
 恭仁京廃都後、山城国国分寺が移された。
国分寺は882年(元慶6年)に焼失、次第に衰退し、江戸時代には草堂を残すのみになった。
 奈良時代に聖武天皇平城宮から離れ、伊賀、伊勢、美濃、近江などを転々としたのち、
現在の木津川市加茂長瓶原(みかのはら)に入り、ここに都を作る事を宣言した。
東西750m、南北560mの長方形の宮城をもつ都が計画さた。それが恭仁京で、約4年間都を置いた。
わずか4年の都であったため「幻の都」とも言われるが、平城京から天皇が執政した大極殿など移築
するなど、本格的な都の造営を目指していた。
 朝堂院の配置から平城宮をモデルに造営された。

 天平16年(744)に都が難波宮へ移った為にあしかけ5年の短い期間ではあったが、その間に国分寺·
国分尼寺建立の詔、大仏造立の詔、墾田永年私財法の発布という画期的な政策が打ち出されたこと
からも、恭仁京時代は大変重要な時期であったといえる。

 宮殿の跡には山城国分寺が建立され、現在は大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残り、昭和32年(195
7)国の史跡に指定され、平成19年(2007)には史跡名称が「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」となった。

 天平12年(740)、大宰少弐藤原弘嗣が乱を起こした。すると、聖武天皇は突如、平城京を出て東国
に行幸し、乱が平定された後も、平城京には戻らず、山背国の恭仁(くに)にとどまって遷都し、恭仁宮・
恭仁京の造営が行われた。
 やがて、聖武天皇は天平12年(744)閏正月には、難波宮に行幸した。
 そして、2月26日、難波宮に遷都する勅が橘諸兄によって宣言された。
(3年余りで難波宮へ遷都したため幻の都とも呼ばれる。)
しかし、その2日前に聖武天皇は近江の紫香楽に行幸し、大仏造立をすすめていた。
 皇都となった難波宮では、再び首都として、整備が行われたであろう。
 聖武天皇による恭仁京、難波京、紫香楽間の彷徨も、天平17年(745)5月、天皇の平城京への遷都
によっておさまった。
 平城京  710~740年
 恭仁京  740~744年
 難波宮  744年
 紫香楽宮 745年
 平城京  745~784年
 長岡京  784~794年
 平安京  794年