第30代 敏達天皇(びたつ)地図
父…欽明天皇(第二皇子) |
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任那は欽明天皇23年(562)に新羅に滅亡された。敏達天皇は御父君の御遺詔(いしょう)である任那日本府の回復に執心されていた。 国内では、仏法をめぐり物部、蘇我両氏の間に抗争が絶えなかった時だある。 上記にあるように、蘇我馬子が石川精舎(いしかわのしょうじゃ・橿原市石川町・地図)を建てたり、大野ノ丘(橿原市和田町)の塔をつくったりしていた。 たまたま疫病が流行して死亡する者がおびただしく出た。物部、中臣二氏はこれは蘇我氏が仏法を興したためであろうと天皇に奏上して仏法をやめさせた。仏をやき、やけ残った仏像を難波の堀江(明日香村豊浦)にすて、善信尼等の僧を捕らえて「つば市」の馬屋館にて鞭打ちの刑に処したりした。 しかしそのころ、天皇、物部大連等が疱瘡にかかるということが起こった。これは仏を焼いたりした罪の報いだと蘇我馬子が主張したので、天皇は、馬子だけは仏をまっつてよろしいと許され、やがて仏法の復興をみるに至った。 その後、善信尼らは崇峻天皇元年(588)百済国使について百済に行き、翌崇峻天皇2年(589)3月に帰国し、桜井寺 に住んだ。
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陵墓… 所在地…大阪府南河内郡太子町大字太子字奥広 ○御陵は天王山と称されている。ほぼ西北面する三段築成の前方後円墳である。全長112m、後円部径52m、前方部幅67mで深い空濠 が囲る。歴代天皇陵の前方後円形を示す最後の御陵である。 一墳に陵名が二つある母子合葬墓といわれている。 |