纒向遺跡(まきむくいせき)地図
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の南北1.5km、東西2km纏向遺跡は 2世紀末~4世紀初めとされ、大和王権の中心地が移ったためか纏向は4世紀の前半に 消滅する。 その後、大王墓が営まれる場所は大和古墳群から佐紀・盾列古墳群、古市・百舌鳥古墳群へと 移る。 |
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河道跡・ 土坑・掘立柱建物跡・ 大溝などの多数の遺構と、土器や木製品など 多数の遺物が発見されれている。土器は各器種を含み、 南関東から東海、 瀬戸内地方、 農業集落にはみられない要素をもつ。 また巨大な前方後円墳が遺跡地の付近に多い。 |
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近くには卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳の他、前方後円墳発祥の地とされる古墳が 5基(纏向石塚古墳他3基⇒⇒⇒、ホケノ山古墳⇒⇒⇒)が点在する。 また、神が鎮座する三輪山がある。 |
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木製仮面 | ベニバナの花粉 | ベニバナの花 |
桜井市立埋蔵文化財センター展示より | ||
今回の建物跡西400mの場所では呪術的効能もあったというベニバナ花粉が出土、 南300mからは呪術に使われたとみられる国内最古の木製仮面(3世紀前半)が発見されている。 仮面について⇒⇒⇒ |
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奈良県桜井市大福遺跡で、木製の仮面の一部(弥生時代末~古墳時代初頭、2世紀 後半)が見つかった。 古代の木製仮面としては、女王卑弥呼の治めた耶馬台国有力候補とされる近くにある 纏向遺跡で出土した例を数十年さかのぼり、国内最古。 2013-5-31 |
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木製仮面の長さは約26cm、幅約21.5cm。アカガシ亜属製の広鍬を転用して作られたもので、 口は鍬の柄孔をそのまま利用しているが両目部分は新たに穿孔(せんこう)しており、高く削り残した 鼻には鼻孔の表現も施されている。眉毛は線刻によって表現されており周辺にはわずかに赤色顔料 の付着が認められ国内最古の事例である。 |
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ベニバナの用途には染料や漢方薬・紅などがあるが、纏向遺跡のものはその花粉量の多さから、 溝に流された染織用の染料の廃液に含まれていたと考えられている。ベニバナは本来日本には 自生しない植物で、染織など当時の最新技術を持った渡来人とともに伝来したと見られ、纏向遺跡の 首長層が大陸系の高度な技術集団を抱えていたことが窺える資料である。 |
東 | ||
北 | 南 | |
西 | ||
今回発掘されたのは、建物D跡。 |
西 | ||
南 | 北 | |
東 | ||
2009-11-11付朝日新聞より 上より建物跡A、B、C、D |
建物左よりA、B、C、D 建物Dが東に位置する |
建物D |
「建物Cより6.4m程東側に位置し、3世紀代では日本最大の規模をもつ 大型建物です。 その大きさは調査の状況や建築学的な検討から 南北4間(19.2m)×東西4間(12.4m)、床面積238.08㎡として 復元でき、それぞれの柱間は南北間で4.8m前後、 東西間で3.1m前後になります。 建物の柱穴は全て一辺1m~1.7mの方形プランのもので、 柱材は全て抜き取りが行われ、柱穴内には残っていませんが、 残された柱の痕跡からその太さは32cm前後のものと推定されます。 また、南北の柱間のほぼ中央には径40cm前後、柱の太さ約15cmの 円形柱穴が並ぶことから、 建物の床を支える束柱をもつことがかんがえられます。」 大型建物(建物D)の基礎データ 規模:南北8間(約24.8m) ×東西4間(約12.4m) 床面積::約238.08 ㎡ 主柱(規模) ::一辺1m角から1m×1.7mのもの (プラン):方形もしくは長方形 (柱の太さ) : 32cm前後 束柱(規模)::径40cm前後のもの (プラン)::円形 (柱の太さ): 15cm前後 |
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建物Ⅾ 復元による建物は東西約12.4m×南北約19.2m、 床面積約238mと大型で、 方形や長方形の柱穴には直径約32cmの柱が推定され、 約 4.8mと広い南北 |
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建物C 建物の一部が他の遺構によって壊され、正確な規模は不明ですが、 建物の 復元された建物は東西1間(約5.2 m)×南北3間(約8 m)、床面積約 41.6 ㎡ 柱穴は楕円形のものが多く、大きさは直径70~80 cmと大きめでしたが、使 |
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建物B 発掘調査により確認された柱穴は、円形のもので、大きさは直径50~60 cm なお、建物西辺の南から2つめの柱穴からは、建物を解体し、柱を抜き取っ |
写真は2009-11-10発表の3世紀前半の大型建物跡1棟が見つかった。 この時期の建物としては国内最大の面積で、以前に発掘された3棟とともに4棟の中心線が東西同一線上に並ぶ。 |
建物跡の遺構から、建物の高さは10mに達するとみられている。 形状から儀式、祭祀を行う場所だった可能性がある。 建物西側の柵列には出入り口はない模様。政治空間ならば多数の人が出入りする。 出入りのない祭祀空間ではないかとみられている。卑弥呼がいて鬼道(呪術)をしていたとも考えられる。 |
卑弥呼の宮と言えるには、古代中国などで用いられた封泥(ふうでい)が見つかることである。 封泥とは、封印の一種で、皇帝からの勅書が開封されないようひもで縛り、 その上から塗った粘土に押した皇帝信璽(しんじ)など。 |
建物Ⅾの杭の状況を示す。太い杭が建物を支え、 細い杭が床を支える。 |
2009年に確認された3世紀前半(弥生時代末~古墳時代初め)の大型建物跡の東側から、建物跡1棟が見つかった。 大型建物跡などの建物群と同じ東西の同一線上に中心軸が並ぶことから同時期の建物とみられる。 今回確認された建物跡は、上記建物跡Dの東側で見つかった。方形の柱穴が10個(一辺40~60cm)見つかり、 東西3.4m、南北6.7mの規模だったみられる。 今回3世紀後半~4世紀前半(古墳時代前期)の溝の跡も確認された。これまでの調査で、一帯では6世紀ごろまで 続く遺構遺構が確認されており、邪馬台国から初期ヤマト王権まで、重要な建物が継続して造営され続けてきた可能性 があるとされる。 初期ヤマト王権の崇神、垂仁、景行の3代の大王(天皇)が巻向周辺に宮を置いた。天皇と宮の名⇒⇒⇒ 2014-2-7 朝日新聞より |
熱帯アジア原産のバジルの花粉が確認されている。 これは中国王朝との交流を通じて薬用目的などで運ばれた可能性が高いとみられる。 花粉は纏向石塚古墳の南約50mの溝で見つかった。 |
「纒向」その後 纒向遺跡の存続期間は約100年と考えられ、その前後は遺構が極端に少なくなります。近年の調査 では前期の埋没古墳がいくつか確認されていますが(ビハクビ古墳など)、基本的に遺構はか なり減少するようです。ただし大型掘立柱建物の調査の際に、居館跡の一部になる可能性が考えられ る溝SX1001-1002が同じ調査区から確認されており、「纒向」以後も場所によっては何らかの施 設があるようです。纒向遺跡の周辺では大王の宮の伝承地がいくつか存在する事もあり、初期の宮跡 の構造とその周辺がどのような景観を持つのか次第ではこれらの遺構の重要性がより大きくなると考 えられます。 古墳時代中期以降は、纒向遺跡の範囲の南側で、三輪山を中心に拡がる磐座祭祀遺跡群や茅原 纒向遺跡の中には、100 m前後の 纒向型』と呼ばれる纒向石塚・矢塚・勝山・東田大塚・. ホケノ山古墳と約280 mの箸墓古墳が所在します。時期はこれまでの調査で出土した土 器から3世紀と考えられ、築造順は諸説ありますが纒向石塚→矢塚→勝山→ホケノ山・東 田大塚・箸墓と推測されます。他に纒向石塚・矢塚・勝山を同時期とする説もあります。 なおこれら以外にも墳丘が削平され地中に基底部が残存している古墳や方形周溝墓も確認 されています。 |
「纏向遺跡」の説明 |